勝海舟だけではない――黒船来航前に『海』を考えた男たち | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
信じるか信じないかは、あなた次第です!

 数日後。

 川口屋の奥座敷に、宗助は五冊の薄い帳面を並べていた。

 一冊につき、一人。

 江戸、伊豆、信濃、浦賀。

 生まれも身分も違う。

 共通しているのは、異国の技術や海防に何らかの形で関わっていることだけだった。

「五人、揃ったか」

 声に宗助が振り向く。

 澪だった。

「一応は」

「一応?」

「名前を五つ並べるだけなら簡単です」

 宗助は一冊を手に取った。

「ですが、ご隠居がお求めなのは名前ではなく、人でしょう」

「それで勝殿を?」

「直接見ました」

「どうでした」

「変わった男です」

 宗助は即答した。

「それは帳面にも書いてありましたね」

「思っていた以上に」

 澪が笑う。

「ただ――」

 宗助は帳面を差し出した。

「実物を見せる価値はあると思います」

 澪が開く。

 最後に新しい文字が加えられている。

 ――実物を見せる価値あり。

「ずいぶん高く買いましたね」

「四日尾行して、全部気づかれていました」

「え?」

「最後は後ろを取られました」

 澪が顔を上げる。

「宗助さんが?」

「恥ずかしながら」

「それは……」

「笑っていただいて結構ですよ」

「いえ」

 澪は口元を押さえた。

「もう笑っています」

「申し訳ありません」

 宗助はため息をついた。

「それだけではありません。蘭書で学んだことと実物が違えばどうする、と聞きました」

「何と?」

「まず自分の目を疑う。何度も見て、触って、動かして、それでも違えば書物を疑う、と」

 澪の表情が変わった。

「ご隠居が好みそうですね」

「でしょうな」

「他の四人は?」

 宗助は二冊目を取った。

「小栗忠順」

「旗本ですね」

「まだ若い。ですが、評判が妙です」

「妙?」

「物を見ると、それ一つで終わらない」

 宗助は帳面を開いた。

「砲を見れば、誰が造るのかを考える。造るとなれば、鉄はどこから持ってくる。金はいくらかかる。誰に働かせる。そんなところまで話が広がるそうです」

「船より、仕組みを見る人」

「私にはそう見えます」

「会いましたか」

「まだです」

 宗助は首を振った。

「勝殿とは違う意味で気になります」

 三冊目。

「佐久間象山」

 澪もその名は知っていた。

「この方は有名ですね」

「蘭学、兵学、砲術。知識だけなら、五人の中でも抜けています」

「なら有力では?」

「そこが難しい」

 宗助が苦笑する。

「何がです」

「この方、自分が知らないことがあるとは、あまり考えないようで」

 澪が小さく笑った。

「ご隠居の第一条件とぶつかりますね」

「ええ。ただ、候補から外すには惜しすぎる」

「教える側なら?」

「私もそう思います」

 宗助は四冊目を開いた。

「江川太郎左衛門英龍」

「韮山の」

「はい。海防、砲術、西洋技術。実績ならこの方でしょう」

 澪は頁をめくる。

 他の者より記録が多い。

「なら、この方も」

「出来上がりすぎています」

「出来上がりすぎ?」

「ご隠居が探しているのは、今ある海防を任せる人ではありません」

 宗助は言った。

「まだ誰も知らない海での戦を、これから学ぶ人です」

 澪は納得したようにうなずいた。

「江川殿は、むしろ教える側」

「あるいは、支える側でしょう」

 そして五冊目。

 澪は初めて見る名だった。

「松吉……?」

「浦賀の船大工です」

「武士ではないのですね」

「はい」

「ご隠居は喜びそうです」

「私も、そう思って入れました」

 宗助が笑った。

 松吉は四十に近い。

 父も祖父も船大工だった。

 異国船が浦賀沖へ現れるたび、仕事を放り出して見に行く。

 船体の形。

 帆柱。

 舵。

 喫水。

 遠目に見えるものを覚え、帰宅してから木片で形を作る。

「蘭書は?」

「読めません」

「砲術は?」

「知りません」

「それでも候補に?」

「船を見れば、どう造ったかを考えるそうです」

 宗助は帳面を指した。

「分からないところがあると、分からないまま模型にして残す」

「勝手に補わない」

「はい。いつか分かる日が来たら直すためだ、と」

 澪はしばらく帳面を見た。

「面白いですね」

「ただし本人には、世に出る気がありません」

「そうなのですか」

「以前、役人から船について聞かれた時も、面倒だから嫌だと断ったそうです」

「では、こちらへ来てくれるでしょうか」

「おそらく来ません」

「それでも五人に?」

 宗助は笑った。

「才能がある者が、皆、天下国家のために働きたいと思っているわけではありませんから」

 澪は五冊を見渡した。

 勝麟太郎。

 小栗忠順。

 佐久間象山。

 江川英龍。

 そして、浦賀の船大工・松吉。

 並べてみれば、奇妙な五人だった。

「ご隠居は誰を選ぶでしょう」

「分かりません」

 宗助は即答した。

「勝殿では?」

「今のところは一歩先です。ですが、蒸気船を見せたら逃げ出すかもしれない」

「あの方が?」

「海へ出れば、陸での評判など何の役にも立ちません」

 宗助は帳面を閉じた。

「船酔いで三日寝込むかもしれませんよ」

 澪が笑った。

「それは見てみたいですね」

「本人には言わないでください」

 二人が話していると、障子の向こうから声がした。

「宗助さん」

「何だ」

「土佐から文が届いております」

 宗助と澪が同時に顔を上げた。

「土佐?」

「へい。急ぎではないそうですが」

 宗助が受け取った文を開く。

 しばらく読み、眉を上げた。

「どうしました?」

「いや……」

 宗助はもう一度読む。

「人探しを始めたと聞いて、向こうでも勝手に探し始めたようです」

「候補が?」

「候補というほどではありません」

 宗助は紙を澪へ渡した。

 そこには数人の名と、短い評が書かれていた。

 その末尾。

 まだ十四になったばかりの少年について、わずか数行。

 頭の回転が速い。

 気が強い。

 人の懐へ入るのがうまい。

 ただし、若すぎる。

 宗助は鼻で笑った。

「十四では、さすがに早い」

「十年後なら二十四ですよ」

 澪が言った。

 宗助の手が止まる。

「……医者は時々、嫌なことを言いますな」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「名前だけ残しておきましょう」

 宗助は五冊とは別の帳面を取り出した。

「候補には入れません。ただ――」

 筆を取る。

「十年後、もう一度見る」

 そう記して帳面を閉じた。

 澪が立ち上がる。

「では、この五人をご隠居へ」

「お願いします」

「それから勝殿は?」

「もう少し待たせます」

「焦らしたら怒りませんか」

「団子でも食わせておけば大丈夫でしょう」

 澪がまた笑った。

 宗助は五冊を一つにまとめる。

 歴史を動かす人物を探しているつもりはなかった。

 そんなものは、探して見つかるものではない。

 ただ、海の向こうから何かが来た時。

 知らないものを前にして、逃げず、威張らず、学ぼうとする者を探している。

 その中から誰が残るのか。

 誰が途中で降りるのか。

 誰が別の道へ進むのか。

 今は誰にも分からない。

 宗助は五冊の帳面を澪へ渡した。

「ご隠居にお伝えください」

「何と?」

「五人、見つけました」

 少し考え、付け加える。

「ただし、当たりが入っているかどうかは保証できません」

 澪は帳面を受け取った。

「それを聞いたら、ご隠居は喜びますよ」

「なぜです」

「最初から答えが分かっていることほど、つまらないものはない、とおっしゃる方ですから」

 宗助は苦笑した。

「なるほど」

 店の外から、船荷を運ぶ男たちの声が聞こえてくる。

 まだ誰も知らない。

 この五冊の中から、一人の男が海へ出ることを。

 そして帳面の外にいる若者たちまで、やがてその男の周りへ集まり始めることを。

 


▶「裏天正記」幕末編第二部第14話(66)「五人の名」をカクヨムで読む

■ 第14話(66)「五人の名」考察

第66話は、これまで一人の人物に焦点を当ててきた流れから視野を広げ、ご隠居が求めた「五人」が初めて形になる回です。

ただし重要なのは、五人が「幕末の偉人候補」として選ばれたわけではないことです。

草が探しているのは、後世に名を残す人物ではありません。

まだ誰も答えを知らない「海での戦」に向き合える人間です。

1.五人は同じ能力で選ばれていない

今回の五人は、それぞれ性質が違います。

勝麟太郎は、知らないことを認め、実物を見て確かめようとする。

小栗忠順は、一つの物から、その背後にある金、人、材料、仕組みまで考える。

佐久間象山は、西洋兵学や砲術についてすでに高い知識を持つ。

江川英龍は、海防や西洋技術について実績を持つ。

そして架空人物である船大工・松吉は、学問ではなく、自分の目と手から船を理解しようとする。

つまり、

航海・制度・学問・実務・技術

という異なる方向から人材を拾っています。

これは今後「海で戦う仕組み」を作るには、一人の天才だけでは足りないという第62話からのテーマにもつながっています。

2.小栗忠順は勝とは違う可能性を持つ

今回、小栗について、

「砲を見れば、誰が造るのかを考える」

としています。

ここが勝との違いです。

勝は実物を見て、乗って、海そのものを知ろうとする人物として描かれています。

一方、小栗は、

鉄はどこから来るのか。
金はいくら必要なのか。
誰が造るのか。

という、物の後ろにある仕組みを見る人物として登場します。

後世の実績を考えれば意味深な描写ですが、この時点では宗助も将来を知っているわけではありません。

単に、

「勝とは違う意味で気になる」

という段階に留めたことで、未来を予言しすぎない形になっています。

3.「優秀だから選ばれる」とは限らない

佐久間象山と江川英龍の扱いも重要です。

二人はむしろ、現時点の知識や実績だけなら勝より上と評価されても不自然ではありません。

それでも宗助は、

「ご隠居が探している人間とは少し違う」

と考えています。

これは能力の優劣ではなく、役割の違いです。

すでに多くを知っている人物。

これから未知のものを吸収して伸びていく人物。

人に教える人物。

実際に海へ出る人物。

仕組みを作る人物。

同じ「優秀な人材」でも適材適所がある。

ご隠居が作ろうとしているものが単なる一隻の軍船ではなく、組織へ広がり始めていることが分かります。

4.無名の船大工・松吉を入れた意味

今回、五人全員を歴史上の著名人にしなかったことには大きな意味があります。

松吉は蘭書を読めません。

砲術も知りません。

しかし異国船を見ると、

「どう造ったのか」

を考える。

さらに分からないところを勝手に想像して完成させず、

「分からないまま模型に残す」

という姿勢を持っています。

これは勝の、

「知らないことを知らないと言う」

という性質とも別の形でつながっています。

そして何より、

「世に出る気がない」

という設定が重要です。

才能を持つ人間が全員、歴史の表舞台へ出たいわけではありません。

優秀でも、ただ船を造って一生を終える人間はいる。

そうした無名の人物を草も候補にしていることで、「後世の歴史を知っているから有名人を集めた」という印象を薄くできます。

5.「五人見つけた=五人とも当たり」ではない

宗助の最後の、

「五人、見つけました」
「ただし、当たりが入っているかどうかは保証できません」

は、第66話の重要な言葉です。

草には未来は分かりません。

勝が後にどうなるのかも知らない。

小栗が何を成し遂げるのかも知らない。

五人のうち誰が残り、誰が別の道へ行くのかも分からない。

だから人材探索に失敗もあり得ます。

この不確実性を残しておくことで、草が「歴史を裏からすべて操っていた組織」になることを防げます。

草は歴史を作っているというより、

変化が起きたときに備えて、可能性のある人間を探している

組織です。

6.十四歳の少年は「候補ではない」

終盤に土佐から届いた報告も、五人とは明確に分けられています。

宗助自身、

「十四では、さすがに早い」

と候補から外しています。

しかし澪の、

「十年後なら二十四ですよ」

という言葉で、「今は使えない人物」と「将来も使えない人物」は違うことに宗助が気づきます。

そこで、

十年後、もう一度見る。

とだけ残す。

名前を前面に出さないことで、現段階では単なる草の情報収集の一つにできます。

この人物については、しばらく忘れたくらいでよいでしょう。

数年後あるいは十年近く経って再登場したとき、

「どこかで見た名だな」

と古い帳面を探す展開にすると、伏線として効いてきます。

7.「帳面の外にいる若者たち」

最後の、

「そして帳面の外にいる若者たちまで、やがてその男の周りへ集まり始めることを。」

という締めも、今後の幕末編を示しています。

ご隠居は五人を選ばせました。

しかし歴史は、この五人だけでは動きません。

五人の誰かが人と出会い、その人物がまた別の人間を連れてくる。

つまり草がすべての人物を発掘する必要はありません。

一人の優れた人物を見つければ、その人物自身が次の人材を見つける。

ここから草の役割も少しずつ変化させられます。

「人を集める組織」から、

「人を集められる人物を見つける組織」へ。

その意味でも、第66話は今後の海軍構想へ向かう重要な転換点になっています。