萬日記 ガラクタ部屋とも云う -20ページ目

雷神トールとミッドガルド蛇Thor Battling the Midgard Serpent



雷神トールとミットガルド蛇

上記画像は画素が少ないので原画は此方↓
http://www.uploader.jp/dl/courts/courts_uljp00008.jpg.html
とっても重たいので覚悟してDLして下さい。

全裸の方が絵画的で良かったかな・・・

後で書き直します。A=´、`=)ゞ





ミッドガルド蛇もしくはヨルムンガント蛇


是に到るまでのどうでもいいトリビア↓

海の巨人エーギルの黄金宮にアズガルドの神々がやってきて、行き成り宴会を強要される。
 腹に据えかねたエーギルは「神々全部の酒が賄いきれるだけの鍋がない限りそんな事は出来ん」と言い放ちます。
 片腕の神チュールは自分の親父である巨人のヒミルが途轍もない大鍋を持っていることを思い出し、トールと共にヒミルの屋敷へ向かいます。
ヒミルは「自分よりよわっちい奴にはやれんなー」と言い拒否しますが、「それならば暫らく置いてみて試してみるがいい」とトールは答えます。
 本当は行き成りミヨニルで頭を叩き割りたかったのですがチュールの父親でもあるので此処はトールは彼の顔を立てて引き下がります。
 食料を仕入れに海に漁にでることとなりヒミルとトールは一緒に同行します。
 船は沖へ沖へと進みヒミルは鯨を二頭仕留めますがトールは未だです。
トールはこれ以上無いと言う位の頑丈な仕掛けと大きな牡牛の頭を用意していました。
 ヒミルはこれ以上沖に行くとヨルムンガンド蛇の領域に入るためもうそろそろ引き返そうと言いますが、トールは聞く耳もたずドンドン沖へと行き、そこで釣りを始めます。
 そこで巨大な世界蛇ヨルムンガンド蛇を釣り上げてしまいます。
ヒミルはそのヨルムンガンド蛇の恐ろしさに船縁に掴まって震えるしかなく、船が沈没寸前まで追い込まれてしまったので短刀でその釣り糸を切り落とす事しか出来ませんでした。

クロード・ドビュッシーの指環四部作の批評



ロンドンで聴いたワーグナー


Gil plus (ジル・プラス)1903年六月1日より

「四部作」を四晩立て続けに聴けば、最も強壮な頭脳と言えども、如何なる有様を呈するものか、これは中々想像し難い。

「ライトモチーフ」がカドリーユを踊っている。

「ジークフリートの角笛」のモチーフが「ヴォータンの槍」と組になり、向かい合って厳に耐えぬという顔をしていると思えば、「呪詛」のテーマが、耳に付いて離れぬようなしつこい調子で男だけのカドリーユを奏で続ける。

 実際、こいつは憑き物以上である。身包みの没収だ。君はもう君に属していないのさ。君は「四部作」特有の雰囲気の中を動き回る「ライトモチーフ」の一片に過ぎない。

 日常生活のお作法は、今後、我々が人に向かって大声挙げて如何呼ばわろうとも、「ワルキューレ」の次の様ながなり声でさえ無ければ、すべて許される事であろう―――「ホイヨートッホッ!ヘイアッハァ!ホョッヘイ!」全く愉快な事になったものさ。「ホョッヘイ!」。新聞売り子がこう叫ぶ「ホイヤッホー!」

 ああ、助けてくれ。兜を被り、獣の皮を着た連中が、四晩目に至っては、もう我慢できないものになる。

考えて頂きたい。そいつらがあの呪われた「ライトモチーフ」を必ず従えて登場するのだ。

其ればかりでは無い。「ライトモチーフ」を歌っている奴らも居る。それは例えば名刺を君に渡しながら名刺の字面に節を付けて読み上げる男のお愛嬌に似ている。

はっきり言って、これは最も始末の悪い効果の二重の使用だ。

そして四晩に渡って、一旦失われ、継いで発見される指環、手から手へとまるで「麦摘んで」の遊びの様に渡されてゆく指環のあの物語に対する無数の注釈を我々に押し付けるオーケストラに割り当てられた心理的役割が、これでは台無しに為るのではないか。

自分の周りで何が起こっているのか、まるっきり解っていないヴォ―タンの頓馬さ加減を如何にか自然らしく見せるのに、オーケストラは役立っているに過ぎないのではないか。

実際、神々のこの主(あるじ)は、神々の中でも跳び抜けて間抜けな奴だ。ニーベルングの工房に蹲(うずくま)っている小人達の内の最も不具な者にも理解出来そうな物語を、暇に明かして飽きもせず物語らせ、其れを聴いている。

だが彼は、槍を振り回したり、或いは火焔を発せしめたり、或いは一切を又拗(こじ)らせてしまうような如何にも手の施しようも無い「ヘマ」をやる事しか出来ない人物である。

四晩という長い時間を持ち堪える、ああいう事が必要なのだと君は反論するかもしれない。巨人の仕事と、コチコチのワーグナー信者は信じ切っているようだ。


超人的な努力、質並びに量を同時に求める自尊の念に満ちた虚栄心。

同じ一本の知性の釘を性懲りも無く叩こうという、あのドイツ的欲求によって、不幸にも毒された努力。

何とか理解させようという配慮の程は解るが、其れを要らざる繰り返しの為に、如何し様も無くぼやけてしまう。


そればかりでは無い。「四部作」の登場人物達は、底も知れぬ様な自尊心の海に数珠繋ぎになって現れる。自分の行為を弁明する気など、彼らには露程も持ち合せが無い。さも曰く有り気な軽蔑の色を浮かべつつ、彼らは出たり入ったり、互いに殺し合ったりしている。

そんな具合にして「神々の黄昏」では、ハーゲンが下劣な小人の父親の影響と称してジークフリートを抹殺するが、この卑怯な行為を見ている「獣の皮」達は、誰一人として、今度はハーゲンを抹殺するという単純な方法を思いつかない。

しかしながら、神のみは、こいつ等が申し分の無い出来損ないである事を知っていらっしゃる。

同じ劇中でも、逞しい乙女ブリュンヒルデが、まるで何も知らない未通(おぼこ)娘の様にハーゲンとグンターの為に一杯喰わされる。神の娘たる事は、真に苦しからぬ事である。彼女はやがて、素敵な甲冑に誇りを持っている戦争好きなジークフリートを愛する。彼は多少とも、彼女の兄弟である。(ヴォ―タンの不品行の御蔭で「四部作」の登場人物全員は、多少とも兄弟姉妹の関係に在るのだから・・・・・)

そこで彼女は、決して褒めたものでは無い様なやり方で復讐し、彼を裏切らねばならなかったのだ。そして、自分の神性を失った事を弁解するのに、彼女は騙された良い子の流儀を採るのだろう。

神様特有の言行不一致が、もう少し後になってジークフリートを抹殺するゆとりを彼女に与えるだろうし、ただ彼女独りがあの肉体の上を泳ぎ、必要な身振りをする事が出来たのだと宣言しに来るゆとりを彼女に与えるのだろう。

何故なら、これまで「獣の皮」と呼ばれていたあの哀れな連中には、如何に多忙だったとはいえ、竜を殺したり、小鳥の歌手に聴き入ったりして、ただ、世俗的な教育が少々不足していたあの若い英雄の気高いものの見方が、全然理解出来なかったのだ。

彼女はあの英雄の死にも、あの遺憾な結末には、全く責任が無いかのようである。

ホヨトッホー!ブラヴォー!ホョッヘイ!巧く出来てますね。


 既に言った様に「四部作」には子供っぽい御伽噺のような所が在る。そして竜が歌い、小鳥が聞き捨てならぬ助言をし、一頭の熊、二羽の鴉、二頭以上の(正確な数は忘れた)黒い羊が魅力的な仕方で関与するような所には、何ら滑稽な物は無いにしても、残忍な人間性と神の様な非人間性とのあの混合には、揉め事が付いて廻らずには済まないのだ。

恐らく首まで真らしからぬ物の世界に浸って、人間的な弱さなど一切お構い無しに、勇敢に歩く覚悟は在ってしかるべきだった。

さもなければ、「四部作」の英雄達値打ちを下げることに為る。

コン畜生、神たれかし。御伽噺であれかし。

だが、何の新味も無く、又何の足しにも為らぬ様な人生教訓など盛り込まなくてよかったのだ。


 ところでしかし、以上は劇場批評の言いそうな事で、私には本当の所、如何でも良い事である。

「四部作」には、熱っぽくて美しい場面が幾つか在る。その事を書いて於く方が私の気持ちに適っている。

こんなものが音楽だろうか、こんなものがオペラだろうか、一体何の因果で、忌々しいと思わずに居れぬ程退屈な場面の真っ最中に、突然、凡そ一切の批評を封じてしまう程心に滲み透る美しい場面が現れるのだ。海と云うモノがそうである様に抵抗出来ないようなと言っても良い。

どうにか一分間続く、否、一分以上の事もしばしばだ。そういう素晴らしい場面について、ここで先入見を注入するのは止めて置こう。或いはそれは君の好みに合わぬかも知れない。しかし、どんな好みにも充分な満足を与えるだけのものを持っている場面もある。


 とにかく、「四部作」程の注目すべき作品については批評は止めだ!これは一つの巨大な建造物であり、その輪郭は范漠と無限の中に溶け入っているのだ。余りにも壮大なので、大きさを掴みたいという尤もな気持ちヘナヘナとなってしまう。

そして、我々は思わず知らず知らずのうちこの巨大な建築のほんの小さな石一つでも動かせば、建築は忽ち崩壊するのではないかという恐怖に襲われる。全人類を呑み込んでしまう「神々の黄昏」のフィナーレは、その見事な実例である。

一方、オリンポスでは、神々が現代のプロメテ達をニヤニヤしながら眺めている(現代のプロメテ達云々、という表現は私の好みではないが、ワーグナーを念頭おいてこう云ってみると、まったくぴったりで、うれしくなっちまうね)。



杉本秀太郎氏の訳から抜粋


以前の記事 を読めば解りますが、なんだかんだ云いながらドビュッシーは指環には太刀打ち出来ない気がします。

Pelleas et Melisand ペレアスとメリザンド の宣伝


ペアレスとメリザンド 1
ちょっと宣伝します。

管理人では在りませんが・・・

ドビュッシーのペアレスとメリザンド関連でいらした方へ!!

ご興味お在りでしたら、ミクシーのコミュをお勧めします。


http://mixi.jp/view_community.pl?id=814096


とても素敵な内容の割には本家ドビュッシーのコミュの中で過疎っているので、

ご興味御座いましたら、公開コミュなので覗いて見てよろしいかと思います。


それでお気に召し足ればご参加ください。


ミクシーなんか知らねーよウァァァァヾ(`д´)ノァァァァァンの方でしたら、

ご招待致しますのでお気軽にメッセージどうぞ。


関連記事どうぞ(*^ー^)ノ

http://blog.so-net.ne.jp/euridiceneeds/2006-04-17  

ちょっと硬いものが続き、私らしからぬので息抜き脱線。

皆はボクフリ派?トランクス派?ブリーフ派?


というテーマが在りましたので脱線します。


正直、当て嵌まりませんw


ノーパンという訳では無く、褌愛用してます。

あちらに住んでいたとき日本の文化と云うものを客観的に見つめ直す機会が在りましたので、その時以来でしょうか。

越中は確かに楽でいいのですが、気分的には六尺が好きです。

肛門を通常的に意識できるので、男性機能維持に(持続力と書き換えてた方が理解し易い?)役に立ちます。
肛門の開け閉めを気がついた時にやると良いですよ。

(房中術としては蛇の生殺し状態が良いのですが、またこれは別な機会に)


褌のいでたちがカッコよく思えるので、その結果がジークフリートの褌姿なんで。

ジークフリートはターザンを意識したのですが、ターザン風の腰巻だとどうにもセクシーさが出てこないゆえ、褌を締めさせてみた訳です。

フラゼッタのイラストでは男の尻が暫し描かれてますがまたこれがセクシー且つカッコ良いので自分でも表現する事が出来ないかとかの思いがあったりした結果ですね。



siegfried 22
Siegfried 33



参照

某巨大掲示板






クロード・ドビュッシーが続いたので、彼がアンチ・ワグネリアンぶりを発揮したモノを引用します。

ワーグナーに対してどのように思っていたのかの変化ぶりが面白いので引用します。

クロード・ドビュッシーは、初めは礼讃者であったのにライト・モチーフゆえにワーグナーから離れた人で
彼のワーグナー嫌悪示すエピソードがアンドレ・フォンティーナスの「象徴主義の想い出」1928、パリ版で書かれてます。


 男寡のピエール・ルイスの部屋。甘く気だるい夏の夕刻のひと時。
微風と花の薫りが開け放たれた窓から侵入してくる。
私たちは美術や文学のあれやこれやを盛んにお喋りしている・・・
ピアノに触れるか触れないかぐらい軽く指を走らせているクロード・ドビュッシーは私達の話題にというよりは自分の思いに没入しているようだ。

 私たちは最近聴いたリヒヤルト・ワーグナーの作品を誉めそやしていた所だったと思う。
 突然緊張を解したとでも言うように、彼の片手から絶妙な、そして即興の音のアラベスクが紡ぎだされてくる。
黒っぽい硬い巻き毛の下、夢見る測り知れない深さの瞳を湛えた長い青白い貌が、物静かでありながら、大胆に、皮肉の色を浮かべながら動きだした。

ドビュッシーは記憶の中から躊躇う事も無く、ミス・タッチも無く、澱んだり弾き直す事も無く、次々とモティーフの驚嘆すべき飛翔を弾き出していった。
 しかも唯、旋律を追っていくと言う感じよりも、表情豊かな、強力な色合いを付けて演奏するのである。
 私たちは、ワーグナー狂だった。
ほんの数年前、ピエール・ルイスとフェルナンド・エロルドの私の三人は『タンホイザー』、『トリスタンとイゾルデ』、それにまだそこでしか聴けない『パルジファル』を聴きにバイロイトを再訪した。
・・・私たちはそれらの作品を称賛し、マラルメが書いているような確信にまで到った。
―――私たちは熱狂的な巡礼者の仲間入りをしていた。
「オオ、ワーグナーよ、貴方の芸術は・・・理想(イデアル)へ向かう人類の旅路の終着点だ。」
 とまで思いを馳せていた。
 しかし、比類なき正確さでオーケストレーションの煌く響きをピアノで再現していたクロード・ドビュッシーは、はたと指を止め、私達の方へ身体を乗り出して、突然、威々高々になり、有無をも言わせぬ調子で糾問した。


なんだって!君たちには分らないのか?
そりゃあ彼の力は恐るべきものさ。でも、その力にも拘わらずワーグナーが音楽を迷わせたやり方ときたら、不毛で害に満ちたものだ。
 ワーグナーはベートーヴェンから恐ろしい遺産を引き継いだ。概、ベートーヴェンにとって展開の技は繰り返しさ、同じモチーフを何度も何度も反復する事だ。
 『田園』やどんな有名なソナタでもいい、こういうパッセージを聴いてみるといい」

 そう言って彼はピアノに向かい、断片を幾つか弾いた。
「ワーグナーはこのやり方をカリカルチャアと言えるほど強調した。
僕はライトモティーフが大嫌いだ。仮に彼が悪用せず、只管趣味の良い、分別のある使い方をしたとしてもだ。
一つの作品で一つの同じ情緒を二度表現できるなんで考えられるか?
思考が停止しているか、怠慢のどっちかだよ。
リズムや調子の変化で騙されちゃいけない。欺瞞を一層高く買わされるだけの事さ。
分って欲しいな―――僕はモティーフから完全に解放された音楽、あるいは―――唯一つのモティーフだけが続いて他の邪魔が一切入らず、そのモティーフが再現される事も無いという構成の音楽を書ける様になりたい。
その時は、理論的な、モティーフと密接な、演繹的な展開はあるだろう。 
 しかし、作品の特色と核心を示すモティーフが二度繰り返される間隙(かんげき)を急拵えの、余計なもので埋めるなどということはないだろう。
 展開は最早そのような素材の増殖とは違う物になるだろう。
つまり、優秀な授業によって培われる職業的なレトリックでは無くなるのだ。
言い換えれば、展開はもっと普遍的な、要するに心霊的(プシシーク)な次元で行なうことになるだろう。 



ニーチェに負けず劣らすの雄弁ぶりだ・・・
是だけ完璧に弾き熟せるというのはある意味物凄い耽溺してたのだろーな・・・