三か月が過ぎた。
勝麟太郎は、再びあの船宿にいた。
以前と同じ部屋。
以前と同じ老人。
そして、以前と同じように茶を点てている。
だが、勝の方は三か月前とは違っていた。
「おいらは幕府に進言するつもりです」
老人の手は止まらない。
「何をじゃ」
「海軍を作るんです」
茶筅の音だけが部屋に響いた。
勝は老人の返事を待った。
「海軍、か」
「そうです」
「ずいぶん大きな話になったの」
「大きくもなりますよ」
勝は膝に置いた手を握った。
この三か月、何度も海へ出た。
最初の航海とは違う。
今度は客ではなかった。
海音に頼み、舵を握った。
方位磁針を見ながら針路を取った。
海図を開き、現在地を確かめた。
夜には星を見た。
機関室では石炭をくべるところから、機関を止めるまでを見た。
甲板では帆を扱う者たちに混じり、縄の結び方まで教わった。
食料と水がどれほど必要なのか。
石炭をどこへ積むのか。
誰がいつ眠り、誰が見張るのか。
故障が起きれば誰が直すのか。
砲を扱うには何人必要なのか。
何か一つ覚えるたび、知らないことが三つ増えた。
それでも三か月前とは違う。
船がただの巨大な箱ではないことくらいは、もう分かる。
船とは、人間の集まりだった。
「急がなきゃならねえんです」
勝は言った。
「何を急ぐ」
「全部ですよ」
「全部では分からぬ」
「船を造る。人を育てる。外国の航海術を学ぶ。機関を扱える奴を増やす。砲術もいる。港だって――」
「勝」
老人が遮った。
「興奮するでない」
「興奮もしますよ!」
勝の声が大きくなった。
「三か月ですよ。たった三か月船に乗っただけで、こんなに足りねえものがあるって分かったんだ」
「うむ」
「だったら早く始めなきゃならねえでしょう」
「だから幕府へ進言する、と」
「そうです」
老人は茶を勝の前へ置いた。
「飲め」
「今は茶を飲んでる場合じゃ――」
「飲め」
勝は口を閉じた。
茶碗を取る。
一口飲んだ。
「少しは落ち着いたか」
「全然」
「そうか」
*
「勝」
老人が静かに言った。
「お主は船を動かせるか」
「できます」
「ほう」
勝は少し詰まった。
「……真っ直ぐ進ませるくらいなら」
「嵐でも?」
「それは海音さんたちがいないと」
「機関が壊れたら」
「機関方が必要です」
「その機関方が倒れたら?」
「……」
「海図を失ったら」
「待ってくださいよ」
「砲を積めば撃てるのか」
「それは砲術を――」
「船底に穴が開けば?」
「分かりましたよ!」
勝が声を上げた。
老人は平然としている。
「何が分かった」
「おいら一人じゃ何もできねえってことでしょう」
「違う」
「え?」
「お主一人では、ではない」
老人は勝を見た。
「一人では、じゃ」
勝が黙る。
「海音とて一人では船を動かせぬ。機関方も、舵を取る者も、帆を扱う者も、飯を作る者も必要じゃ。船を直す者もおる」
「分かってます」
「分かっておらぬ」
老人の声が少し強くなった。
「分かっておれば、今すぐ幕府へ駆け込むなどとは言わぬ」
「でも――」
「焦るな!」
初めて老人の声が部屋に響いた。
勝が口を閉じる。
「まずは船のすべてを覚えることに集中せよ!」
老人は勝から目を逸らさない。
「操舵だけではない。機関、航海、砲、修理、食料、水、石炭。船を海へ出し、そして戻す。そのすべてじゃ」
「全部なんて……」
「一人で全部やれとは言うておらぬ」
老人の声が元へ戻った。
「知れ、と言うておる」
勝の眉が動く。
「知らねば人を使えぬ。知らねば、何が足りぬのかも分からぬ」
勝は黙った。
三か月の航海が頭の中を巡る。
海音は機関方ではない。
それでも機関の状態を知っていた。
帆を張るのは船員たちだったが、海音はどこに誰が必要なのか分かっていた。
「……そういうことか」
「それから、もう一つ」
「まだあるんですか」
「ある」
老人は茶を飲んだ。
「仲間を作れ」
*
「仲間?」
「お主とともに動く者じゃ」
「船乗りを集めろってことですか」
「それだけではない」
老人は首を振った。
「船を造る者。直す者。機関を知る者。海を知る者。銭を動かす者。人を教える者」
「そんな奴らを、おいらが?」
「探せ」
「どこで」
「それを考えるのもお主の仕事じゃ」
勝は頭を掻いた。
「簡単に言ってくれるな」
「簡単ではないから、今からやるのじゃ」
「今から?」
老人の目が細くなった。
「勝。時が来てから準備をしているようでは、何もできんぞ」
勝が老人を見る。
「外国船が来てから船を造るのか。戦になってから人を育てるのか。必要になってから仲間を探すのか」
「……間に合わねえ」
「そういうことじゃ」
「じゃあ、やっぱり急がなきゃ――」
「また興奮する」
「どっちなんです!」
老人が笑った。
「急げ。だが、焦るな」
「分かりにくいなあ」
「急ぐ者は先を見る。焦る者は足元を見ぬ」
勝はしばらく考えた。
「……面倒なこと言いますね」
「お主には、そのくらいでちょうどよい」
*
「でも、銭はどうするんです」
勝が言った。
「本だって要る。道具も要る。船に乗るにしたって、おいらの懐じゃどうにもならねえ」
「そのことなら心配はいらぬ」
「何で?」
「お主の面倒は川口屋に任せてある」
勝が固まった。
「……は?」
「必要な書物、道具、学ぶために必要な手配。宗助に言え」
「ちょっと待ってくれ」
「何じゃ」
「何で川口屋がそこまでしてくれるんです」
「さあの」
「さあの、じゃねえよ」
「不満か?」
「不満じゃなくて気味が悪いんですよ!」
老人は楽しそうに茶を飲んだ。
「そのうち慣れる」
「慣れたくねえな……」
勝は大きく息を吐いた。
ふと、老人を見る。
「あんたは?」
「わしか」
「おいらに準備しろって言うけど、あんたは何をするんです」
老人の表情が少し変わった。
「わしも同じじゃ」
「同じ?」
「備えておる」
「何に」
「時が来た時に、せねばならぬことにな」
勝が身を乗り出す。
「何をするんです」
「今はまだ知らんでよい」
「またそれかよ」
「何度でも言うぞ」
*
老人は少し考えたあと、不意に尋ねた。
「そういえば、お主」
「何です」
「以前ここへ来た時、一人、生意気な小僧がおったじゃろう」
勝は記憶を探った。
「ああ……」
思い出した。
妙に目つきの鋭い若者だった。
言葉遣いこそ乱暴ではないが、こちらを見る目が妙に遠慮のない男だった。
「いましたね。えらく生意気な奴が」
「そうか」
「何です?」
「あれは、わしの子じゃ」
「…………」
勝は老人を見る。
「何じゃ」
「いや」
「何か言いたそうじゃな」
「納得しただけです」
「何がじゃ」
「生意気なのが」
老人の眉が上がった。
「お主に言われとうないわ」
「名前は?」
勝が尋ねる。
老人は一瞬だけ黙った。
「慶喜じゃ」
「慶喜……」
勝がその名を繰り返す。
「覚えておけ」
「何でです」
「今は、それだけでよい」
「また今は、か」
勝は呆れた顔をした。
だが老人は笑わなかった。
「お主と同じじゃ」
「何が?」
「あれにも、時が来る」
勝には意味が分からなかった。
*
面談を終え、勝は立ち上がった。
「次はいつ船に乗れます」
「もうその話か」
「船を全部覚えろって言ったのは、あんたでしょう」
「確かに言うた」
「だったら乗せてもらいますよ」
老人が笑う。
「宗助に言え」
「仲間も?」
「自分で探せ」
「条件は?」
「一つだけじゃ」
「何です」
「お主と同じ者ばかり集めるな」
勝が怪訝な顔をする。
「何で?」
「お主のような男ばかり乗せたら、船が三日で沈む」
「ひでえな」
「お主に逆らう者も必要じゃ」
勝は襖を開けた。
「覚えときますよ」
「勝」
背後から老人が呼んだ。
勝が振り返る。
「時が来るのを待つとは、何もせず待つことではない」
老人の目から笑みが消えていた。
「時が来た時に、動ける者になっておれ」
勝はしばらく老人を見た。
そして、小さく頷いた。
「分かりました」
襖を閉める。
廊下を歩く勝の足は、来た時よりも速かった。
今すぐ幕府へ駆け込むつもりは、もうなかった。
だが、止まるつもりもなかった。
まず船を知る。
そして、人を探す。
時が来た時、動くために。
▶「裏天正記」幕末編第二部第23話(75)「時を待て」をカクヨムで読む
■ 第23話(75)「時を待て」考察
第75話は、勝麟太郎の育成が「船を知る」段階から、人を集め、組織を考える段階へ移った回になっています。
第74話で勝は「海は壁ではなく道」と気づきました。しかし第75話では、その気づきが焦りに変わっています。ご隠居は、その焦りを消すのではなく、進む方向を変えています。
1.三か月飛ばしたことで、勝の変化がはっきりした
航海を一つずつ描かなかったのは効果的です。
三か月の間に勝は、操舵、方位磁針、海図、機関、石炭、水、食料、当直、修理、砲などを経験しています。
ただし、何でもできるようになったわけではありません。
むしろ、
何か一つ覚えるたび、知らないことが三つ増えた。
ここが重要です。
第74話の「分からない」が、今度は具体的な知識へ変わった。しかし知れば知るほど、日本に足りないものも見えてしまった。
だから勝は、
「おいらは幕府に進言するつもりです」
「海軍を作るんです」
と焦り始めます。
2.勝が「海軍」と名付け、ご隠居はまだ名にこだわらない
以前、ご隠居自身は海の戦力を早く「海軍」と名付けることを避けていました。
今回は勝の側から、
「海軍を作るんです」
と言わせています。
これは二人の立場の違いをよく表しています。
勝は実物を見たことで、早く形を作りたい。
ご隠居は、形を作る前に、その形を支えられる人間と仕組みが必要だと考えている。
だから海軍そのものを否定しません。
問題にしているのは順序です。
3.「お主一人では」ではなく「一人では」
今回かなり重要なのが、
「お主一人では、ではない」
「一人では、じゃ」
です。
これは今後の勝の役割を決める言葉にもなっています。
勝一人を万能な英雄に育てるのではない。
船には、
操舵する者、機関を扱う者、航海を担当する者、修理する者、砲を扱う者、食事を作る者など、多くの人間が必要です。
そして国も同じ。
この考え方は、第66話でご隠居が見ていた五人にもつながります。
勝だけでは足りないからこそ、小栗、松吉、象山、江川など、それぞれ異なる能力を持つ人間が必要になる。
勝はまだそれを知りませんが、ご隠居にはすでに全体像が見え始めています。
4.「全部できるようになれ」ではなく「全部を知れ」
ご隠居の、
「一人で全部やれとは言うておらぬ」
「知れ、と言うておる」
も重要です。
これは将来、勝が指揮する側に回るための教育です。
機関方以上に機関を扱える必要はない。
船大工以上に船を直せる必要もない。
しかし、何をしているのか分からなければ、適切な人間を配置できない。
つまりご隠居は、この時点ですでに勝を単なる船乗りではなく、複数の専門家を束ねる人間として見始めています。
5.「急げ。だが、焦るな」
今回の中心となる言葉は、
「急げ。だが、焦るな」
でしょう。
一見矛盾しています。
しかし続く、
「急ぐ者は先を見る。焦る者は足元を見ぬ」
で意味が明確になります。
ご隠居は「時が来るまで待っていろ」と言っているのではありません。
むしろ、
「時が来てから準備をしているようでは、何もできんぞ」
と言っています。
これが草の思想にもよく合っています。
危機が起きてから人を集めるのでは遅い。
外国船が来てから船を造るのでは遅い。
戦になってから船員を育てるのでは遅い。
表面上は何も起きていない時期こそ、準備する。
1852年という時代設定にもよく合う構造です。
6.川口屋が勝の「後ろ盾」になった
今回、
「お主の面倒は川口屋に任せてある」
と明言したことで、勝の活動基盤もできました。
これはかなり重要です。
貧しい旗本である勝個人の財力だけでは、書物を集め、道具を揃え、何度も船へ乗り、さらに人を探すという活動を長く続けるのは難しい。
そこで草そのものを教えるのではなく、表向きには川口屋が支える。
勝からすると、
なぜ一介の廻船問屋が自分にここまで金と手間をかけるのか
分からない。
この疑問も、ご隠居の正体へ近づく伏線になります。
7.「仲間を作れ」が次の物語を開く
ここから非常に面白くなります。
ご隠居は、
「仲間を作れ」
と言いますが、誰を仲間にするかは教えません。
さらに、
「お主と同じ者ばかり集めるな」
と言う。
これは今後、勝が人物を見る基準になります。
特に、
「お主のような男ばかり乗せたら、船が三日で沈む」
という冗談には、実は重要な意味があります。
行動力のある者だけでも駄目。
学者だけでも駄目。
職人だけでも駄目。
指揮官だけでも駄目。
違う能力を持った人間が必要です。
ここから将来的に龍馬のような「勝とは違う性質の人間」と出会う展開にも自然につなげられます。
8.慶喜の名前が初めて勝の中に入った
後半では、海の話から突然、
「あれは、わしの子じゃ」
と慶喜につながります。
勝にとってはまだ、
以前会った生意気な小僧=慶喜
でしかありません。
ここがいいところです。
後世の一橋慶喜・徳川慶喜としてではなく、まず一人の若者として勝の記憶に入る。
しかも、
「あれにも、時が来る」
とご隠居が言う。
勝には意味が分からない。
しかし読者には、この言葉の重さが分かります。
ご隠居が準備しているのは勝だけではありません。
海で動く勝と、政治の中心へ押し出される可能性のある慶喜。
別々の場所で準備されている二人が、いずれ同じ時代の渦へ入っていく構造になります。
9.ご隠居自身にも「時」がある
勝が、
「あんたは何をするんです」
と尋ねた時、ご隠居は、
「わしも同じじゃ」
「備えておる」
と答えています。
ここも今後の重要な伏線です。
ご隠居は勝や慶喜を駒として動かして、自分だけ安全な場所から眺めている人物ではありません。
自分にも「時が来ればせねばならぬこと」がある。
ただし、まだ何なのかは明かさない。
勝の秘密、ご隠居の秘密、草の秘密を一度に開示しないので、先への余地が残っています。
10.第75話で勝の目的が変わった
冒頭の勝の目的は、
「幕府に海軍を作らせる」
でした。
しかし最後には、
まず船を知る。
そして、人を探す。
時が来た時、動くために。
へ変わっています。
つまりご隠居は勝の情熱を止めたのではありません。
情熱を準備へ変えた。
ここが第75話の核心だと思います。
