水戸の屋敷は、江戸の喧騒から半歩だけ離れた場所にあるように感じられた。
澪は薬箱を抱え、静かな廊下を進んだ。
庭では、植木職人が松の枝を整えている。小さな鋏の音が、ときおり風に混じった。
今日は定期の診療日だった。
水戸の隠居は、表向きには政から退いている。だが、草にとっては徳川家康以来、再び得た正統な主人である。
澪が部屋へ通されると、隠居は庭を眺めていた。
「来たか、澪」
「お加減はいかがですか」
「こうして座っておる。まだ棺桶には入らぬ」
「そういうことをおっしゃる方ほど、急に倒れます」
「医者は脅すのが仕事か」
「言うことを聞かない患者には」
隠居は声を立てて笑った。
「海音の嫁になって、少し口が悪うなったのではないか」
「昔からです」
「そうであったかのう」
澪は隠居の前に座り、脈を取った。
指先に伝わる拍動は、以前より少し弱い。表情には出さなかったが、澪はその変化を見逃さなかった。
「夜は眠れていますか」
「眠っておる」
「何刻ほどです」
「二刻か、三刻か」
「それは眠っているとは言いません」
「考えることが多い」
「だからこそ、お休みください」
隠居は答えず、庭の松へ視線を戻した。
「澪」
「はい」
「風向きが変わった」
澪は薬箱から手を離した。
「土佐のことでしょうか」
「楓から聞いたか」
「昨日、診療所へ来ました」
「そうか」
隠居は小さくうなずいた。
「異国から帰った漁師の言葉が、土佐の下士どもの胸を揺らしておるそうじゃな」
「本人に人を煽る意図はないようです」
「であろうな」
隠居は即座に答えた。
「意図して火をつける者なら、まだ扱いやすい。火をつけた覚えのない者が、歩くたびに火種を落とす。そちらのほうが厄介じゃ」
澪は黙って聞いた。
「マヌエル殿も、同じことを危惧していました」
「外の力が、内の亀裂を広げる」
「はい」
「じゃが、異国の知識そのものを閉ざせば、この国は滅びる」
隠居はゆっくり立ち上がった。
澪が支えようとすると、片手で制された。
「まだ歩ける」
隠居は縁側まで進み、空を見上げた。
「もうまもなく、蒸気船がこの国にも現れるじゃろう」
その声に迷いはなかった。
「確かな知らせが?」
「まだない」
「では、なぜ」
「来ぬ理由がないからじゃ」
隠居は庭石の向こうへ目を細めた。
「異国は、海の向こうで力を蓄えておる。風を待たずに進む船を持ち、大砲を積み、海を道として使い始めた。この国だけを避けて通る道理があるか」
澪は何も答えられなかった。
「蒸気船は、ただの船ではない」
「では、何なのでしょう」
「時代そのものじゃ」
庭を渡った風が、松の葉を鳴らした。
「風を読み、潮を待ち、季節に従っていた者たちの前に、火を焚けば進む船が現れる。それを見た者は、船だけを恐れるのではない。己が信じてきた世の仕組みまで疑い始める」
澪は土佐の万次郎を思い浮かべた。
異国で見たことを語っただけで、若者たちは自分たちの身分を疑い始めている。
蒸気船が実際に姿を現したとき、日本中で何が起こるのか。
「異国が敵なのではない」
隠居が言った。
「異国を見て、互いを敵と思い始める日本人こそ恐ろしい」
「開く者と、閉ざす者」
「幕府と諸藩。上士と下士。朝廷と武家。いずれ皆、自分こそ国を守っていると思うであろう」
隠居は苦く笑った。
「正義を持つ者同士の争いほど、止めにくいものはない」
澪は隠居の背中を見た。
以前より、少し小さく見えた。
この人物にも残された時間は無限ではない。本人も、それを理解しているのだろう。
「影島のほうは、どうなっておる」
突然話が変わった。
「改良を続けています」
「マヌエルから得た情報も入れたか」
「はい。火薬庫の位置を見直し、見張り台と地下の連絡路も増やしました。港へ入る船を、島の外側から確認できるようにしています」
「船そのものは」
「海音さんたちが、小型船の構造を改めています。ただ、蒸気船への対抗となると、まだ」
「当然じゃ。見たこともないものに、完全な備えなどできぬ」
隠居は振り返った。
「じゃが、何もせぬよりはよい。影島は、敵を迎え撃つためだけの島ではない」
「情報を集めるための場所」
「そして、人を残す場所じゃ」
澪はその言葉に顔を上げた。
「この先、江戸が動けぬこともある。水戸が封じられることもある。幕府そのものが命令を出せぬ日が来るやもしれん」
「そこまでお考えなのですか」
「考えぬ者から先に滅びる」
隠居は再び座った。
「これから、水戸も極秘裏に動き始める」
「何をなさるおつもりですか」
「人を育てる」
簡単な答えだった。
「船を知る者。大砲を知る者。異国の言葉を知る者。そして、徳川だけでなく、この国全体を見ることのできる者」
「そのような人が、すぐに見つかるでしょうか」
「見つからぬなら、作る」
隠居の目に、老いとは別の光が宿った。
「慶喜さまも、その中に?」
澪が尋ねると、隠居はしばらく答えなかった。
「慶喜は、まだ若い」
「はい」
「あれは器用じゃ。頭も回る。だが、器用な者ほど、時代に使われる」
その声には、父親としての情と、策を立てる者の冷静さが同居していた。
「いずれ、あれに重い荷を背負わせることになるかもしれぬ」
「将軍として、ですか」
「将軍になるか否かは、手段にすぎん」
澪は息を止めた。
「徳川が残ることより、この国が残ることのほうが大事じゃ」
隠居は静かに言った。
「もし徳川が国を守れぬ器となったなら、徳川が退くこともまた、家康公への忠義であろう」
澪はすぐには言葉を返せなかった。
徳川直系の主人が、徳川の退く可能性を口にした。
それは、今の世ではあまりにも遠い話に聞こえる。
だが、隠居の表情に冗談はなかった。
「家康公は、草を徳川のためだけに残したのではない」
「外国から、この国を守るため」
「そうじゃ。幕府は国を守るための器にすぎぬ。器と中身を取り違えてはならん」
隠居は目を閉じた。
「家康公が始めた戦いは、思うていたより長かった。二百年を越えてなお、終わる気配がない」
「隠居さま」
「わしの代でも終わらぬであろう」
澪の胸に、小さな痛みが走った。
「だから、終わらせる策ではなく、次へ渡す策を打つ」
隠居は目を開いた。
「慶喜。海軍。影島。そして、各地に眠る草。すべてが一本につながるとは限らぬ。じゃが、一本でも先へ届けばよい」
この人は、自分が最後まで見届けられないことを知っている。
だからこそ、未来に向けていくつもの道を作ろうとしている。
澪は深く頭を下げた。
「影島の改良を急がせます」
「急ぎすぎて粗末なものを作るな」
「はい」
「海音にも伝えよ。船を増やすだけでは足りぬ。船を動かす者を育てよとな」
「承知しました」
隠居は満足そうにうなずいた。
「それから、澪」
「はい」
「医者として、わしをもう少し生かせ」
「そのために来ています」
「十年は要る」
「患者が勝手に決めることではありません」
隠居は声を立てて笑った。
その笑いは明るかったが、澪にはどこか急いでいるようにも聞こえた。
同じころ、土佐の浜では、万次郎が見知らぬ絵師と向き合っていた。
「メリケンのおなごは、美しいですかな」
あまりにも場違いな問いに、万次郎はしばらく答えられなかった。
「……それを聞くために来たがですか」
「無論じゃ」
河田小龍は真顔でうなずいた。
「わしは絵師じゃが、絵だけで食うのは難しい。美人画も描く。土佐のおなごは描き慣れたが、メリケンのおなごは見たことがない」
「だから、わしに」
「そなたしか見ておらんからの」
小龍は懐から紙と筆を取り出した。
万次郎の表情が硬くなる。
それを見た小龍は、筆を持つ手を止めた。
「文字は書かぬ」
「では、何を」
「顔を描く」
小龍は紙の端に、丸い顔をひとつ描いた。
「こんな顔か」
万次郎は、思わず眉をひそめた。
「違います」
「どこが」
「鼻が低すぎます。それに、目も」
「ほう」
小龍の筆が動いた。
「髪は黒か」
「黒い者もおります。金色や、赤みのある者も」
「金色の髪」
小龍は興味深そうに顔を上げた。
「日の光を頭に乗せて歩くようなものか」
その言い方がおかしく、万次郎は思わず笑った。
笑ってから、自分が笑ったことに気づいた。
小龍は何も言わず、再び紙へ目を落とした。
「さて、そのおなごは、どんな町を歩いておった」
筆先が、人物の後ろへ一本の線を引く。
万次郎は紙を見つめた。
ただの美人画だったはずの紙に、まだ見えぬ異国の風景が広がろうとしていた。
▶「裏天正記」幕末編第二部第5話(57)「風向きが変わる」をカクヨムで読む
■ 第5話(57)「風向きが変わる」考察
第57話では、水戸の隠居が幕末編全体の流れを読み始めます。
前話で描かれたのは、土佐という一地域に生まれた「熱」でした。万次郎が異国で見聞きしたことを語り、その言葉を聞いた若者たちが、身分制度や日本のあり方へ疑問を持ち始めています。
今回は、その小さな変化を水戸の隠居が、日本全体を揺らす前兆として捉えました。
蒸気船は「時代そのもの」
隠居は、蒸気船を単なる異国の軍船とは考えていません。
「蒸気船は、ただの船ではない」
「時代そのものじゃ」
この言葉が、今回の中心です。
それまでの船は、風や潮、季節に従って進みます。しかし蒸気船は、人が火を焚くことで自然の制約を越えて進む船です。
蒸気船を目にすることは、巨大な船や大砲に驚くことだけではありません。日本人が、それまで当然だと思っていた世界の仕組みそのものを疑い始める契機になります。
万次郎の言葉によって土佐の若者が身分制度を疑い始めたように、蒸気船の出現は、日本中の人々に幕府や諸藩、武士の役割を問い直させることになります。
隠居が恐れているのは外国だけではない
隠居が最も警戒しているのは、異国そのものではありません。
「異国を見て、互いを敵と思い始める日本人こそ恐ろしい」
異国に対して国を開くべきか、閉ざすべきか。
幕府に従うべきか、朝廷を中心にするべきか。
外国の技術を取り入れるべきか、排除するべきか。
どちらの側も、自分こそ国を守っていると考えます。そのため、単純な善悪では収まらず、日本人同士の争いへ発展していきます。
これは、これから始まる幕末の混乱そのものです。
水戸の隠居は黒船来航を予言しているのではなく、各地から集めた情報によって、黒船が来た後に起こる国内分裂まで読んでいます。
影島は避難所であり、継承の場所
今回、影島の役割も一段階変わりました。
これまでは、外国勢力を監視し、必要なら対抗するための拠点という印象が強くありました。
しかし隠居は、
「影島は、敵を迎え撃つためだけの島ではない」
「そして、人を残す場所じゃ」
と語ります。
つまり影島は、幕府や水戸が動けなくなった場合にも、草の情報、技術、人材を残すための拠点です。
敵に勝つための要塞ではなく、戦いが長期化しても次代へ力を渡すための場所として位置づけられました。
これは、家康が始めた草の戦いが、一代では終わらなかったという物語の主題とも重なります。
水戸の隠居が仕掛ける複数の策
隠居は、自分が幕末の結末まで生きられないことを理解しています。
だから一つの策にすべてを懸けません。
- 徳川慶喜
- 海軍
- 影島
- 各地の草
- 異国の言葉や技術を理解する人材
複数の道を同時に作り、そのどれかが未来へ届けばよいと考えています。
この姿は、水戸黄門のようにすべてを見通す人物というより、先の読めない時代にいくつもの布石を置く策士です。
「すべてが一本につながるとは限らぬ。じゃが、一本でも先へ届けばよい」
この考え方によって、後の慶喜、大政奉還、海軍建設も、偶然の歴史ではなく、隠居が残した策の一部として描けます。
大政奉還への最初の伏線
今回、最も大きな伏線となるのが、
「徳川が残ることより、この国が残ることのほうが大事じゃ」
という言葉です。
さらに隠居は、徳川が国を守れなくなれば、徳川が退くことも忠義だと語ります。
この段階では、大政奉還という具体的な構想が完成しているわけではありません。しかし、幕府を守ることと、日本を守ることは同じではないという思想が、すでに隠居の中にあります。
この思想が慶喜へ引き継がれれば、大政奉還は徳川の敗北ではなく、
外国勢力に幕府を奪われる前に、権力を朝廷へ返すための戦略
として描けます。
「十年は要る」の意味
隠居が澪へ、
「十年は要る」
と言う場面には、軽いやり取りの裏に焦りがあります。
隠居には、これから必要になる人材や組織を整える時間が足りません。自分が最後まで見届けられない可能性も分かっています。
そのため、笑いながら十年を求める言葉には、
- 慶喜を育てる時間
- 海軍を整える時間
- 影島を完成させる時間
- 草を次代へ引き継ぐ時間
という複数の意味が含まれています。
小龍と万次郎の対照
前半では、日本の未来を左右する重い話が続きます。
その直後に、土佐で小龍が万次郎へ、
「メリケンのおなごは、美しいですかな」
と尋ねます。
この落差によって物語が硬くなりすぎるのを防いでいます。
しかし、小龍の問いも単なる笑いではありません。
女性の顔から髪の色へ、服装へ、町並みへと話題を広げれば、やがて港や船の話へ自然に入れます。
万次郎は役人の聞き取りや周囲の噂によって、異国について話すことを警戒しています。小龍は正面から蒸気船を尋ねず、美人画という安全な入口から、万次郎の記憶を開こうとしています。
第57話では、水戸の隠居が日本全体を動かす布石を打ち始める一方、土佐では一人の絵師が一枚の紙から異国の姿を引き出し始めました。
大きな策と小さな会話が、同じ未来へ向かって動き出した回です。
