勝海舟は最初から海軍の専門家だったのか――黒船来航前の人材探し | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
信じるか信じないかは、あなた次第です!

 水戸藩邸の一室に、五冊の帳面が並んでいた。

 澪が川口屋から持ち帰ったものである。

 ご隠居は布団の上に座り、その一冊を開いていた。

「どうです?」

 脈を取りながら澪が尋ねる。

「急かすでない。人一人を見るのに、そう時間はかからぬ」

「もう半刻ほど読んでおられます」

「だから急かすなと言うておる」

 ご隠居は不満そうに言った。

 澪は小さく笑う。

 身体の具合は悪くない。

 年齢を考えれば無理はさせたくないが、こうして何か企んでいる時のご隠居は、妙に元気になる。

「まず、この男じゃな」

 ご隠居が一冊を持ち上げた。

「勝麟太郎」

「やはり」

「やはり、とは何じゃ」

「宗助さんも一番気にしていました」

「ほう」

 ご隠居は帳面をめくった。

「四日も尾行して、後ろを取られたそうです」

「あやつがか?」

 ご隠居の眉が上がった。

 次の瞬間、

「はっはっはっは!」

 大声で笑い始めた。

「ご隠居」

「これはよい!」

「笑いすぎです」

「宗助の奴、さぞ悔しかったじゃろう」

「本人も恥ずかしがっていました」

「今度会ったら褒めてやらねばならんな」

「それは褒めることなのでしょうか」

「無論じゃ。自分より目の利く男を見つけたのだからな」

 ご隠居は楽しそうに帳面へ目を戻した。

 やがて、ある箇所で指が止まった。

「……まず自分の目を疑う、か」

「はい」

「何度も見て、触って、動かす。それでも書物と違えば書物を疑う」

 ご隠居の笑みが消えた。

「よいな」

「決まりですか?」

「何がじゃ」

「海での戦を任せる人です」

「馬鹿を申せ」

 ご隠居は帳面を閉じた。

「会ってもおらぬ男に、そんなものを任せられるか」

「では?」

「船に乗せる」

 澪が目を瞬いた。

「影島へ?」

「まだ早い」

 ご隠居は首を振った。

「島を見せれば、こちらの腹の中まで見せることになる」

「では、どうやって蒸気船を?」

「船だけ出せばよい」

 ご隠居の指が畳を軽く叩く。

「場所を選び、人目につかぬところで乗せる。どこから来た船かは教えぬ。誰の船かも教えぬ」

「それでは勝殿が納得しないのでは」

「納得せんでよい」

 ご隠居は平然と言った。

「むしろ、納得できぬ時にどうするかを見たい」

 澪は苦笑した。

「また試すのですか」

「人を選ぶとは、そういうものじゃ」

 ご隠居は二冊目を取った。

「小栗忠順」

 しばらく読む。

「これは船に乗せぬ」

「ずいぶん早いですね」

「海へ出すには惜しい」

「惜しい?」

「この男は船を見せたら、船より先に金勘定を始めるぞ」

 澪が笑った。

「宗助さんも似たことを」

「じゃろうな」

 ご隠居は頁を指で叩く。

「船を造る。ならば材木がいる。鉄がいる。職人がいる。金がいる。それをどう集めるか。この男はそちらへ目が行く」

「必要な人では?」

「必要じゃ」

「なら」

「今ではない」

 ご隠居は帳面を閉じた。

「覚えておけ。この男は捨てるな」

 三冊目。

 佐久間象山。

「これは面倒そうじゃのう」

 読み始めて間もなく、ご隠居が言った。

「知識は五人の中でも抜けているそうです」

「それが面倒なのじゃ」

「知りすぎているから?」

「違う。自分が知っていることを知りすぎておる」

 澪は少し考えた。

「自信が強い」

「自信は悪くない」

 ご隠居は言う。

「海の上では、船頭が自信をなくしたら皆が死ぬ。だがな――」

 帳面を置く。

「自信と、自分だけが正しいと思うことは別物じゃ」

「では候補から外しますか」

「誰がそんなことを言った」

 ご隠居が澪を見る。

「使い方を考える」

「使い方?」

「人には、それぞれ置く場所がある」

 次に江川英龍。

 こちらは長かった。

 ご隠居は何度か頁を戻しながら読む。

「この男は、もう働いておる」

「宗助さんも、出来上がりすぎていると」

「うむ」

 ご隠居は静かに帳面を閉じた。

「わしらが引っ張り出す必要がない」

「候補から外す?」

「そうではない」

 ご隠居は少し考えた。

「困った時に知恵を借りる相手として覚えておけ」

 そして最後の一冊。

「松吉」

 ご隠居が笑った。

「これは誰じゃ」

「浦賀の船大工です」

「蘭書も読めぬ。砲術も知らぬ」

「はい」

「それで五人に入れたか」

「宗助さんが」

「なるほど」

 ご隠居は読み進めた。

 異国船を見れば形を覚える。

 帰って木片で模型を作る。

 分からない部分は想像で埋めない。

 分からないまま残しておく。

「……こやつはよい」

 澪は意外そうに顔を上げた。

「勝殿より?」

「比べるものではない」

「ですが、海での戦を」

「澪」

 ご隠居が遮った。

「戦をするのは侍だけか?」

 澪は黙った。

「船が壊れたら誰が直す」

「船大工です」

「大砲の台が割れたら?」

「職人が」

「帆が破れれば?」

「……職人ですね」

「侍だけ集めて海へ出ても、沈んだら終わりじゃ」

 ご隠居は松吉の帳面を勝の横へ置いた。

「この二人は残せ」

「勝殿と松吉」

「うむ」

「小栗殿は?」

「残す。ただし別口じゃ」

 三冊目として少し離れたところへ置く。

「では象山殿と江川殿は」

「候補から外すというより、役目が違う」

 五人から三人。

 しかし、それは順位ではなかった。

 ご隠居の頭の中では、すでに人が配置され始めている。

 海へ出る者。

 船を支える者。

 仕組みを作る者。

 知恵を借りる者。

 澪には、その形が少しずつ見えてきた。

「ご隠居」

「何じゃ」

「海軍をお作りになるおつもりですか」

 ご隠居は眉を寄せた。

「また、その妙な呼び方か」

「では、何と」

「まだ名などいらぬ」

 窓の外へ目を向ける。

「船一隻まともに扱えぬ国が、先に組織の名を決めてどうする」

「それもそうですね」

「まず海へ出られる者を作る。次に船を動かす者を増やす。その後じゃ」

「随分先までお考えで」

「先など見えぬ」

 ご隠居は静かに言った。

「見えぬから、備えるのじゃ」

 澪は黙った。

 やがて、ご隠居が勝の帳面を持ち上げた。

「こやつから始めよう」

「宗助さんへ?」

「うむ」

「何と伝えます」

 ご隠居は少し考えた。

「団子を食わせておけ」

「はい?」

「船の支度ができるまで逃がすな」

 澪は思わず笑った。

「それだけですか」

「もう一つ」

 ご隠居の顔から笑みが消える。

「勝には船だけを見せよ」

「船だけ」

「影島も、草も、わしも見せるな」

「承知しました」

「そして船に乗ったら――」

 ご隠居は勝の帳面を閉じた。

「何も教えるな」

「何も?」

「好きに見せろ。好きに触らせろ。好きに聞かせろ」

 澪はしばらく考え、意味を悟った。

「何を見るかを、見るのですね」

 ご隠居の口元に笑みが戻った。

「そういうことじゃ」

 船を見て大砲へ走るのか。

 蒸気機関へ走るのか。

 舵を見るのか。

 船員へ話しかけるのか。

 それとも、ただ驚いて立ち尽くすのか。

 質問するのか。

 知ったふりをするのか。

 そのすべてが試しになる。

 澪は五冊の帳面をまとめた。

 帰り際、ご隠居が呼び止める。

「澪」

「はい」

「マヌエルからの文は?」

「まだです」

「届いたら、すぐ持ってこい」

「海での戦についての資料ですね」

「うむ」

 ご隠居は窓の外を見た。

「船を動かせるだけでは足りぬ。その船を何隻も動かすとなれば、わしらの知らぬ決まりが山ほどあるはずじゃ」

 澪は頭を下げた。

 部屋を出る。

 腕の中には五冊の帳面。

 その一番上には、勝麟太郎の名があった。

 まだ何者でもない一人の貧乏旗本。

 ご隠居は、その男に何かを託したわけではない。

 ただ――。

 海へ出る扉を、ほんの少しだけ開けた。

 


▶「裏天正記」幕末編第二部第15話(67)「ご隠居の選び方」をカクヨムで読む

■ 第15話(67)「ご隠居の選び方」考察

第67話は、五人の候補者を集める「人探し」から、誰をどこに置くのかを考える段階へ移った回です。

今回、ご隠居は五人を一位から五位まで順位づけしていません。

むしろ、

人にはそれぞれ役割がある。

という考え方を見せています。

1.勝麟太郎は「合格」ではなく、次の試験へ

ご隠居が最初に注目したのは勝麟太郎です。

特に評価したのが、

「まず自分の目を疑う」
「何度も見て、触って、動かす。それでも書物と違えば書物を疑う」

という姿勢です。

しかし、ご隠居は、

「会ってもおらぬ男に、そんなものを任せられるか」

と即座に否定します。

ここが重要です。

読者は後世の勝海舟を知っています。しかし、物語の1852年にいる人々には未来など分かりません。

だから草もご隠居も、「この男なら成功する」とは判断できない。

まず蒸気船へ乗せる。

そこで何を見るかを観察する。

勝にとっては蒸気船を学ぶ機会ですが、ご隠居にとっては勝という人間を知るための試験でもあります。

2.影島を見せない理由

ご隠居は、

「島を見せれば、こちらの腹の中まで見せることになる」

として、勝を直接影島へ連れていくことを拒みます。

これは草という組織の慎重さにもつながっています。

勝が有望だからといって、

  • 草の存在
  • ご隠居の関与
  • 影島
  • 蒸気船研究の全容

まで一度に明かす必要はありません。

勝が知るのは、

「正体不明の者たちが、本物の蒸気船を動かしている」

ところまで。

この段階的な情報開示によって、秘密組織が簡単に重要人物を信用してしまう不自然さも避けられます。

3.小栗忠順は「海へ出さない」

今回、勝と対照的なのが小栗忠順です。

ご隠居は、

「これは船に乗せぬ」
「海へ出すには惜しい」

と評価しています。

一見すると低評価のようですが、むしろ逆です。

小栗は船そのものより、

誰が造る。
材料はどうする。
金はどうする。
人をどう集める。

という仕組みの方へ目が向く人物として描いています。

勝が「海へ出る側」なら、小栗は「海へ出る者を陸から支える側」になる可能性がある。

この二人を同じ物差しで比較しないところが、ご隠居の人材観です。

4.佐久間象山は「優秀だからこそ扱いが難しい」

佐久間象山について、ご隠居は知識の多さを否定していません。

問題にしたのは、

「自分が知っていることを知りすぎておる」

という部分です。

そして、

「自信と、自分だけが正しいと思うことは別物じゃ」

と続けます。

これは象山を単純に傲慢な人物として否定するというより、能力と役割は別だという話です。

知識を教える人物として優れていることと、未知の状況で異なる能力を持った人々を束ねることは同じではありません。

だから、

「使い方を考える」

となります。

5.江川英龍は「すでに働いている人」

江川英龍についても同じです。

能力不足だから外れるのではありません。

むしろ、

「わしらが引っ張り出す必要がない」

ほど、すでに自分の場所で役割を果たしている。

ここは草の目的を明確にしています。

草は優秀な人物を片っ端から自分たちの側へ引き込む組織ではない。

必要な場所に、必要な人物がすでにいるなら動かさない。

そして必要になった時に知恵を借りる。

この方が、草が歴史を何でも操作できる万能組織になるのを防げます。

6.無名の船大工を高く評価するご隠居

今回、ご隠居が意外なほど高く評価したのが架空の船大工・松吉です。

「戦をするのは侍だけか?」

この問いが第67話のもう一つの核です。

船が壊れれば船大工が必要。

砲台が壊れれば職人が必要。

帆が破れれば直す者が必要。

つまり海で戦う組織を作るなら、武士だけでは成立しません。

身分社会の江戸時代に、ご隠居が、

「能力を見るのであって身分を見るのではない」

という方向へ進み始めたことも分かります。

7.「何も教えるな」が最終試験になる

終盤の、

「好きに見せろ。好きに触らせろ。好きに聞かせろ」

は、次回以降につながる重要な指示です。

普通なら蒸気船を見せる際、

「これは蒸気機関です」
「これはこう動きます」
「ここが重要です」

と説明したくなります。

しかし、ご隠居はそれを禁じる。

なぜなら、説明してしまえば勝が何に興味を持つ人間なのか分からなくなるからです。

大砲へ行くのか。

機関を見るのか。

船体を見るのか。

船員へ質問するのか。

指揮系統を見るのか。

あるいは、ただ圧倒されるのか。

ご隠居は「正しい答え」を求めているのではありません。

勝が最初に何を見る人間なのかを知りたい。

これはかなり面白い人物試験になります。

次に勝を蒸気船へ乗せる回では、説明をほとんど入れず、勝を船内へ放り込んでしまった方がよいでしょう。

8.「海軍」という名前より先に必要なもの

澪が、

「海軍をお作りになるおつもりですか」

と聞いた時、ご隠居は、

「まだ名などいらぬ」

と答えています。

ここも第62話から続くテーマです。

後世の私たちは「海軍」という完成された組織を知っています。

しかし、この物語の人物たちはまだそこへ到達していません。

まず一隻の船を動かす。

人を育てる。

船を増やす。

複数の船をどう動かすのか学ぶ。

その先で初めて組織が生まれる。

つまり本作では、最初から「日本海軍を作ろう」と未来の完成形を知っているのではなく、

必要なものを一つずつ積み重ねた結果、後に海軍と呼ばれるものへ近づいていく

という流れになっています。