蒸気船が房総の沖を離れてから、勝麟太郎はしばらく甲板から動かなかった。
煙突から吐き出される煙。
規則正しく響く機関の音。
帆に頼らず進んでいく船。
どれも蘭書では知っていた。
だが、知っていることと、その上に立つことはまるで違った。
「海音さん」
「何だ」
「今、どれくらいの速さで走ってる?」
海音が答える。
勝は少し考え、それから船縁へ寄って海面を見た。
「じゃあ、もっと速くできるのか?」
「できる」
「どこまで?」
「それは機関を見ながら話した方が早いな」
「よし。じゃあ――」
そこで勝の言葉が止まった。
海音が振り返る。
「どうした」
「いや」
勝は腹を押さえた。
「何でもねえ」
「そうか」
海音は何も言わなかった。
船はさらに沖へ進む。
陸に近いうちは穏やかだった海も、外へ出るにつれてゆっくりとうねり始めた。
甲板が持ち上がる。
沈む。
また持ち上がる。
勝は足を開いて踏ん張った。
「……なるほど」
「何がだ」
「こうなるわけか」
「何が?」
「揺れだよ」
そう言って笑ったものの、顔色は先ほどより悪い。
海音はちらりと見ただけだった。
「機関を見るか?」
「当たり前だ」
「なら、こっちだ」
二人が歩き始める。
数歩進んだところで、勝が止まった。
「ちょっと待て」
「どうした」
「船が傾いてる」
「傾いてない」
「いや、傾いてる」
「揺れてるだけだ」
「同じじゃねえか」
「違う」
勝は何か言い返そうとした。
だが口を押さえた。
そのまま船縁へ走る。
「おい」
海音が声をかけた時には遅かった。
「うっ……」
勝の背中が丸くなった。
海音は腕を組む。
「船酔いか」
「……違う」
「そうか」
「夕餉が悪かっただけだ」
「まだ夕餉は食ってないぞ」
「昨日のだ」
「便利な腹だな」
勝が睨んだ。
だが睨んでいる余裕も長くは続かなかった。
*
その夜。
勝麟太郎は死んでいた。
少なくとも本人はそう思っていた。
「水……」
横になったまま手を伸ばす。
船員の一人が椀を渡した。
「少しずつ飲んだ方がいい」
「ありがてえ……」
一口飲む。
船が持ち上がった。
「うっ」
勝は目を閉じた。
船が沈む。
「待て……」
何に待てと言っているのか、自分でも分からない。
蘭書には船の構造が書いてあった。
蒸気機関についても書いてあった。
海図の読み方も少しは勉強した。
だが――。
「こんなの……書いてなかったぞ……」
近くにいた船員が笑う。
「船酔いを蘭書で習おうってのか」
「笑うな……」
「最初はそんなもんだ」
「お前もなったのか」
「なった」
勝が薄く目を開けた。
「本当か」
「ああ。三日吐いた」
「三日……」
勝の顔からさらに血の気が引いた。
「おいら、降りる」
「ここで?」
「……無理か」
「泳ぐなら止めねえけど」
「寝る」
「そうしろ」
勝は目を閉じた。
だが眠れない。
機関の音が腹の底へ響く。
船体が軋む。
波が船腹を叩く。
揺れる。
揺れる。
また揺れる。
時間の感覚がなくなった。
自分が上を向いているのか、横を向いているのかも分からなくなる。
何度目かに吐いた後、勝は壁にもたれた。
「海音さん……」
「何だ」
いつの間に来たのか、入口に海音が立っていた。
「船ってのは……いつもこんなに揺れるのか」
「今日は大したことない」
勝がゆっくり顔を上げる。
「……何?」
「凪いでる方だ」
「嘘つけ」
「嘘をついてどうする」
「これで?」
「ああ」
勝はしばらく海音を見た。
やがて力なく横になる。
「海ってのは……すげえところだな」
「まだ何も見てないぞ」
「今は聞きたくねえ……」
海音は笑って去っていった。
勝は再び目を閉じた。
次に船が持ち上がった時には、もう抗う力も残っていなかった。
気が遠くなるように、そのまま眠りへ落ちた。
*
暑い。
勝は目を開けた。
しばらく天井を見ていた。
「……生きてるな」
体を起こす。
まだ気持ちは悪い。
だが昨夜ほどではない。
機関の音は変わらず続いていた。
船も揺れている。
不思議なことに、昨夜より少しだけ体がそれを受け入れている。
勝は立ち上がった。
壁に手をつきながら歩く。
階段を上がった。
そして甲板へ出た瞬間、目を細めた。
「まぶし……」
太陽が照りつけている。
昨夜の暗い海とはまるで違った。
空が青い。
海も青い。
勝は甲板を歩いた。
そして船縁まで来て、止まった。
「……」
右を見る。
海。
左を見る。
海。
後ろを見る。
やはり海。
陸がない。
山もない。
家もない。
寺の屋根も、松の木もない。
どこを見ても水平線だった。
勝は船縁へ両手を置いた。
「起きましたか」
後ろから声がする。
海音だった。
「どうです、具合のほうは?」
勝は水平線を見たまま答えた。
「船酔いってのは、すごいものだな」
「もう降りたいか?」
「昨日の夜なら、銭払ってでも降りたかった」
「今は?」
勝は答えなかった。
海を見ている。
海音も隣へ来た。
「初めてか。ここまで陸を離れたのは」
「ああ」
勝は目を細めた。
「何もねえな」
「海だからな」
「そうじゃねえよ」
勝が水平線を指した。
「陸がねえんだ」
「だから海だ」
「分かってるよ」
勝は笑った。
しばらくすると、その笑みも消えた。
「昨日までな」
勝が言った。
「海ってのは、江戸の向こうにあるもんだと思ってた」
海音は黙っている。
「浦賀へ行っても、向こうには陸がある。房総へ行っても、海の向こうを見てりゃ、どこかに日本がある気がする」
勝は水平線を見る。
「ここには何もねえ」
「怖いか?」
「少しな」
勝は正直に答えた。
「でも……」
風が吹いた。
勝の髪が乱れる。
「面白え」
海音が笑った。
「昨日も言ってたな」
「昨日のおいらとは違う」
「何が違う」
「船酔いを知ってる」
「大した進歩だ」
「馬鹿にすんな」
勝も笑った。
その時、ふと思い出したように海音を見る。
「そういや、今夜には房総へ戻るんだったな」
海音の顔から笑みが消えた。
「誰が言った」
「宗助だよ」
「宗助が?」
「ああ」
海音は少し考えた。
「予定が変わった」
勝の眉が動く。
「……どこへ行く」
「南だ」
「だから、南のどこだ」
海音は甲板の先へ視線を向けた。
「グアムという島を知っているか」
勝の顔が止まった。
知っていた。
蘭書の地図で見たことがある。
日本のはるか南。
「待て」
勝が海音を見る。
「まさか、そこまで行くってのか」
「アメリカまでは連れていけん」
「当たり前だ!」
「だが、グアムの近くまでは行く」
勝は言葉を失った。
もう一度、水平線を見る。
今までとは違って見えた。
この海の先に、本当に異国がある。
地図の中にしかなかった島へ、この船は向かっている。
「何日かかる」
「天候次第だ」
「着替えも持ってきてねえぞ」
「貸してやる」
「そういう問題じゃねえ!」
海音が声を上げて笑った。
勝は頭を抱えた。
「宗助の野郎……」
「帰ったら文句を言え」
「言う。絶対に言う」
そう言いながらも、勝の目は再び水平線へ向かっていた。
昨夜は、この海から逃げ出したかった。
今は違う。
水平線の向こうに何があるのか。
自分の目で見てみたい。
船は南へ進んでいる。
勝はしばらく海を見つめたあと、海音へ振り返った。
「海音さん」
「何だ」
「機関室、見せてくれ」
「船酔いは?」
「吐いたら、また戻ってくる」
「そうか」
海音は歩き出した。
「なら来い」
「おう」
勝はその後を追った。
まだ足元は少し頼りない。
それでも昨夜とは違っていた。
蘭書の中にあった海は、もうどこにもなかった。
ここにあるのは、揺れ、音を立て、どこまでも続いている本物の海だった。
▶「裏天正記」幕末編第二部第17話(69)「海の洗礼」をカクヨムで読む
■ 第17話(69)「海の洗礼」考察
第69話は、勝麟太郎が蒸気船を「見る」段階から、海そのものを身体で知る段階へ進んだ回です。
第68話では蒸気船との出会いに「面白え」と目を輝かせた勝ですが、海はそんな勝を歓迎してくれません。最初に与えたものは知識でも感動でもなく、強烈な船酔いでした。
1.蘭書には「船酔い」は書いていない
今回の中心になるのは、
「こんなの……書いてなかったぞ……」
という勝の言葉です。
勝は蒸気機関や船の構造を蘭書で学んできました。しかし、船がどれほど揺れるのか、その中で人間がどうなるのかは、本を読んでいるだけでは分かりません。
しかも海音から返ってくるのは、
「今日は大したことない」
「凪いでる方だ」
という容赦のない言葉です。
勝にとっては死ぬほど苦しい。
ところが船乗りにとっては普通の海。
ここで初めて、蘭学者としての勝と、実際の船乗りとの経験差がはっきりします。
海音が勝の先生として講義する必要がない理由もここにあります。海そのものが勝を教えているからです。
2.翌朝、「陸がない」という発見
現代人には当たり前ですが、江戸時代に生きる勝にとって、
見渡す限り陸地がない場所に立つ
こと自体が大きな経験です。
「何もねえな」
に対して海音は、
「海だからな」
と答えます。
しかし勝が言っている「何もない」は、単なる景色の話ではありません。
これまでは浦賀でも房総でも、海は「陸から見るもの」でした。
ところが今は違う。
自分自身が陸から切り離されています。
この感覚は、後々の勝の「日本を海から考える」という発想へつなげていけます。
3.勝を英雄にしすぎない
今回かなり重要なのが、勝が素直に、
「怖いか?」
「少しな」
と認めているところです。
最初から豪胆で、船酔いにも負けず、異国へ向かうことにも恐怖を感じない人物にしてしまうと、後世の「勝海舟」という完成された人物像を1852年へ持ち込むことになります。
今回の勝は違います。
吐く。
弱音も吐く。
船から降りたくなる。
異国へ向かうと聞けば驚く。
着替えの心配までします。
それでも、
「面白え」
が恐怖を少し上回る。
この程度の方が、『裏天正記』で描いている「まだ何者でもない若者」として説得力があります。
4.「昨日のおいらとは違う」
海音から、
「昨日も言ってたな」
と言われた勝が、
「昨日のおいらとは違う」
「船酔いを知ってる」
と返します。
冗談のような会話ですが、今回のテーマそのものです。
昨日の勝と今日の勝には、一晩分の経験しかありません。
しかしその一晩には、
本を何冊読んでも得られなかった経験が一つ増えた。
これは今後も積み重ねられます。
船酔いを知る。
機関室の熱を知る。
石炭が減ることを知る。
水や食料が必要だと知る。
船員が疲れることを知る。
嵐を知る。
異国を見る。
そうやって「蘭書で船を知っている勝麟太郎」から「海を知る勝麟太郎」へ少しずつ変わっていくわけです。
5.グアムは「地図の中の外国」を実物に変える場所
今回、海音は初めて目的地を明かします。
「グアムという島を知っているか」
勝は知っている。
ただし、それは地図上の知識です。
これは蒸気船とまったく同じ構造になっています。
蒸気船も知っていた。だが本物は知らなかった。
そして今度は、
グアムも知っている。だが本物の外国は知らない。
つまり今回の航海では、勝の知識が二段階で現実へ変わっていきます。
「船」という知識が実物になった。
次は「外国」という知識が実物になる。
ここがグアム航海を入れる大きな意味になります。
6.アメリカへ行かせないことも重要
ここでいきなりアメリカまで連れていってしまうと、後の史実との距離が一気に大きくなりすぎます。
グアム近海なら、
外国を見る。しかし世界の中心までは見せない。
という中間地点にできます。
勝にとっては十分な衝撃ですが、「世界を知り尽くした人物」にはならない。
むしろグアムを見たことで、
では、その先には何がある?
アメリカとはどんな国なのか?
ヨーロッパとはどんなところなのか?
と疑問が増える。
知識を与えるほど、知らないことが増えていく構成にできます。
7.最後に機関室へ向かう意味
最後の、
「機関室、見せてくれ」
「船酔いは?」
「吐いたら、また戻ってくる」
も勝らしい締めです。
船酔いを克服したわけではありません。
根性で平気になったわけでもない。
吐くなら吐く。それでも見る。
この姿勢こそ、ご隠居が知りたかった部分でしょう。
勝に才能があるかどうかだけではなく、
分からないもの、苦しいものを前にして、それでも知ろうとする人間なのか。
その答えが少しずつ出始めています。
今後へのつながり
第70話では、いよいよ機関室が中心になりそうです。
そこで勝に、
「本じゃ音がしねえ」
「熱くもねえ」
「こんなに人が要るとも思わなかった」
と実感させる。
さらに石炭を見せれば、
「これ、どれくらい積んでる?」
「なくなったら?」
「どこで補給する?」
と質問が自然に広がります。
そうすると勝の興味が、
蒸気機関 → 船 → 人 → 燃料 → 補給 → 港
へ広がっていく。
ここから「強い船を持てばいい」ではなく、海で戦える仕組みそのものが必要だという発想へ進めます。
