勝海舟は黒船来航前に何をしていたのか――若き幕臣と蘭学 | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
信じるか信じないかは、あなた次第です!

 翌日の昼過ぎ。

 宗助が神田の団子屋へ行くと、男はもういた。

 昨日と同じ場所に腰を下ろし、団子を食べている。

「遅かったじゃねえか」

 宗助は足を止めた。

「待っていたのですか」

「まさか」

 男は串から団子を一つ抜き取る。

「おいらは団子を食いに来ただけだ」

「そうですか」

「ただ、あんたも来るような気はしてた」

 宗助は苦笑して向かいへ座った。

「親父。こちらにも茶を」

「あいよ」

 店の主人が湯呑みを置く。

 男が宗助を見る。

「団子はいらねえのか」

「昼を食べたばかりでして」

「人生の半分は損してるねえ」

「そんなにですか」

「少なくとも三分は損してる」

 宗助は吹き出した。

 昨日、路地で後ろを取られた時とはまるで違う。

 だが、油断はできない。

 この男は笑いながら人を見ている。

「それで」

 男が茶を飲む。

「今日は何を調べに来た」

「今日は調べに来たのではありません」

「じゃあ、何だい」

「話をしに」

「おいらと?」

「はい」

 男は少し考え、それから団子を一本、宗助の前へ置いた。

「なら食いな」

「なぜです」

「人にものを聞く時は、同じものを食ったほうが話しやすい」

「どこで覚えたのです」

「今考えた」

 宗助は笑いながら団子を受け取った。

「悪くありませんね」

「だろ?」

 一本食べ終えるまで、宗助は本題へ入らなかった。

 男のほうも急かさない。

「まず、お名前を伺ってもよろしいですか」

「昨日四日もつけ回したくせに、名前も知らなかったのか」

「知っています」

「なら聞くなよ」

「帳面の文字と、本人の口から聞く名は違います」

 男の目が一瞬だけ鋭くなった。

「帳面?」

 宗助は答えない。

 男も追及しなかった。

「勝麟太郎」

 あっさり名乗った。

「貧乏旗本。蘭学かじり。それから団子好き」

「最後の一つは聞いておりませんでした」

「書き足しときな」

「検討しておきます」

 勝が笑う。

「で、宗助さんよ。何が聞きたい」

 宗助は少し間を置いた。

「なぜ蘭学を?」

「便利だから」

 予想以上に短い答えだった。

「便利?」

「向こうのことを知りたけりゃ、向こうの字を読めなきゃ始まらねえだろ」

「異国がお好きなのですか」

「知らねえ」

「知らない?」

「行ったことがねえんだから、好きも嫌いもねえよ」

 宗助の目がわずかに細くなる。

 ご隠居の言葉が浮かんだ。

 知らぬことを、知らぬと言える者。

「では、異国を恐ろしいとは思いませんか」

「そりゃ恐ろしいさ」

 勝は平然と答えた。

「知らねえ相手なんだから」

「なら、追い払うべきだとは?」

「相手を知らねえのに、どうやって追い払うんだい」

 勝は最後の団子を口へ放り込む。

「でかい船があるらしい。大砲もあるらしい。遠くから来るらしい。そんな話だけ聞いて、来たら追い返すぞって息巻いても仕方ねえ」

「では、どうする」

「見る」

 即答だった。

「見て、知って、それから考える」

「敵だったら?」

「敵なら、なおさら知らなきゃ駄目だろ」

 話し方は軽い。

 だが答えは軽くない。

「船に興味がおありだとか」

「あるねえ」

「なぜ」

「海は道だからだ」

 宗助は眉を上げた。

「道?」

「街道なら関所がある。山なら峠がある。けど海は、ずっと向こうまで続いてる」

 勝は店先の空を見上げた。

「日本が閉じてるつもりでも、海まで閉じるわけにはいかねえ」

「だから船を?」

「船だけじゃねえよ」

 宗助は黙った。

 勝が続ける。

「でかい船一つ持ってきたところで、それで何になる」

 宗助の指が止まった。

「ほう」

「何だい」

「いえ。続けてください」

「船を動かす奴がいる。直す奴がいる。海を読む奴がいる。大砲を撃つ奴もいる」

 勝は指を折る。

「そいつらが勝手に動いたら、船なんざただのでかい箱だ」

 宗助は思わず勝の顔を見た。

 水戸藩邸で、ご隠居が語ったこととよく似ている。

 もちろん勝は、そんなことを知るはずもない。

「実際に見たことは?」

「何を」

「蒸気で走る船を」

 勝は少し黙った。

「ねえよ」

 答えは簡単だった。

「本では?」

「読んだ」

「仕組みは」

「少しは分かる」

「動かせますか」

「無理だね」

 これも即答だった。

「ずいぶん簡単に認めますね」

「見たことも触ったこともねえ物を、動かせるなんて言う奴のほうが信用できねえだろ」

 宗助は笑った。

「確かに」

「本ってのは便利だけどな」

 勝は指で自分の頭を軽く叩いた。

「ここで止まっちまうことがある」

「頭で?」

「ああ」

「書いてある理屈は分かる。こことここがつながって、こう動く。それも分かる」

 両手で何かを組み合わせる仕草をする。

「でも実物がないと、全部が一つにつながらねえ」

 宗助は、少し前に土佐から届いた報告を思い出した。

 書物だけでは分からない。

 実物を見て初めて、知識がつながる。

「もし」

 宗助が言った。

 勝が顔を向ける。

「もし、その実物を見られるとしたら?」

 勝の手が止まった。

「何の話だ」

「蒸気船です」

 先ほどまで笑っていた顔から、表情が消えた。

「宗助さん」

「はい」

「冗談なら、あんまり面白くねえぞ」

「私は商人です」

「それが?」

「値打ちのない冗談に時間は使いません」

 勝は宗助をじっと見る。

「どこにある」

「まだ申し上げられません」

「誰が持ってる」

「それも」

「幕府か」

 宗助は茶を飲んだ。

「どこかの藩か」

 答えない。

 勝は宗助の顔を見て、やがて苦笑した。

「何も言わねえってわけか」

「一つだけなら」

「何だ」

「その船は動きます」

 勝の目が変わった。

「……動く?」

「はい」

「本物か」

「本物です」

「模型じゃねえな」

「人が乗れます」

「海へ出たのか」

「出ています」

 勝は黙った。

 店の前を荷車が通り過ぎる。

 団子屋の親父が新しい客へ声をかける。

 いつもの江戸の昼だった。

 だが、二人の間だけ、空気が違っていた。

「見たいですか」

 宗助が尋ねる。

 勝はすぐには答えなかった。

 昨日までなら即答したかもしれない。

 だが今は宗助を見ている。

 蒸気船を知る廻船問屋。

 四日間、自分を調べていた男。

 どう考えても普通ではない。

「ただで見せるって話じゃねえんだろ」

「もちろんです」

「何をさせる」

「まだ決まっておりません」

「またそれか」

 勝が苦笑した。

「ただ、見て、学んで、考えていただくことになるでしょう」

 勝は腕を組んだ。

「それで、おいらを試してるってわけか」

「今も試しております」

「嫌な野郎だな」

「よく言われます」

 勝が笑う。

 宗助も笑った。

 だが、宗助はもう一つ確かめたかった。

「では、最後に」

「まだあるのか」

「もし、その船で実際に見たものが、あなたがこれまで蘭書で学んできたことと違っていたら、どうします」

 勝が眉を上げる。

「違っていたら?」

「書物にはこう書いてある。先生からもそう教わった。けれど、目の前の船は違う」

「なるほど」

 勝は少し考えた。

「まず、自分の目を疑う」

 宗助には意外な答えだった。

「書物ではなく?」

「一度見ただけならな」

 勝は指を一本立てた。

「おいらが見間違えてるかもしれねえ。その船だけ仕組みが違うかもしれねえ。書いた奴と同じ物を見てるとも限らねえ」

「では」

「もう一度見る」

 勝は続けた。

「触れるなら触る。動かせるなら動かす。誰か知ってる奴がいるなら聞く」

「それでも書物と違えば?」

「その時は」

 勝は笑った。

「書物のほうが間違ってるかもしれねえって考えるさ」

 宗助は黙った。

 また一つ。

 ご隠居が探している条件に、この男は重なった。

「分かりました」

 宗助は立ち上がる。

「近いうちに、また来ます」

「迎えに来るんじゃねえのか」

「まだ決まっておりません」

「じれってえな」

「大事な船ですから」

「ますます見たくなった」

 勝も立ち上がりかけて、ふと思い出したように言った。

「宗助さん」

「はい」

「一つ頼みがある」

「何でしょう」

 勝は空になった皿を指さした。

「今日の団子代、払っといてくれ」

 宗助はしばらく黙った。

「……それとこれとは別でしょう」

「船を見に行く前祝いだ」

「まだ連れていくとは言ってません」

「細けえこと言うなよ」

 宗助はため息をつきながら銭を置いた。

 店を出てから、一度だけ振り返る。

 勝麟太郎は、もう笑っていなかった。

 何もない空中へ蒸気船の姿でも描くように、じっと遠くを見ている。

 宗助は歩き出した。

 五人を探せと言われた。

 まだ一人目。

 合格かどうかも決まっていない。

 だが、紙の上で「変わり者」とだけ記されていた男は、思っていた以上に面白い。

 宗助は懐の帳面へ手を当てた。

 次に書き加える言葉は、もう決まっていた。

 ――実物を見せる価値あり。

 


▶「裏天正記」幕末編第二部第13話(65)「団子屋の問答」をカクヨムで読む

■ 第13話(65)「団子屋の問答」考察

第65話は、宗助が「団子を食う変わり者」を観察する段階から一歩進み、本人と直接話すことで、ご隠居が求める人物なのかを確かめる回になっています。

今回重要なのは、勝麟太郎を「後世の勝海舟」として描くのではなく、1852年時点ではまだ、実物の蒸気船すら十分に知らない一人の幕臣として描いている点です。

1.「知らない」と言えることが最初の試験

第62話で、ご隠居が最初に挙げた条件が、

「知らぬことを、知らぬと言える者」

でした。

今回、宗助が、

「異国がお好きなのですか」

と尋ねると、勝は、

「知らねえ」
「行ったことがねえんだから、好きも嫌いもねえよ」

と答えています。

ここは勝の思想を語らせる以上に重要です。

異国を礼賛するわけでも、異国だから排斥するわけでもない。

知らないものについては、まず知らないと認める。

宗助はここで、ご隠居が求めていた資質の一つを確認します。

2.「敵なら、なおさら知らなきゃ駄目」

さらに、

「相手を知らねえのに、どうやって追い払うんだい」

という考え方も、これからの幕末編を象徴する言葉になっています。

この時代、外国船への対応をめぐって日本国内ではさまざまな議論がありました。

しかし『裏天正記』のご隠居や草が重視しているのは、

戦うにしても、交渉するにしても、まず相手を知らなければ始まらない

という考え方です。

勝も偶然、そこへ近いところに立っている。

だから宗助は、この男に興味を持ち始めます。

3.ご隠居と勝が別々に同じ場所へたどり着く

今回、特に重要なのが、

「でかい船一つ持ってきたところで、それで何になる」

という勝の言葉です。

第62話でご隠居も、ほぼ同じ問題にたどり着いていました。

船を動かす者。

直す者。

海を読む者。

砲を撃つ者。

それらをまとめる者。

つまり二人とも、

「蒸気船を一隻持つこと」と「海で戦えること」は違う

と考え始めています。

しかし、この時点で勝はご隠居の存在を知りません。

ご隠居も勝と話したことはない。

まったく別の場所で、別の経験から似た問題へたどり着いた。

だから宗助からすると、

「この男は偶然選ばれた候補ではないかもしれない」

という感覚が生まれてきます。

4.書物だけでは知識が「つながらない」

今回のもう一つの重要なテーマです。

勝は、

「書いてある理屈は分かる」
「でも実物がないと、全部が一つにつながらねえ」

と話します。

これは、これまで『裏天正記』で描いてきた技術習得ともつながっています。

書物を読めば原理は理解できる。

図面も分かる。

しかし、

音、振動、熱、重さ、故障、海上での揺れ――

こうしたものは紙の上だけでは分かりません。

そこで宗助が初めて切り札を出します。

「もし、その実物を見られるとしたら?」

ここで物語が大きく動きます。

5.蒸気船の所有者を明かさない

今回、特に重要なのは情報管理です。

勝が、

「どこにある」
「誰が持ってる」
「幕府か」
「どこかの藩か」

と尋ねても、宗助は答えません。

勝が現段階で知ったのは、

川口屋の番頭が、実際に航海できる蒸気船の存在を知っている

ということだけです。

誰が所有しているのか。

どこに隠されているのか。

何の目的で使われているのか。

宗助の背後に誰がいるのか。

すべて伏せられています。

この状態を維持しておけば、今後、勝が秘密の蒸気船を実際に目にした時の衝撃を大きくできます。

6.最後の試験は「西洋を信じるか」ではない

宗助が最後に尋ねた、

「実際に見たものが、あなたがこれまで蘭書で学んできたことと違っていたら、どうします」

という質問も重要です。

勝はすぐに、

「書物が間違っている」

とは言いません。

まず、

「自分の目を疑う」

と言います。

一度見ただけでは判断しない。

もう一度見る。

触る。

動かす。

知っている者に聞く。

それでも違えば、初めて書物を疑う。

これは単なる西洋崇拝でも、経験至上主義でもありません。

観察して、検証して、それから判断する。

宗助が見たかったのは、まさにこの姿勢でしょう。

7.まだ「選ばれた」わけではない

最後の、

――実物を見せる価値あり。

という評価も重要です。

まだ、

「この男に海を任せよう」

ではありません。

ご隠居から求められた候補は五人です。

宗助はその一人目について、

次の試験へ進ませてもよい

と判断しただけです。

この慎重さがあることで、草の人材探索にも説得力が出ます。

そして次の段階では、「蒸気船を見せる」といっても、いきなり秘密のすべてを明かすのか、それともさらに何段階か試すのか、という問題も出てきます。

8.団子が最後まで人物を「偉人」にしない

今回も最後に、

「今日の団子代、払っといてくれ」

と入っています。

大きな歴史の転換につながりそうな話をしているのに、最後は団子代です。

この落差は残した方がよいでしょう。

現時点の勝麟太郎は、まだ後世から見た「勝海舟」ではありません。

宗助から見れば、

妙に頭が切れて、蒸気船に異常な興味を示し、しかも団子代を人に払わせる貧乏旗本

です。

この人物が実際の海へ出たとき、どう変わっていくのか。

第65話は、その入口になっています。