日本橋の朝は早い。
日が昇りきる前から荷車が行き交い、威勢のよい掛け声が通りを飛び交っていた。
魚を積んだ桶。
反物を抱えた奉公人。
地方から届いた荷を運ぶ人足。
その喧騒の中で、廻船問屋・川口屋もいつも通り一日を始めていた。
「宗助さん、堺からの荷、数が一つ合いません」
「もう一度見てこい。樽の陰に小箱があるはずだ」
「へい」
「長崎からの船は?」
「昼前に着くそうです」
「荷改めが済んだら先に帳面を持ってこい」
番頭の宗助は、店先と帳場を忙しく行き来していた。
四十を少し過ぎた頃。
細身で、商人らしい柔らかな物腰をしている。声を荒らげることは滅多にないが、一度聞いた数字は忘れない。
川口屋で働き始めて二十年以上になる。
表向きは、ただの古参番頭だった。
「宗助さん」
小僧が駆け寄ってきた。
「奥にお客さまです」
「誰だ」
「女のお医者さまです」
宗助の手が一瞬だけ止まった。
「分かった」
持っていた帳面を若い手代へ渡す。
「しばらく頼む」
「へい」
宗助は店の奥へ向かった。
廊下を抜け、そのさらに奥。
普段は主人の客を通す小さな座敷に、澪が座っていた。
「お待たせしました」
「突然すみません」
「いえ」
宗助は障子を閉める。
それだけで顔つきが変わった。
「ご隠居からですか」
「はい」
澪は懐から二通の書付を取り出した。
「急ぎです」
宗助は受け取らない。
まず澪を見る。
「どの程度」
「これまでとは少し違います」
「戦になりますか」
「まだ分かりません」
澪は答えた。
「ですが、ご隠居は近いと考えています」
宗助はようやく書付を受け取った。
一通目を開く。
短い。
読み終えると、もう一通へ移った。
「……なるほど」
「一つはマヌエル殿へ」
「海の向こうの調べ物」
「船そのものではありません」
宗助が顔を上げる。
「海での戦のやり方を知りたいそうです」
「戦のやり方」
「船をどう束ねるのか。誰が命じるのか。人をどう育てるのか。港や補給をどうするのか。英国、仏国、米国。できるだけ多くの国を調べてほしいと」
宗助は書付を見直した。
「これは時間がかかりそうですね」
「構わないそうです。ただし、急げと」
「矛盾しておりますな」
「ご隠居ですから」
宗助が小さく笑った。
「もう一つは」
澪の声が少し低くなる。
「人探しです」
「誰を」
「まだ決まっていません」
宗助の眉が動いた。
「決まっていない人を探す?」
「そういうことになります」
澪自身、昨日から何度考えても妙な命令だと思う。
「ご隠居が欲しいのは、今すぐ海で戦える人ではありません」
「では」
「これから学べる人です」
宗助は黙った。
「異国の知恵を学ぶことを恥じない。海を恐れない。身分より腕を見る。自分より優れた者を使える」
「ずいぶん欲張りですな」
「私もそう言いました」
「他には」
「知らないことを、知らないと言える人」
宗助が初めて声を出して笑った。
「それが一番難しい」
「ご隠居も第一に挙げました」
「なるほど」
宗助は腕を組んだ。
「五人ほど候補を挙げろ、と」
「江戸に限りません。長崎でも浦賀でも、どこの藩でも構わないそうです」
「藩も問わない」
「はい」
「身分も?」
「おそらく」
宗助はしばらく考えていた。
やがて立ち上がる。
「澪さま。少しお待ちください」
座敷を出ていった。
戻ってきた時には、古びた帳面を三冊抱えていた。
「これは?」
「川口屋の商いの記録です」
宗助が一冊を開く。
そこには船の名、荷、出港地、入港日などが細かく書かれている。
「こちらは表」
もう一冊を開く。
今度は人名ばかりだった。
「こちらは裏です」
澪は頁をのぞき込んだ。
大工。
船頭。
通詞。
蘭学者。
砲術家。
医者。
職人。
下級武士。
日本各地の名が記され、その横に短い評が添えられている。
「こんなに」
「二百年です」
宗助は静かに言った。
「草は偉い方々の名前ばかり集めてきたわけではありません」
頁をめくる。
「船を直すのがうまい大工。異国人と物怖じせず話す通詞。新しい砲を見れば分解したがる職人。藩の命に逆らってまで蘭書を読む変わり者」
「変わり者まで記録しているのですか」
「変わり者ほど役に立つことがあります」
澪は苦笑した。
「ご隠居が喜びそうですね」
「問題は」
宗助が帳面を閉じる。
「この中に、ご隠居の求める者がいるかどうかです」
「いなければ?」
「探します」
迷いのない答えだった。
その日の昼、川口屋から何隻もの荷が出た。
大坂へ。
長崎へ。
浦賀へ。
尾張へ。
そして薩摩へ。
どの荷にも不審なものはない。
反物、薬種、紙、酒。
商人が見れば、いつもの商いだった。
ただ、その荷に添えられた注文書の中に、ごく普通の言葉がいくつか混じっていた。
――新しい品を探している。
――産地は問わない。
――古くからあるものより、これから使えるものがよい。
――五つほど見繕われたし。
川口屋と長く取引する者なら、それだけで意味を理解した。
人を探せ。
土地を問わず。
身分を問わず。
まだ知られていない者を。
その日の夕刻。
宗助は一人、帳場に残っていた。
店先では奉公人たちが暖簾をしまっている。
「宗助さん、そろそろ閉めますよ」
「ああ」
返事をしながら、裏の帳面をめくる。
蘭学。
砲術。
航海。
造船。
異国。
いくつもの項目を追った。
完成された者はいらない。
これから学べる者。
「難しいことをおっしゃる」
宗助は独り言を漏らした。
だが、嫌いではなかった。
有名な者を探すだけなら簡単だ。
偉い者を探すのも難しくない。
草が探すべきなのは、まだ世間が価値に気づいていない人間だ。
頁をめくる手が、ふと止まった。
江戸。
貧しい旗本。
蘭学を学ぶ。
西洋の兵書、砲術書を集めている。
変わり者との評あり。
「ほう」
宗助はその一行を指でなぞった。
だが、すぐに帳面を閉じた。
一人を見つけただけでは足りない。
ご隠居が求めたのは五人だ。
それに、紙の上の評判だけで人は分からない。
「まずは、見てみるか」
宗助は立ち上がった。
同じ頃。
川口屋から出た荷は、街道を進み、船へ積まれ、各地へ向かっていた。
誰も知らない。
反物や酒と一緒に、ご隠居の命が日本中へ運ばれていることを。
そして、その命を受けた草たちが、名も知られていない人々へ目を向け始めたことを。
黒い船が日本の沖へ姿を現すまで、残された時間は多くなかった。
▶「裏天正記」幕末編第二部第11話(63)「名もなき者を探せ」をカクヨムで読む
■ 第11話(63)「名もなき者を探せ」考察
第63話は、第62話で水戸の隠居が出した二つの命令のうち、国内での人材探索が実際に動き始める回です。
今回の中心は特定の候補者ではなく、
「草はどうやって全国規模で人を探すのか」
という、これまであまり表に出てこなかった組織の仕組みです。
川口屋が草の拠点である意味
草は幕府直属の役所でも、水戸藩の正式な組織でもありません。
そのため、ご隠居が各地の草へ直接命令を出してしまえば、どこかで水戸との関係が見えてしまいます。
そこで使われるのが廻船問屋・川口屋です。
川口屋なら日常的に、
- 江戸
- 大坂
- 長崎
- 浦賀
- 尾張
- 薩摩
など各地と荷や文をやり取りしていても不自然ではありません。
つまり草の情報は、特別な早馬や密使ではなく、日本中を動いている普通の商いに紛れて流れていく。
これは、二百年以上潜伏してきた草という組織に合った方法です。
「表の帳面」と「裏の帳面」
今回、草の性格を象徴しているのが二冊の帳面です。
表には、
船、荷物、出港地、入港日。
裏には、
大工、船頭、通詞、蘭学者、砲術家、医者、職人、下級武士。
つまり川口屋は商品だけでなく、
人間の情報も集め続けていた
ことになります。
しかも、記録されているのは権力者ばかりではありません。
これは草がもともと「政治を動かす組織」ではなく、「外国から日本を守るために情報を集める組織」として生まれたこととも一致します。
草は「偉い人」を探していない
今回の重要な部分です。
「有名な者を探すだけなら簡単だ」
「偉い者を探すのも難しくない」
ご隠居が欲しいのは、すでに世間から評価されている人物ではありません。
これから大きく伸びる可能性のある人物です。
だから草が注目するのは、
「藩の命に逆らってまで蘭書を読む変わり者」
のような人間です。
幕末という時代では、従来の価値観から外れた「変わり者」が、数年後には新しい時代を担う可能性があります。
草の二百年間の情報蓄積が、ここで初めて未来の人材を見つけるための仕組みとして使われ始めます。
「完成された者はいらない」
第62話から続く重要なテーマです。
日本には、この段階で西洋式の海戦を自在に指揮できる人物など、ほとんど期待できません。
だから探す条件そのものを変える必要があります。
現在何ができるかではなく、
これから何を学べるか。
ご隠居が「知らないことを知らないと言える者」を第一条件にした理由もここにあります。
知識のない人物を探しているのではありません。
自分の知識に限界があることを認め、新しいものを吸収できる人物を探しています。
川口屋から出る暗号
今回の草らしさが最もよく出ているのが、
新しい品を探している。
産地は問わない。
古くからあるものより、これから使えるものがよい。
五つほど見繕われたし。
という注文です。
表面上は完全に商人同士のやり取りです。
しかし意味は、
「出身地や身分を問わず、将来性のある人間を五人探せ」
となります。
仮に途中で文を読まれても、人材探索の命令だとは分かりにくい。
草が長期間生き残ってきた理由を、忍者的な派手な技ではなく、こうした日常へ溶け込む仕組みとして描いているところが今回のポイントです。
最初の一人が浮かび始める
終盤、宗助の指が一つの記録で止まります。
江戸。
貧しい旗本。
蘭学を学ぶ。
西洋の兵書、砲術書を集めている。
変わり者との評あり。
しかし、まだ名前は出していません。
ここで名前を伏せたのは効果的です。
読者には、
「この人物は誰なのか」
という引きが生まれます。
さらに宗助も、
「紙の上の評判だけで人は分からない」
と考えています。
つまり次の段階は、候補者の名前を集めることではなく、
草が実際に人物を観察すること
になります。
ここから人物探索編へ自然に移れます。
万次郎から「次の世代」へ
幕末編第2部の流れも、かなり明確になってきました。
万次郎が異国を見た。
小龍がその言葉を残した。
写本が草によって江戸へ運ばれた。
水戸の隠居がそこから「海での戦」を考えた。
そして川口屋から、日本中へ人材探索の命令が流れ始めた。
万次郎本人が何か大きな政治行動を起こさなくても、彼が持ち帰った情報は別の人間へ渡り続けています。
これは第2部の最初から描いてきた、
「本人の知らないところで言葉が広がっていく」
というテーマのもう一つの形でもあります。
最初、万次郎の言葉は噂となって歪みながら広がりました。
しかし今度は、小龍が記録したことで、より正確な情報として人を動かし始めています。
同じ「言葉の一人歩き」でも、前半とは意味が変わったわけです。
