クロード・ドビュッシーの指環四部作の批評
ロンドンで聴いたワーグナー
Gil plus (ジル・プラス)1903年六月1日より
「四部作」を四晩立て続けに聴けば、最も強壮な頭脳と言えども、如何なる有様を呈するものか、これは中々想像し難い。
「ライトモチーフ」がカドリーユを踊っている。
「ジークフリートの角笛」のモチーフが「ヴォータンの槍」と組になり、向かい合って厳に耐えぬという顔をしていると思えば、「呪詛」のテーマが、耳に付いて離れぬようなしつこい調子で男だけのカドリーユを奏で続ける。
実際、こいつは憑き物以上である。身包みの没収だ。君はもう君に属していないのさ。君は「四部作」特有の雰囲気の中を動き回る「ライトモチーフ」の一片に過ぎない。
日常生活のお作法は、今後、我々が人に向かって大声挙げて如何呼ばわろうとも、「ワルキューレ」の次の様ながなり声でさえ無ければ、すべて許される事であろう―――「ホイヨートッホッ!ヘイアッハァ!ホョッヘイ!」全く愉快な事になったものさ。「ホョッヘイ!」。新聞売り子がこう叫ぶ「ホイヤッホー!」
ああ、助けてくれ。兜を被り、獣の皮を着た連中が、四晩目に至っては、もう我慢できないものになる。
考えて頂きたい。そいつらがあの呪われた「ライトモチーフ」を必ず従えて登場するのだ。
其ればかりでは無い。「ライトモチーフ」を歌っている奴らも居る。それは例えば名刺を君に渡しながら名刺の字面に節を付けて読み上げる男のお愛嬌に似ている。
はっきり言って、これは最も始末の悪い効果の二重の使用だ。
そして四晩に渡って、一旦失われ、継いで発見される指環、手から手へとまるで「麦摘んで」の遊びの様に渡されてゆく指環のあの物語に対する無数の注釈を我々に押し付けるオーケストラに割り当てられた心理的役割が、これでは台無しに為るのではないか。
自分の周りで何が起こっているのか、まるっきり解っていないヴォ―タンの頓馬さ加減を如何にか自然らしく見せるのに、オーケストラは役立っているに過ぎないのではないか。
実際、神々のこの主(あるじ)は、神々の中でも跳び抜けて間抜けな奴だ。ニーベルングの工房に蹲(うずくま)っている小人達の内の最も不具な者にも理解出来そうな物語を、暇に明かして飽きもせず物語らせ、其れを聴いている。
だが彼は、槍を振り回したり、或いは火焔を発せしめたり、或いは一切を又拗(こじ)らせてしまうような如何にも手の施しようも無い「ヘマ」をやる事しか出来ない人物である。
四晩という長い時間を持ち堪える、ああいう事が必要なのだと君は反論するかもしれない。巨人の仕事と、コチコチのワーグナー信者は信じ切っているようだ。
超人的な努力、質並びに量を同時に求める自尊の念に満ちた虚栄心。
同じ一本の知性の釘を性懲りも無く叩こうという、あのドイツ的欲求によって、不幸にも毒された努力。
何とか理解させようという配慮の程は解るが、其れを要らざる繰り返しの為に、如何し様も無くぼやけてしまう。
そればかりでは無い。「四部作」の登場人物達は、底も知れぬ様な自尊心の海に数珠繋ぎになって現れる。自分の行為を弁明する気など、彼らには露程も持ち合せが無い。さも曰く有り気な軽蔑の色を浮かべつつ、彼らは出たり入ったり、互いに殺し合ったりしている。
そんな具合にして「神々の黄昏」では、ハーゲンが下劣な小人の父親の影響と称してジークフリートを抹殺するが、この卑怯な行為を見ている「獣の皮」達は、誰一人として、今度はハーゲンを抹殺するという単純な方法を思いつかない。
しかしながら、神のみは、こいつ等が申し分の無い出来損ないである事を知っていらっしゃる。
同じ劇中でも、逞しい乙女ブリュンヒルデが、まるで何も知らない未通(おぼこ)娘の様にハーゲンとグンターの為に一杯喰わされる。神の娘たる事は、真に苦しからぬ事である。彼女はやがて、素敵な甲冑に誇りを持っている戦争好きなジークフリートを愛する。彼は多少とも、彼女の兄弟である。(ヴォ―タンの不品行の御蔭で「四部作」の登場人物全員は、多少とも兄弟姉妹の関係に在るのだから・・・・・)
そこで彼女は、決して褒めたものでは無い様なやり方で復讐し、彼を裏切らねばならなかったのだ。そして、自分の神性を失った事を弁解するのに、彼女は騙された良い子の流儀を採るのだろう。
神様特有の言行不一致が、もう少し後になってジークフリートを抹殺するゆとりを彼女に与えるだろうし、ただ彼女独りがあの肉体の上を泳ぎ、必要な身振りをする事が出来たのだと宣言しに来るゆとりを彼女に与えるのだろう。
何故なら、これまで「獣の皮」と呼ばれていたあの哀れな連中には、如何に多忙だったとはいえ、竜を殺したり、小鳥の歌手に聴き入ったりして、ただ、世俗的な教育が少々不足していたあの若い英雄の気高いものの見方が、全然理解出来なかったのだ。
彼女はあの英雄の死にも、あの遺憾な結末には、全く責任が無いかのようである。
ホヨトッホー!ブラヴォー!ホョッヘイ!巧く出来てますね。
既に言った様に「四部作」には子供っぽい御伽噺のような所が在る。そして竜が歌い、小鳥が聞き捨てならぬ助言をし、一頭の熊、二羽の鴉、二頭以上の(正確な数は忘れた)黒い羊が魅力的な仕方で関与するような所には、何ら滑稽な物は無いにしても、残忍な人間性と神の様な非人間性とのあの混合には、揉め事が付いて廻らずには済まないのだ。
恐らく首まで真らしからぬ物の世界に浸って、人間的な弱さなど一切お構い無しに、勇敢に歩く覚悟は在ってしかるべきだった。
さもなければ、「四部作」の英雄達値打ちを下げることに為る。
コン畜生、神たれかし。御伽噺であれかし。
だが、何の新味も無く、又何の足しにも為らぬ様な人生教訓など盛り込まなくてよかったのだ。
ところでしかし、以上は劇場批評の言いそうな事で、私には本当の所、如何でも良い事である。
「四部作」には、熱っぽくて美しい場面が幾つか在る。その事を書いて於く方が私の気持ちに適っている。
こんなものが音楽だろうか、こんなものがオペラだろうか、一体何の因果で、忌々しいと思わずに居れぬ程退屈な場面の真っ最中に、突然、凡そ一切の批評を封じてしまう程心に滲み透る美しい場面が現れるのだ。海と云うモノがそうである様に抵抗出来ないようなと言っても良い。
どうにか一分間続く、否、一分以上の事もしばしばだ。そういう素晴らしい場面について、ここで先入見を注入するのは止めて置こう。或いはそれは君の好みに合わぬかも知れない。しかし、どんな好みにも充分な満足を与えるだけのものを持っている場面もある。
とにかく、「四部作」程の注目すべき作品については批評は止めだ!これは一つの巨大な建造物であり、その輪郭は范漠と無限の中に溶け入っているのだ。余りにも壮大なので、大きさを掴みたいという尤もな気持ちヘナヘナとなってしまう。
そして、我々は思わず知らず知らずのうちこの巨大な建築のほんの小さな石一つでも動かせば、建築は忽ち崩壊するのではないかという恐怖に襲われる。全人類を呑み込んでしまう「神々の黄昏」のフィナーレは、その見事な実例である。
一方、オリンポスでは、神々が現代のプロメテ達をニヤニヤしながら眺めている(現代のプロメテ達云々、という表現は私の好みではないが、ワーグナーを念頭おいてこう云ってみると、まったくぴったりで、うれしくなっちまうね)。
杉本秀太郎氏の訳から抜粋
以前の記事 を読めば解りますが、なんだかんだ云いながらドビュッシーは指環には太刀打ち出来ない気がします。