勝は渡された服を広げ、しばらく黙っていた。
「これを着るのか」
「そう言っただろ」
海音は小舟の準備を確かめながら答えた。
「ずいぶんくたびれてるな」
「新品が欲しいなら江戸へ戻るか?」
「着るよ」
勝は船室へ引っ込んだ。
しばらくして戻ってきた姿を見て、海音が吹き出した。
「何だよ」
「いや、似合ってる」
「笑いながら言うな」
着物を脱ぎ、船員の服に着替えた勝は、どこから見ても武士には見えなかった。
だが腰には刀がある。
海音が指をさす。
「それも置いてけ」
「やっぱりか」
「当たり前だ」
「丸腰で外国へ行けってのか」
「刀を差した日本人がうろつく方が危ねえよ」
勝は渋々刀を外した。
「なくすなよ」
「誰が欲しがるんだ」
「おいらの刀だぞ」
「だから何だ」
勝は何か言い返そうとして、やめた。
「頭も何とかしろ」
「頭?」
海音から布を渡される。
勝は自分の髷を触った。
「ああ……」
「その頭も目立つ」
「侍ってのは面倒だな」
「今頃気づいたのか?」
「それ、前にも聞いたぞ」
*
日が完全に沈んでから、小舟は蒸気船を離れた。
乗っているのは海音、勝、それに船員二人。
灯りは最低限。
櫂が水を掻く音だけが暗い海に響く。
勝は後ろを振り返った。
沖に残した蒸気船は、夜の中へ溶け込もうとしている。
「本当に置いてくのか」
「何を」
「船だよ」
「港へ入れた方がいいか?」
「いや……」
勝は前を向いた。
島の灯りが近づいてくる。
「見つかったらどうする」
「何が」
「おいらたちだよ」
「港へ酒を飲みに来る船乗りなんぞ珍しくない」
「おいらは日本人だぞ」
「黙ってりゃ分からん」
「話したら?」
「たぶん分からん」
「どっちなんだよ」
海音は笑った。
「余計なことを喋るなってことだ」
*
小舟が岸へ近づく。
勝は無意識に身を乗り出していた。
暗闇の中に建物が見える。
人の声がする。
聞いたことのない言葉だった。
岸へ上がった瞬間、勝は立ち止まった。
「歩け」
海音が小声で言う。
「分かってる」
だが足が動かない。
目の前を一人の男が通り過ぎた。
肌の色が違う。
服も違う。
顔立ちも違う。
勝が振り返る。
「海音さん」
「何だ」
「あれ……」
「指さすな」
慌てて手を下ろす。
「あの人、スペイン人か?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「フィリピンから来た者だろうな」
「フィリピン?」
「知ってるだろ」
「名前はな」
さらに別の男たちが歩いてくる。
今度は先ほどとは顔立ちも服装も違った。
勝が海音を見る。
「じゃあ、あっちは?」
「たぶん、この島の者だ」
「この島の?」
「チャモロだ」
勝は男たちの背中を目で追った。
少し進むと、今度は西洋人らしい男が二人、声を上げながら歩いていた。
「じゃあ、あれがスペイン人か」
「さあな」
「さあなって」
「船乗りかもしれん。どこの国の者か、顔だけで全部分かると思うな」
「……異人ってのも、いろいろいるんだな」
「当たり前だ」
勝は黙った。
日本にいた時、異人は異人だった。
オランダ人。
清国人。
書物の中では国の違いを知っていた。
だが実際に目の前を行き交う人間を見ると、その知識は急に頼りなくなる。
*
海音は港から少し離れた通りへ入った。
勝はきょろきょろと周囲を見ている。
荷を運ぶ男。
魚を扱う者。
話し込む女たち。
走っていく子供。
どこかから笑い声が聞こえる。
勝の眉間に皺が寄った。
「何だ」
海音が尋ねる。
「いや……」
「何か変か?」
「普通だな」
「何が」
「外国だよ」
海音が立ち止まった。
「外国なら、人が逆立ちして歩いてるとでも思ったか?」
「そこまで馬鹿じゃねえよ」
勝は周囲を見る。
「でも、もっとこう……外国らしいと思ってた」
「十分外国だろ」
「そうなんだけどよ」
言葉も違う。
建物も違う。
服装も違う。
それなのに、そこでしていることは大して違わない。
働き、話し、物を運び、子供が走り、大人が笑う。
「異国でも、人は暮らしてるんだな」
「そりゃそうだ」
「分かってるよ」
勝は苦笑した。
「分かってたんだけどな」
*
海音が一軒の店へ入った。
「ここは?」
「酒を飲むところだ」
「何しに来た」
「酒を飲みに」
「おい」
「声がでかい」
店の中には何人もの男がいた。
勝には何を話しているのか分からない。
それどころか、同じ言葉を話しているのかさえ分からなかった。
海音は店の者と短く言葉を交わした。
勝が目を丸くする。
「何だ今の」
「少し覚えただけだ」
「いつ?」
「前に来た時だ」
勝が何か聞こうとした。
だが海音が先に言う。
「船以外の質問だな」
「……覚えてやがったか」
やがて飲み物が置かれた。
勝は杯の中を見る。
「何だ、これ」
「麦の酒だ」
「麦?」
「飲んでみろ」
「うまいのか」
「自分で確かめろ」
勝は怪しそうに杯を持った。
海音が笑う。
「なんでも経験だ。一杯いってみろ」
「またそれか」
勝は恐る恐る口をつけた。
一口。
動きが止まる。
「……苦っ」
海音が吹き出した。
「何だこれ!」
「麦の酒だと言っただろ」
「酒ってのは、もっとこう……」
「日本の酒と同じだと思うな」
勝はもう一度杯を見る。
「異国の連中は、これをうまいと思って飲むのか?」
隣の卓では船乗りらしい男が楽しそうに杯を傾けている。
「そうなんだろうな」
勝は再び一口飲んだ。
「……やっぱり苦い」
「ならやめとけ」
「いや」
もう一口。
海音が眉を上げる。
「気に入ったのか?」
「勉強だよ、勉強」
「便利な言葉だな」
「誰かさんの『経験だ』よりましだ」
*
しばらくすると、勝の視線は酒から店内へ移っていた。
肌の色も服も違う者たちが同じ店にいる。
言葉を交わす者もいれば、身振りだけで何かを伝えている者もいる。
金が渡され、酒が運ばれる。
笑い声が上がる。
「なあ、海音さん」
「何だ」
「ここにいる奴ら、みんな同じ国じゃねえんだよな」
「たぶんな」
「言葉も違う」
「ああ」
「それでも商売して、酒飲んでる」
「見りゃ分かる」
勝は杯を指で回した。
「日本じゃ、異人が一人来ただけで大騒ぎだ」
海音は黙って酒を飲む。
「でも、ここじゃ違う国の奴がいても、誰も騒がねえ」
「港だからな」
「港だから……」
勝はその言葉を繰り返した。
その時、入口から新しい客が入ってきた。
勝と目が合う。
男は一瞬だけ勝を見た。
そして、何事もなかったように奥へ進んだ。
勝は男の背中を見送った。
「海音さん」
「今度は何だ」
勝は少し考えてから言った。
「ここじゃ、誰が異人なんだ?」
海音の手が止まった。
やがて、わずかに笑う。
「少なくとも」
杯を置く。
「今のお前は、こっち側じゃないだろうな」
勝は自分の服を見る。
刀はない。
着物もない。
遠い日本からやってきて、言葉も分からず、周囲を珍しそうに眺めている。
「……なるほど」
勝は苦笑した。
「異人は、おいらの方か」
もう一度、麦の酒を口にする。
やはり苦かった。
けれど今度は、最初ほど嫌ではなかった。
店の外から、知らない言葉が聞こえてくる。
勝は耳を澄ませた。
分からない。
分からないことだらけだった。
だが、それが妙に面白かった。
蘭書の中にあった外国は、もうどこにもなかった。
そこにいたのは、働き、笑い、酒を飲み、暮らしている人間たちだった。
そしてその中に今、一人の日本人が座っていた。
▶「裏天正記」幕末編第二部第22話(74)「近すぎる外国」をカクヨムで読む
■ 第22話(74)「近すぎる外国」考察
今回の第74話は、第64話から続いてきた勝麟太郎の選考編における、一つの到達点になっています。
これまでは宗助や海音が勝を「見る側」でした。しかし今回は初めて、すべての仕掛けの奥にいたご隠居が勝本人と向き合います。そしてご隠居が見ているのは知識量ではなく、実物を見たあとに勝の考え方がどう変わったかです。
1.「外国は近すぎる」が航海の答え
冒頭の、
「……近すぎます」
「何がじゃ」
「外国です」
は、グアム編全体の答えになっています。
勝は外国が物理的に近いと言っているわけではありません。実際には何日も船に乗り、船酔いまで経験しています。
それでも「近い」。
なぜなら、
「行けたんです」
からです。
これは大きな認識の転換です。
外国を「海の向こうにある遠い世界」と考えるのと、「船があれば行き来できる場所」と考えるのでは、国防に対する発想そのものが変わります。
そして、
「海は壁じゃねえ」
「道なんです」
へ到達する。
この言葉は今後の『裏天正記』幕末編を通じて、一つの軸にできると思います。
2.ご隠居はすぐ「では、その道をどう守る」と進める
ここがご隠居らしいところです。
勝が「海は道だ」と気づいても褒めません。
すぐに、
「その道を、どう守る」
と次の問題を出します。
勝は最初に船を考えます。しかし実際の蒸気船を見ているため、すぐに「船だけでは駄目だ」と気づく。
石炭、水、食料、修理、造船、航海、機関、砲術、指揮する人間――。
つまり勝の中で、すでに**「軍艦を買えば海防になる」という発想から、「船を継続的に動かす仕組みが必要だ」という発想への変化**が始まっています。
これは以前ご隠居が五人を見ながら考えていた、
- 勝=海へ出る人間
- 小栗=仕組みを作る人間
- 松吉=船を支える職人
- 象山・江川=知識や助言
という構想ともつながります。
勝本人はまだ彼らの存在を知りませんが、必要な役割には気づき始めています。
3.今回もっとも重要なのは「分かりません」
勝は答えを出せません。
「分かりません」
しかし、これは失敗ではありません。
むしろ今回ご隠居が確認したかった部分でしょう。
「だから分からなくなったんです」
という勝の言葉が特に重要です。
本しか知らなかった頃なら、
「外国式の軍艦を造ればいい」
「大砲を積めばいい」
と言えた。
しかし実物を見たことで、それほど簡単ではないと分かってしまった。
知識が増えた結果、自分の無知が見えるようになった。
第65話の団子屋でも勝は、蒸気船を動かせるかと聞かれて、実物を見たことがないから分からないと答えていました。
その性質が今回、
「分からぬことを、分かった顔で語る者は多い」
「だが、分からぬと知る者は少ない」
として回収されています。
4.ご隠居はまだ正体を明かさない
勝からすれば、かなり苛立つ状況です。
宗助も答えない。
海音も答えない。
そしてようやく会った老人まで答えない。
特に、
「あんた、何者なんです?」
「老人じゃ」
は、ご隠居の性格がよく出ています。
ここで「実は自分は――」と説明を始めないのが重要です。
勝にはまだ、草も影島も船の本当の背景も知らせない。
つまり今回の面会によって勝が「仲間になった」わけではありません。
候補者から、一段だけ先へ進んだくらいでしょう。
5.「もう一度乗りたいか」は二つ目の試験
ここでご隠居は非常に単純な質問をします。
「もう一度、あの船に乗りたいか」
勝は即答します。
「乗りたい」
さらに理由がいい。
「分からねえことが増えたからです」
「楽しかったから」でも「外国へ行きたいから」でもありません。
知らないことが増えてしまったから、もっと見たい。
しかも、
「一隻だけ見ても仕方ねえ」
とまで進んでいます。
すでに勝の興味は、秘密の蒸気船一隻から世界の船、造船、修理、人材育成の仕組みそのものへ広がっています。
6.「外国のものを取り入れる=日本を捨てる」ではない
今回、今後の勝の立場につながりそうなのが、
「使えるものなら使う。合わねえなら使わない。それだけでしょう」
です。
さらにご隠居が、
「日本のやり方を捨ててか」
と問うと、
「何で全部捨てるんです?」
と返す。
ここは『裏天正記』全体のテーマにもつながります。
外国を拒絶するのでもない。
外国を無条件に崇拝するのでもない。
実際に見て、必要なものを選ぶ。
幕末から明治へ物語を進める際にも使える思想的な軸になります。
7.「怖いからこそ見る」
もう一つ重要なのが、
「グアムまで行って、余計に怖くなった」
です。
外国へ行ったことで恐怖がなくなったわけではありません。
むしろ、
「来られるって分かったからです」
と、危機感は増しています。
しかし続けて、
「でも、怖いから見ねえってのは、もっと怖いでしょう」
と言う。
これも勝の人物像をよく表しています。
勇敢だから怖くないのではない。
怖いからこそ知ろうとする。
第65話で「外国が敵になるかもしれないなら、なおさら知らなければならない」と語った勝から一貫しています。
8.最後のご隠居の評価はまだ低い
終盤の、
「まだ何もできぬ」
「何も知らぬ」
が重要です。
ここで、
「やはりこの男こそ日本の海を任せる人物だ」
などと言わせてしまうと、後世の勝海舟像から逆算した物語になってしまいます。
しかし、ご隠居の評価はまだ、
「知らぬことを、知りたがっておる」
だけです。
能力を認めたというより、育つ可能性を認めた段階です。
このくらいが草の人物選びとして非常に自然です。
そして最後の、
「もう少し、海を見せてやれ」
によって、選考は終了ではなく次の段階へ進みます。
