翌日も、河田小龍は浜へ姿を現した。
脇には昨日と同じように紙と筆を抱えている。
「万次郎殿」
「……また来たがですか」
「昨日は鼻までしか描けなんだ」
そう言って紙を広げる。
万次郎は思わず吹き出した。
昨日描き始めた西洋の女性は、確かに鼻だけ妙に立派で、他はまだ輪郭しかない。
「これでは誰だか分からん」
「そりゃそうでしょう」
「だから続きじゃ」
小龍は何事もないように腰を下ろした。
「今日は目を描く」
万次郎は苦笑しながら、その向かいへ座った。
「昨日も申しましたが、わしは絵のことは分かりません」
「分からぬ者ほど、よく見ておる」
小龍は筆を取る。
「目は大きいか」
「日本人よりは」
「ふむ」
さらさらと筆が動く。
「色は」
「青い人もおります」
小龍の手が止まった。
「青」
「緑に近い人も」
「面白い」
筆は再び動き始める。
「髪は金色だけではないのでしょう」
「黒も茶もおります」
「茶色か」
「はい」
小龍は何も驚かない。
ただ、紙の上へ一本一本、線を重ねていく。
万次郎は不思議だった。
城下では、何か話せば必ず、
「それは本当か」
「つまりこういうことか」
と話を変えられる。
だが小龍は違う。
「そのまま教えてくれ」
それだけだった。
「服は」
「長い裾のものもありますが、日本とは形が違います」
「帯は」
「ありません」
「ほう」
筆が衣の形を変える。
「袖は」
「細いですね」
「なるほど」
そのやり取りだけで、絵は少しずつ異国の人らしくなっていく。
やがて小龍は筆を止めた。
「人物だけでは寂しいのう」
「寂しい?」
「背景じゃ」
万次郎は首をかしげた。
「西洋の美人を描くなら、西洋の景色がいる」
「そういうものですか」
「そういうものじゃ」
小龍は空白を指さした。
「さて、何を描けばよい」
万次郎は少し考えた。
「町でしょうか」
「木の家か」
「いえ」
「石?」
「石が多かったですね」
小龍の筆が家を描き始める。
「二階建てか」
「もっと高い建物もあります」
「ほう」
一本、また一本。
建物が並び始めた。
「道は」
「広いです」
「馬車は通るか」
「何台も」
万次郎が答えるたび、町が紙の上へ現れる。
小龍は時折、
「それで?」
と聞くだけだった。
説明も感想もない。
だから万次郎も話しやすかった。
「店は」
「看板が出ています」
「文字は」
「英語です」
「読めるようになったか」
「少しだけ」
「そうか」
小龍は笑った。
「異国の字を読める土佐者とは、面白い時代になったものじゃ」
その言葉には嫌味も皮肉もなかった。
万次郎は肩の力が少し抜けた。
「では、この先は」
小龍は紙の奥を指さした。
「町の向こうには」
「港があります」
「やはり港か」
「はい」
万次郎の表情が少しだけ変わった。
港。
その言葉だけで、多くの人は蒸気船の話へ持っていこうとする。
しかし小龍は違った。
「海は青いか」
「え?」
「波は穏やかか」
「……日によります」
「山は見えるか」
「場所によります」
「なるほど」
筆は海岸線を描き始める。
万次郎は思わず尋ねた。
「船は描かんがですか」
「まだじゃ」
「まだ?」
「町を知らねば船は浮かばん」
万次郎はその意味が分からなかった。
小龍は笑いながら続けた。
「絵というものは、全部つながっておる。町を知らねば港は描けぬ。港を知らねば船は描けぬ」
少し間を置く。
「人も同じじゃ」
その一言だけが、妙に胸へ残った。
小龍は筆を洗いながら尋ねる。
「万次郎殿」
「はい」
「向こうでは、毎日が珍しかったか」
万次郎は遠くを見るような目になった。
「最初は」
「最初は?」
「何もかも珍しかったです」
「そのうち慣れる」
「はい」
少し笑う。
「石の家も、広い道も、馬車も、当たり前になりました」
「人とはそういうものじゃ」
小龍は紙を乾かしながら言った。
「どんな景色も、毎日見れば日常になる」
「ですが」
万次郎は続けた。
「帰ってきてから、あれは夢だったのではないかと思うことがあります」
「夢?」
「話しても、誰も違うところばかり聞く」
万次郎は苦く笑った。
「蒸気船より、身分の話になる。学校より、外国人の話になる」
小龍は静かに聞いていた。
「わしが見た町より、みんな自分が聞きたい町を想像してしまう」
風が吹いた。
浜へ寄せる波の音だけが二人の間を流れる。
しばらくして、小龍が口を開いた。
「それは仕方あるまい」
万次郎は少し寂しそうに笑った。
「やはり、そうですか」
「人は、自分の知っておる形へ話をはめ込む」
小龍は紙を見つめる。
「じゃが」
そこで初めて、万次郎のほうを見た。
「だからといって、話さぬほうがよいとは思わん」
万次郎は黙った。
「わしは絵師じゃ」
小龍は描きかけの紙を持ち上げる。
「鼻が高いと聞けば、そのまま描く。石の家と聞けば、そのまま描く」
紙の上には、昨日より少しだけ異国らしくなった女性が立っていた。
その後ろには石造りの町並みが広がり始めている。
「違うと思えば描き直す」
小龍は笑った。
「勝手に帯を締めたり、勝手に着物を着せたりはせん」
万次郎は思わず吹き出した。
「それでは西洋人ではありません」
「そうじゃろう」
二人はしばらく笑った。
笑い終えると、万次郎は静かに言った。
「……初めてです」
「何がじゃ」
「最後まで聞いてくれた人は」
小龍は少しだけ驚いた顔をした。
それから何でもないように筆をしまう。
「絵を描くには、最後まで聞かねばならんからの」
立ち上がり、紙を丸める。
「今日はここまでじゃ」
「もう終わりですか」
「背景がまだ足りん」
小龍は振り返った。
「また来る」
「背景の続きを描きに」
万次郎は小さくうなずいた。
「はい」
小龍は浜を歩きながら、胸の内でつぶやいた。
(この男は嘘をつかぬ。)
(だからこそ、その言葉は、人の口に渡るたび別のものへ変わってゆく。)
草として集めるべき情報は、すでに十分集まり始めている。
それでも小龍は、明日もここへ来ようと思った。
異国を知るためではない。
万次郎という男を、もっと知るために。
▶「裏天正記」幕末編第二部第6話(58)「絵の向こう側」をカクヨムで読む
■ 第6話(58)「絵の向こう側」考察
第58話は、万次郎と河田小龍の関係が始まる回です。
表面上は、小龍が西洋美人の絵を描くため、万次郎から異国の風俗を聞き出しています。しかし本質的には、話すことを恐れ始めた万次郎が、初めて自分の言葉をそのまま受け止めてもらう物語になっています。
美人画は、万次郎の警戒を解く入口
小龍はいきなり蒸気船やアメリカの制度について尋ねません。
最初に聞くのは、
- 目の色
- 髪の色
- 鼻の高さ
- 衣服の形
といった、人の姿に関することです。
小龍は生活のために美人画も描く絵師なので、この質問には不自然さがありません。
万次郎にとっても、政治や身分制度ではなく、実際に見た人の姿を答えるだけでよいため、比較的話しやすい話題です。
この美人画が、小龍と万次郎の間にある警戒心を少しずつ取り除く役割を果たしています。
人物から町、町から港へ
小龍の聞き方には段階があります。
まず人物を描き、次に、
「人物だけでは寂しいのう」
と背景を求めます。
そこから話題は、
- 石造りの建物
- 広い道路
- 馬車
- 店の看板
- 港
へと広がります。
小龍は調査しているようには見えません。しかし、紙の上に異国の町を描くためには、自然に多くの情報が必要になります。
この方法によって、小龍は万次郎を問い詰めることなく、異国の生活や町の構造を引き出しています。
草の情報収集としても非常に自然な方法です。
「町を知らねば船は浮かばん」
今回の重要な言葉が、
「町を知らねば港は描けぬ。港を知らねば船は描けぬ」
です。
蒸気船だけを聞いても、その意味は十分に理解できません。
その船を造る人々がどこで暮らし、どのような道を使い、何を学び、何を運んでいるのか。蒸気船は、そうした社会全体の仕組みの中から生まれています。
前話で水戸の隠居が、
「蒸気船は、ただの船ではない」
「時代そのものじゃ」
と語りました。
第58話では小龍が、別の立場から同じ本質へ近づいています。
水戸の隠居は情報から時代全体を読み、小龍は絵を描くために町全体を見ようとする。二人の方法は違いますが、蒸気船だけを切り離して見てはいけないという点でつながっています。
万次郎が抱えていた「もやもや」
万次郎は、アメリカで見たことをただ話しただけです。
しかし周囲の人々は、その話から自分に都合のよい部分だけを取り出します。
「蒸気船より、身分の話になる」
「学校より、外国人の話になる」
万次郎が伝えたいのは、異国の社会や暮らしを含めた全体像です。
ところが聞く側は、自分が驚いた部分、自分の不満と結びつく部分だけを聞きます。そのため、万次郎が見たアメリカと、人々の間で広まるアメリカは、次第に別のものになっていきます。
万次郎自身も、その違いをうまく説明できず、話すことに疲れ始めています。
今回、小龍へ語ることで、万次郎は初めて自分の中にある違和感を言葉にできました。
小龍は話を「解釈」しない
小龍が万次郎から信用され始めた最大の理由は、話を勝手にまとめないことです。
小龍は、
「つまり、こういうことか」
とは言いません。
鼻が高いと聞けば高く描き、石の家だと聞けば石の家を描く。違っていれば描き直します。
「勝手に帯を締めたり、勝手に着物を着せたりはせん」
この言葉は、美人画について話しているだけではありません。
人の言葉を、自分の知っている形へ無理に押し込めないという、小龍の姿勢を表しています。
万次郎が求めていたのは、自分の考えに賛成してくれる相手ではありません。
自分が見たものを、そのまま聞こうとしてくれる相手でした。
「最後まで聞いてくれた人」
万次郎の、
「最後まで聞いてくれた人は」
という言葉が、この回の感情的な中心です。
これまでの人々は、万次郎の話の途中で、自分が欲しい答えを見つけています。
しかし小龍は、絵を完成させるために最後まで聞きます。
小龍にとっては絵師として当然の行為でも、万次郎にとっては初めての経験でした。
ここで二人の関係は、調査する者と情報を持つ者という関係から、少しずつ個人的な信頼へ変わり始めています。
小龍の目的が変わり始める
小龍は当初、草として異国の情報を得るために万次郎へ接触しています。
しかし話を聞くうちに、万次郎が扇動家でも野心家でもなく、誠実に見たものを伝えようとしているだけの人物だと理解します。
そして最後には、
異国を知るためではない。
万次郎という男を、もっと知るために。
と心境が変化します。
これは、後に小龍が万次郎の話を本として残そうと考えるための最初の段階です。
この時点では、まだ本にするという発想には至っていません。
まず小龍が万次郎の人柄に惹かれ、次に世間で話が歪曲されている事実を知り、その後で「言葉を固定する方法」として本を提案する。この順序にすることで、小龍の行動が任務ではなく、友情と憤りから生まれたものになります。
