黒船来航前の勝海舟――『外国は近い』と気づいた航海 | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
信じるか信じないかは、あなた次第です!

 南へ進むにつれ、空の色が少しずつ変わった。

 勝には、そう見えた。

 実際に空が違うのか、それとも自分の目がそう感じているだけなのかは分からない。

 ただ、房総を出た頃より陽射しは強く、甲板へ出れば肌がじりじりと焼かれる。

「暑いな」

 勝が額の汗を拭う。

「南へ来てるからな」

 海音は船縁にもたれながら答えた。

「江戸じゃ、まだこんな暑くねえぞ」

「江戸じゃない」

「分かってるよ」

 勝は空を見上げた。

 雲の形まで違って見える。

 その下で、海はどこまでも青かった。

 最初の頃は水平線を見るたびに感動していた。

 だが数日もすると、それにも少し慣れてくる。

 代わりに、勝は別のものを見るようになっていた。

 海図。

 方位磁針。

 風。

 雲。

 船員の顔。

 そして毎日減っていく石炭と水。

「海音さん」

「何だ」

「今日はどのくらい進んだ?」

「昨日より少し遅い」

「何でだ?」

「風と波だ」

「蒸気で進んでるのに?」

「蒸気で進めば、海が消えるのか?」

「……消えねえな」

 海音が笑う。

「分かってきたじゃねえか」

「馬鹿にしてんだろ」

「少しな」

     *

 その日の午後。

 空に雲が増えた。

 風も強くなる。

 船員たちが甲板を忙しく動き始める。

 勝はその様子を追った。

「何か来るのか?」

「少し荒れるかもしれん」

「嵐か?」

「そこまでじゃない」

「前にも聞いたな、それ」

「何を」

「船酔いした時も、大したことねえって言った」

「実際、大したことなかった」

「おいらには大したことあったんだよ」

 海音が肩をすくめる。

「なら今回は覚悟しとけ」

「今度は吐かねえ」

「そうか」

「たぶん」

「弱くなったな」

「経験ってのは、人を慎重にするんだよ」

 言った直後、船が大きく持ち上がった。

「うおっ!」

 勝が近くの索具を掴む。

 海音は何事もなかったように立っている。

「……何で立ってられる」

「慣れだ」

「それ、便利な言葉だな」

 波が船腹を叩く。

 蒸気船は揺れながら南へ進んだ。

 勝は何度か顔色を悪くしたものの、今度は船室へ逃げなかった。

 甲板に残り、船員たちの動きを見続ける。

 誰かが声を上げる。

 別の者が動く。

 風向きを見る者がいる。

 海音が指示を出す。

 それを聞いた男たちが迷わず動く。

 勝は濡れた髪をかき上げた。

「海音さん!」

「何だ!」

「こういう時、誰か一人でも間違えたらどうなる!」

「間違いによる!」

「舵を間違えたら!」

「困るな!」

「機関の火を落としたら!」

「もっと困る!」

「やっぱり人なんだな!」

「何がだ!」

「船を動かしてんのは!」

 海音は勝を見た。

 ほんの一瞬だった。

「今さらか!」

「確認してんだよ!」

 勝は笑った。

 波しぶきが顔に当たる。

 塩辛かった。

     *

 夕方には海も落ち着いた。

 勝は甲板に座り込み、濡れた袖を絞っていた。

「吐かなかったな」

 海音が言う。

「危なかったけどな」

「成長したじゃねえか」

「それ、褒めてんのか?」

「かなり」

 勝は鼻で笑った。

 その時だった。

 見張り台から声が飛んだ。

 海音の表情が変わる。

 勝も立ち上がった。

「何だ?」

 海音は答えず、前方へ目を凝らす。

 夕方の光の中。

 水平線の一角に、何かが見える。

 雲ではない。

 勝も目を細めた。

「……島か?」

「ああ」

「まさか」

 海音が短く答える。

「グアムだ」

 勝が黙った。

 数日前まで、海図の上にあった名前。

 指先ほどの印。

 それが今、水平線の向こうにある。

 勝は船縁まで歩いた。

 まだ遠い。

 島の細かな様子までは分からない。

 それでも陸地であることははっきりしていた。

「本当にあったな」

「なかったら困る」

「そういうことじゃねえよ」

 勝は目を離さない。

「日本じゃねえんだな」

「ああ」

「スペインの領分」

「そうだ」

 勝はしばらく黙っていた。

「江戸から、ここまで来たんだよな」

「来たな」

「船で」

「ああ」

「何日もかかった」

「そうだな」

 勝は遠くの島を見る。

 海音は何も言わなかった。

「……近いな」

「何が?」

「外国だよ」

 海音が勝を見る。

 勝はまだ島を見ている。

「もっと遠いと思ってた」

「地図で見てたからか」

「たぶんな」

 勝は唇を噛んだ。

「おいらたちがここまで来られるなら」

 言葉が止まる。

 海音は続きを待った。

「向こうも、日本まで来られるってことだよな」

「ああ」

 その返事だけだった。

 勝の顔から、先ほどまでの興奮が消えた。

 代わりに、何かを考えるような目になる。

 日本では、外国は海の向こうにある。

 遠い。

 だから簡単には来ない。

 どこかでそう思っていた。

 だが違う。

 海は壁ではない。

 船があれば進める。

 方角を知り、位置を知り、水と食料と燃料を積み、人を揃えれば、ここまで来られる。

 なら、その逆も同じだ。

「海音さん」

「何だ」

「外国船が日本へ来るのを止めるってのは……」

 海音が勝を見る。

「難しいんだろうな」

「俺に聞くな」

「何でだよ」

「それを考えるために、お前はここにいるんじゃないのか」

 勝が眉を寄せた。

「誰がそう言った」

「誰も」

「じゃあ勝手なこと言うな」

 海音は笑った。

「悪かったよ」

     *

 日が沈む前に、船は速度を落とした。

 勝は不思議そうに周囲を見る。

「港へ入らないのか?」

「入らん」

「ここまで来て?」

「この船を見せる必要はない」

 海音の声が少し低くなる。

 勝は遠くの島を見る。

「じゃあ、どうする」

「沖で待つ」

「何を?」

「夜を」

「夜?」

 海音は答えなかった。

 代わりに船員へいくつか指示を出す。

 甲板の一角で、小舟の準備が始まった。

 勝の目が動く。

「おい」

「何だ」

「あれ、出すのか」

「ああ」

「誰が乗る」

 海音が勝を見る。

「俺と、お前だ」

 勝の顔が止まった。

「おいらも?」

「嫌なら船に残れ」

「誰が嫌だって言った」

「そうか」

「上陸するのか?」

 海音は口元だけで笑った。

「質問が多いな」

「ここまで連れてきたのは、あんただろ」

「まだ明るい。少し寝とけ」

「寝られるか」

「なら勝手にしろ」

 海音は去っていった。

 勝は再びグアムを見る。

 日が落ち、島はゆっくり影になっていく。

 あそこには、自分が見たことのない人間がいる。

 聞いたことのない言葉がある。

 日本とは違う暮らしがある。

 そしてスペインという国の力が、こんなところまで伸びている。

 胸が高鳴る。

 同時に、妙な重さもあった。

 数日前、蒸気船を見た時は、ただ面白かった。

 今は違う。

 知らないものを見たいという気持ちと、その先に何があるのかという不安が、同時にある。

 やがて海音が戻ってきた。

 腕には何かを抱えている。

「勝さん」

「何だい」

 海音は勝の頭から足元まで眺めた。

 そして、ため息をついた。

「その格好じゃ、目立ってしょうがねえな」

「は?」

 海音が抱えていたものを放る。

 勝は慌てて受け取った。

 広げる。

 船員が着る服だった。

「何だ、これ」

「着替えろ」

「おいらに?」

「他に誰がいる」

 勝は自分の着物と、渡された服を交互に見る。

「この格好じゃ駄目なのか」

「刀差した日本の侍が外国の港を歩いてみろ」

 海音が笑った。

「見物人が集まるぞ」

 勝は顔をしかめた。

「……刀も置いてくのか」

「当然だ」

「丸腰で異国へ行けって?」

「なんでも経験だ」

「それ、便利に使ってねえか?」

「早く着替えろ。暗くなるぞ」

 勝は服を抱えたまま、もう一度島を見た。

「異国か……」

 今度は、その言葉の響きが少し違って聞こえた。

 


▶「裏天正記」幕末編第二部第19話(71)「水平線の向こう」をカクヨムで読む

■ 第19話(71)「水平線の向こう」考察

第71話は、勝麟太郎にとって**「外国が地図上の知識から、実際に行ける場所へ変わった回」**です。

第70話では蒸気船について「知っている」と「実際に経験する」の違いを描きました。第71話では、その対象が船から世界そのものへ広がっています。

1.勝が海そのものを学び始めた

冒頭では、勝の見るものが変化しています。

最初は蒸気機関に興奮していましたが、今では海図、方位磁針、風、雲、船員、石炭、水を見るようになっています。

特に、

「蒸気で進んでるのに?」
「蒸気で進めば、海が消えるのか?」

という海音とのやり取りが重要です。

蒸気船という新技術を手に入れても、風や波という自然条件から自由になるわけではありません。

つまり勝は「強い船さえあればいい」という単純な発想から、少しずつ離れています。

2.二度目の船酔いが「成長」の描写になっている

第69話では、勝は完全に海に負けました。

今回は海が少し荒れても甲板に残っています。

「今度は吐かねえ」
「たぶん」

ここで「絶対」と言わなくなったところが勝らしいです。

一度船酔いを経験したことで、海を甘く見なくなった。

そして、

「経験ってのは、人を慎重にするんだよ」

という言葉につながります。

この考え方は、今後ご隠居が勝を評価する材料にもできます。

3.嵐の中でも勝が見ているのは「人」

今回も勝は機械だけを見ていません。

海が荒れた時、

「こういう時、誰か一人でも間違えたらどうなる!」

と聞きます。

さらに、

「やっぱり人なんだな!」
「船を動かしてんのは!」

と気づく。

第68話から続いている勝の特徴です。

蒸気機関を見ても、最後には人を見る。

船員の交代、指揮、役割分担まで観察する。

これは後に単なる「船好き」ではなく、船を動かす組織を考える人物へつながっていきます。

4.「グアムだ」で地図が現実になる

今回最大の転換点です。

「……島か?」
「ああ」
「まさか」
「グアムだ」

勝にとってグアムは、それまで海図に書かれた名前でした。

ところが、その島が実際に水平線から現れる。

第70話の、

蒸気船を知っている → 本物の蒸気船を見る

と同じ構造で、

グアムを知っている → 本物のグアムを見る

へ進んでいます。

この反復によって、「書物だけでは世界を知ったことにならない」という今回の航海全体のテーマが強くなっています。

5.「近いな」が最も重要な一言

今回の核心はここだと思います。

「……近いな」
「何が?」
「外国だよ」

物理的にグアムが日本のすぐ隣という意味ではありません。

勝が感じたのは、船を使えば外国と日本はつながってしまうという距離感です。

さらに、

「おいらたちがここまで来られるなら」
「向こうも、日本まで来られるってことだよな」

へ進みます。

これは幕末へつながる非常に重要な気づきです。

日本側から見れば「外国船がやって来る」。

しかし海の側から見れば、日本も単に航海して到達できる土地の一つです。

まだペリー来航前だからこそ、この認識を勝に持たせる意味があります。

6.「海は壁ではなく道」という考えが形になり始めた

第65話の団子屋で、勝はすでに海について「閉じられない道」のような発想を持っていました。

しかし、それはまだ知識と想像でした。

今回は自分自身が房総からグアムまで移動してしまった。

そのため、

海は日本を外国から隔てる壁ではない。外国と日本をつなぐ道にもなる。

という考えが実感になります。

いずれご隠居と直接会わせた時、

「外国を見て、どう思った」

と聞かれて、

「近すぎます」

と答えさせる構想にも、今回できれいにつながりました。

7.海音が答えを教えないのがいい

勝が、

「外国船が日本へ来るのを止めるってのは……難しいんだろうな」

と言った時、海音は答えを与えません。

そして、

「それを考えるために、お前はここにいるんじゃないのか」

と言う。

ただし勝から、

「誰がそう言った」

と返される。

ここも重要です。

海音は先生ではありません。

ご隠居の思想を勝へ講義する役でもありません。

見せるところまでが海音の役割で、そこから何を考えるかは勝自身に任せる。

この距離感は維持した方がいいでしょう。

8.蒸気船が港へ入らない理由

終盤では船がグアムの港へ直接入らず、沖合に留まります。

これは物語上重要です。

この船の存在そのものが秘密だからです。

正式に外国港へ入れば、船籍、船名、船長、出港地などを問われる可能性が出ます。

そこで小舟を使い、夜に目立たない形で入る。

「草」が万能だから潜入できるのではなく、余計な記録や注目を避けるための行動として描いている点が自然です。

9.最後に「侍」を脱がせる

ラストの着替えは、単なる変装以上の意味を持たせられます。

「刀差した日本の侍が外国の港を歩いてみろ」
「見物人が集まるぞ」

勝はこれまで、日本人の侍として外国を考えてきました。

ところがグアムへ上陸するためには、

着物を脱ぐ。
刀を置く。
船員の服を着る。

つまり日本国内で自分を規定していた外見や身分を、一時的に船へ置いていくことになります。

そして次回、外国人の中へ入った瞬間、今度は勝自身が「異国から来た人間」になります。

ここから、

「ここじゃ、誰が異人なんだ?」

という気づきまで持っていけると強いです。