それから五日ほど、勝麟太郎の前に宗助は姿を見せなかった。
六日目の昼。
勝がいつもの団子屋で二本目を食べ終えた頃、向かいに人影が座った。
「親父。茶を一つ」
聞き覚えのある声だった。
勝は団子を噛みながら顔を上げる。
「遅かったじゃねえか」
「何のことでしょう」
「近いうちに来るって言ったのは、あんただろ」
「六日なら十分近いうちです」
「おいらは三日目から毎日待ってたんだぞ」
「団子を食べに来ただけでは?」
勝が黙る。
「……嫌な野郎だねえ」
「よく言われます」
宗助は茶を一口飲んだ。
「明日の夕刻、空けておいてください」
勝の目が変わった。
「船か?」
「団子ではありません」
「どこへ行く」
「それは明日」
「誰の船だ」
「それも明日……と言いたいところですが、それは明日になってもお答えできません」
勝は眉を寄せた。
「面倒くせえ話だな」
「やめますか」
「誰がそんなこと言った」
即答だった。
*
翌日。
勝は宗助に連れられ、江戸を離れた。
途中で何度か舟を使い、さらに歩いた。
どこへ向かっているかは、おおよそ分かる。
「房総だな」
「さすがに、それくらいは分かりますか」
「おいらを馬鹿にしてんのか」
「まさか」
「で、房総のどこだ」
「着けば分かります」
「誰の船だ」
「お答えできません」
「何のための船だ」
「それも」
「どこで造った」
「知りません」
「それは本当か?」
「さて」
「……やっぱり嫌な野郎だ」
陽が傾き始めた頃、二人は小さな浜へ出た。
人家は見えない。
背後には木々が茂り、細い道も少し離れれば分からなくなる。
海は穏やかだった。
波らしい波もない。
勝は浜を歩きながら沖を見た。
「船なんかねえぞ」
「まだ明るいですから」
「何だそりゃ」
宗助は答えなかった。
浜の岩陰には、小さな舟が一艘伏せてある。
その近くで、二人の男が黙々と支度を始めた。
勝は二人を見る。
「この人たちは?」
「舟を出す者です」
「見りゃ分かる」
勝は宗助の横へ来た。
「宗助さんよ」
「はい」
「そろそろ何か教えてくれてもいいんじゃねえか」
宗助は少し考えた。
「では、最初に言っておきます」
「おう」
「今は、船についての質問以外は受け付けられません」
勝の眉が上がった。
「今は?」
「はい」
「誰の船だ」
「お答えできません」
「どこから来た」
「それも」
「誰に言われて、おいらを連れてきた」
「それもです」
「じゃあ、あんたたちは何者だ」
「それも船の質問ではありませんね」
勝はしばらく宗助の顔を見ていた。
「よくそれで商売できるな」
「答えてはいけないことに答えないから、商売が続いているのですよ」
「なるほどねえ」
勝は海へ目を戻した。
「船のことなら聞いていいんだな」
「分かる者がお答えします」
「あんたじゃねえのか」
「私は船乗りではありません」
「じゃあ誰だ」
「会えば分かります」
「それは船の質問じゃねえのか」
「違いますね」
「ちぇっ」
宗助は少しだけ笑った。
日が沈む。
浜から色が消えていった。
やがて沖も暗闇に溶ける。
「出ます」
舟を用意していた男が言った。
宗助が乗る。
勝も続いた。
小舟は静かに浜を離れた。
*
櫓の音だけが聞こえる。
ぎい。
水を掻く。
また、ぎい。
勝は黙っていた。
先ほどまでの質問が嘘のようだった。
暗い海を見ている。
何もない。
いや。
「……あれか?」
宗助は答えなかった。
沖に、小さな灯が一つ見えた。
星にしては低い。
舟が進むにつれ、灯は少しずつ大きくなる。
やがて、その下に黒いものが見え始めた。
勝が身を乗り出す。
「おい」
船頭が小さく声をかけた。
「落ちますよ」
「分かってる」
だが勝は座らない。
暗闇の中から、巨大な影が浮かび上がってくる。
まず帆柱。
次に船腹。
そして――。
「煙突……」
勝の口から声が漏れた。
書物の中で何度も見た形。
図に描いたこともある。
どう動くのか考えた。
だが、それはいつも紙の上にあった。
今は違う。
目の前にある。
「本物か」
宗助が初めて答えた。
「本物です」
小舟がさらに近づく。
勝は首をいっぱいに反らして船を見上げた。
「……でけえな」
それしか言葉が出なかった。
宗助は横で黙っていた。
船から縄梯子が下ろされる。
「上がれますか」
宗助が聞く。
「馬鹿にすんな」
勝が縄へ手をかける。
途中で一度、船腹へ手を触れた。
暗くてよく見えない。
それでも確かめるように、掌を這わせる。
「勝さん」
「分かってるよ」
上から声がする。
勝は再び登り始めた。
*
甲板へ顔を出した瞬間、勝の目が忙しく動いた。
船員。
索具。
帆柱。
舵のある方角。
甲板に固定されたもの。
そして煙突。
宗助も続いて上がる。
「宗助」
声がした。
一人の男が近づいてきた。
日に焼けた顔。
立ち姿だけで、陸の人間ではないと分かる。
「お待たせしました」
宗助が頭を下げた。
「あとはお願いします」
「ああ」
勝が二人を交互に見る。
「知り合いかい」
「船については、この方に聞いてください」
「名前くらい聞いていいんだろうな」
男が笑った。
「海音だ。この船では船長をしている」
「勝麟太郎」
「聞いている」
勝の眉が上がった。
「おいらのことは知ってるのか」
「少しな」
「こっちは何も知らねえってのに」
「そういう約束で乗ってきたんじゃないのか」
勝は宗助を見る。
「本当に嫌な連中だな」
「それでは私はこれで」
「待て」
勝が宗助の袖を掴んだ。
「帰るのか?」
「はい」
「おいらを置いて?」
「船に乗りたかったのでしょう」
「そうだけどよ」
宗助は勝の手を外した。
「帰りはこの船が浜の沖まで戻ります」
「いつだ」
「明日の夜です」
勝の顔が止まった。
「……明日の?」
「聞いていませんでしたか」
「聞いてねえよ!」
「今、お伝えしました」
宗助は澄ました顔で縄梯子へ向かった。
「宗助!」
「よい航海を」
勝の声を背中に受けながら、宗助は小舟へ降りていった。
「逃げたな、あいつ」
勝が呟く。
「逃げ足は速い」
海音が言った。
「知ってるなら先に言え」
勝はため息をついた。
そして改めて甲板を見渡した。
「それで」
海音が尋ねる。
「どこから見たい」
「どこからって……」
「勉強してきたなら、知りたいことはたくさんあるんだろ」
勝は海音を見る。
海音はそれ以上何も言わない。
勝の視線が煙突へ向かう。
次に舵。
索具。
船員たち。
すぐに機関を見たい。
船の腹の中へ潜りたい。
何がこの巨体を動かすのか確かめたい。
だが――。
勝の目が一人の船員で止まった。
男は何かを確認すると、別の船員へ短く声をかけた。
声を受けた男がすぐ動く。
さらに別の男へ声が渡る。
勝はその様子を追った。
「海音さん」
「何だ」
「あの男は、何をしてる」
海音が視線を向ける。
「どいつだ」
「あそこで指図してる奴だ」
「ああ」
「それと、あっちの男は?」
「何が知りたい」
勝は少し考えた。
「この船で、誰が誰に命令する」
海音の目が、ほんの少し変わった。
「機関じゃなくていいのか」
「機関も見る」
勝は即答した。
「けど、そいつは逃げねえだろ」
「まあな」
「人は動く」
勝は船員たちへ目を戻した。
「だから先にこっちだ」
海音は小さく笑った。
「分かった」
その時だった。
甲板の下から低い音が響いた。
ゴン――。
勝が振り返る。
もう一度。
ゴン――。
やがて音が規則正しくなる。
足の裏へ微かな震えが伝わってきた。
「おい……」
煙突から煙が立ち始める。
船員たちが動く。
帆は張られていない。
それなのに、船の横を流れる水がゆっくりと動き始めた。
勝は船縁へ駆け寄った。
海面を見る。
確かに進んでいる。
「動いてる……」
紙の上にしかなかったものが、今、勝の足の下で動いている。
海音が隣に立った。
「勝」
「ああ?」
「外へ出るぞ」
「外?」
「外洋だ」
勝は暗い水平線を見た。
江戸の灯など、どこにもない。
振り返れば、宗助を乗せた小舟の灯も、もう闇の中へ消えかけている。
勝はしばらく黙っていた。
やがて、口元がゆっくりと上がった。
「面白え」
蒸気船は闇の海へ向かって進んでいった。
▶「裏天正記」幕末編第二部第16話(68)「沖に待つ船」をカクヨムで読む
■ 第16話(68)「沖に待つ船」考察
第68話は、これまで蘭書の中でしか蒸気船を知らなかった勝麟太郎が、初めて「本物」に触れる回です。
しかし今回の中心は、単に「勝が蒸気船を見て驚いた」ということではありません。
ご隠居が見ようとしているのは、
本物を前にした時、この男は何を見るのか。
そこにあります。
1.宗助は「船まで連れていく人」
今回から宗助と海音の役割が明確に分かれました。
宗助は勝を見つけ、観察し、秘密の入口まで連れていく人物。
一方、船に乗ってからは海音へ引き渡します。
宗助自身も、
「私は船乗りではありません」
とはっきり言っています。
草は何でもできる万能集団ではありません。それぞれに役割があり、専門外については専門家へ任せる。
この分業が、これから「海での戦」を学ぶ組織を作っていく上でも重要になってきます。
2.「船の質問以外は受け付けられません」
宗助が勝に告げた、
「今は、船についての質問以外は受け付けられません」
という言葉には二つの意味があります。
一つは当然、草やご隠居、影島などの秘密を守るためです。
しかしもう一つ重要なのが、
「今は」
という言葉です。
勝が信用できる人物なのかは、まだ決まっていません。
だから現段階では船だけ。
試験を重ねて信用できると判断されれば、その先にあるものを少しずつ見せることができる。
逆に不適格なら、勝が知っているのは「どこかに正体不明の蒸気船が一隻ある」というところまでです。
草らしい情報管理になっています。
3.かつて敵が使った浜が、今度は未来への入口になる
今回の房総の浜は、『裏天正記』を長く読んでいる読者には意味のある場所です。
かつてアヘン戦争編で、敵側が人目を避けてアヘンを陸揚げするために使っていた浜。
それを今度は草側が利用しています。
以前は、
外国から持ち込まれた災厄が日本へ入る場所。
今回は、
外国から得た技術を日本人が学ぶために海へ出る場所。
同じ浜なのに意味が反転しています。
草が過去の事件から得た情報を捨てず、その後も利用していることも表現できます。
4.「煙突……」だけで十分だった
勝が蒸気船を初めて目にした場面では、大げさな説明をさせていません。
「煙突……」
「本物か」
「……でけえな」
これくらいでよいと思います。
勝は蒸気船というものを知らないわけではありません。
蘭書で何度も見ています。
理屈も勉強しています。
だから「これは何だ!」とはならない。
逆に、知っているからこそ言葉がなくなる。
頭の中にしかなかったものが、突然巨大な実物として目の前に現れた。
この衝撃です。
ここから第69話では、さらに音、熱、振動、匂いなど、「書物には存在しない情報」が勝へ入ってきます。
5.海音は勝の先生ではない
海音の、
「勉強してきたなら、知りたいことはたくさんあるんだろ」
という言葉も重要です。
海音は、
「まず蒸気機関から説明しよう」
とは言いません。
勝が何を知りたいのかを、勝自身に決めさせています。
これはご隠居からすれば試験ですが、海音自身はもっと単純です。
知りたいなら聞け。分かることなら答える。
船乗りらしい対応です。
この距離感なら、海音と勝の関係も自然に育てられます。
6.勝が最初に見たのは「機械」ではなく「人」
今回最大のポイントです。
目の前には、夢にまで見た本物の蒸気機関があります。
それでも勝は、最初に機関室へ走りませんでした。
船員を見ています。
「あの男は、何をしてる」
「あっちの男は?」
「この船で、誰が誰に命令する」
なぜ巨大な船が一つの生き物のように動くのか。
その答えを機械だけではなく、人間の動きにも求めています。
第65話で勝は、
「そいつらが勝手に動いたら、船なんざただのでかい箱だ」
という考えを語っていました。
今回はそれを実物を前にして実行したことになります。
海音が、
「機関じゃなくていいのか」
と聞く。
勝は、
「機関も見る」
「けど、そいつは逃げねえだろ」
「人は動く」
と答える。
この一言で、勝の観察力を表現できています。
7.「人は動く」は今後にもつながる
この言葉は船の上だけの話ではありません。
幕末という時代そのものにも重ねられます。
技術はそこにある。
船もある。
大砲もある。
しかし人間は考えを変える。
立場を変える。
敵にも味方にもなる。
そして新しい人物と出会えば、昨日までとは違う方向へ進むこともある。
勝自身もこれから多くの人間と出会います。
その意味では、
「人は動く」
という何気ない言葉が、この先の幕末編全体にもかかってきます。
8.最後は「面白え」
蒸気船が実際に動き始める。
帆を張っていないのに、水が流れていく。
そして海音から、
「外洋だ」
と告げられる。
ここで勝は恐怖より、
「面白え」
と言います。
まだ英雄ではありません。
海軍の専門家でもありません。
ただ、知らないものを目の前にすると、逃げるより先に興味が勝ってしまう男。
ご隠居が最初の候補として勝を残した理由が、少しずつ読者にも見えてきます。
第69話では、この「面白え」がどこまで続くのかがポイントになります。
外洋へ出れば、揺れも大きくなる。
機関室は暑い。
音もうるさい。
油や石炭の匂いもある。
そして書物で覚えた知識が、そのままでは役に立たないことにも気づくでしょう。
