※ネタバレなし。
ギフテッド(シーズン1)を見た。
連続ドラマは映画よりも長尺となり、多数のキャラクターを描く群像劇と相性が良い。故に、X-MENドラマ化の本作には多大な期待を寄せていたが、素晴らしい内容だった。
本作はミュータントにおいて強大な影響力を持つ「X-MEN」と「ブラザーフッド」が去った近未来。
物語の中心となるストラッカー一家において長女ローレンと長男アンディーがミュータントであることからドラマが動き始める。
両親はミュータントではなく、特に父親はミュータントを排斥する機関の職員であることから、子供たちがミュータントという事実から目を背けつつ世間と折り合う方法を探そうとする。しかし、そのような両親の所作は、自らの存在を否定されたと子供たちに思わせてしまう。
昨日まで一つだった一家が分断されるドラマ。
一般人として社会への帰還を模索するというのは。映画『X-MEN』シリーズとは異なる方向性だ。X-MENシリーズにおいてハト派のチャールズとタカ派のエリックの対立軸はあったが、どちらもミュータントという「自らの運命を受け入れたうえで」、どのような社会に働きかけるかの違いのドラマであった。
翻ってストラッカー一家は良くも悪くも等身大だ。「自らの運命を受け入れられない葛藤」、そこからドラマは始まる。チャールズやエリックのような強烈なリーダーシップや信念があるわけではない。彼らはある日、理不尽に過酷な運命を宣告された一般人に過ぎない。
彼らが如何に運命を受容し、これまでの行いと向き合い、未来を示すか。刻一刻と変わるミュータントを取り巻く世論と政治情勢を背景に展開されるドラマは映画シリーズとは異なる形でミュータントの葛藤のドラマを拡張する。
映画『X-MEN』シリーズが「マクロ視点」の大きな社会の物語なら、『ギフテッド』は「ミクロ視点」の等身大の家族の物語なのだ。
両者を対比することで、互いの理解度が深まる。どの広さに視点を置くかの違いであり、『ギフテッド』でもミュータントの立場にまつわる孤独はしっかりと描かれている。本作はスピンオフの連続ドラマとして理想的な作品と言える。
さて本作、X-MENの不在やセンチネル試作品が登場するなど、パッと見た感じ「X-MEN:ファイナルディシジョン」と「X-MEN:フューチャー&パスト」(未来編)の間をつなぐ時系列のように見えるが実際のところどうなのだろう。
細かい点に矛盾が生じるかもしれないが、元々矛盾が多いシリーズではあるので(一方でその矛盾を気にさせないパワーのある作品群であるので)細かい点に目をつむって、サーガの一作ととらえた方が、ファンとしては楽しいかもしれない。私はそうする。
