江戸、水戸藩邸上屋敷。
澪が薬箱を閉じると、目の前の老人は露骨に嫌そうな顔をした。
「また薬か」
「また薬です」
「この前も飲んだぞ」
「薬というものは、一度飲めば一生効くものではありません」
「医者というものは、面倒なことばかり言うのう」
「患者が言うことを聞かないからです」
澪は平然と言い返した。
水戸の隠居は鼻を鳴らしながら、差し出された湯呑みを手に取った。
「少しお疲れです」
「歳じゃ」
「それだけではありません」
「では何じゃ」
「働きすぎです」
「ならば歳ではないな」
「喜ぶところではありません」
隠居は薬を飲み干すと、満足そうに笑った。
こうして診るようになって、もう長い。
初めの頃は一言一言に緊張していた澪も、今ではこの程度のやり取りなら平然と返せるようになっていた。
「それで」
隠居が湯呑みを置く。
「今日は薬だけではあるまい」
「やはり分かりますか」
「そなたは何か持ってきた日は、薬箱を置く音が違う」
「そんなことはありません」
「ある」
澪は苦笑し、懐から包みを取り出した。
「土佐から届きました」
隠居の目が変わった。
「例の男か」
「はい」
包みを開く。
「万次郎殿が異国で見聞きしたことを、小龍殿が書き留め始めています。その一部を写したものです」
「もうここまで来たか」
「草の足は速いですから」
「それだけではあるまい」
隠居は写本を受け取った。
「皆、知りたいのじゃ。海の向こうに何があるのかを」
部屋が静かになった。
隠居は頁をめくる。
澪は何も言わず待った。
時折、隠居の指が止まる。
港。
石造りの町。
蒸気船。
学校。
船員たちの暮らし。
異国の言葉を覚え、航海術を学び、船を操る者たち。
やがて隠居が顔を上げた。
「面白い」
「蒸気船ですか」
「違う」
返事は早かった。
「人じゃ」
澪は黙って続きを待った。
「船そのものなら、我らも見てきた」
それは澪も知っている。
アヘンの戦いが起きた頃、草は異国の蒸気船を手に入れた。
以来、影島では船を隠し、動かし、分解し、また組み上げてきた。
マヌエルから届く情報も加えながら、何度も改良を重ねている。
最初は得体の知れなかった鉄と火の船も、今では少なくとも動かすことはできる。
「我らは長いこと、船を見ておった」
隠居が言った。
「ですが、それが必要だったのでは」
「必要じゃった。だが、足りぬ」
写本を指で叩く。
「これを読むと分かる」
「何がでしょう」
「異国は船だけで海へ出ておるのではない」
澪の目が細くなる。
「船を造る者がおる。直す者がおる。海図を読む者がおる。命令する者がおる。弾を運ぶ者がおる。そして、それらを教える者がおる」
隠居は少し考えてから言った。
「船が十隻あったとしよう」
「はい」
「一隻ずつ好き勝手に動けば、十隻ある意味がない」
「確かに」
「では、誰が十隻を動かす」
澪は答えなかった。
「どこへ並べる。どの船を前へ出す。どこで水を積む。石炭を積む。弾薬を積む。壊れればどこへ戻す」
問いが次々と出てくる。
「負傷者はどうする。船を失った者はどうする。新しい者はどこで海を学ぶ」
隠居はそこで黙った。
庭から鳥の声が聞こえた。
「我らが知っておるのは、船の動かし方までじゃ」
「その先がある、と」
「うむ」
隠居は写本を閉じた。
「海での戦のやり方を知らねばならぬ」
澪はその言葉をゆっくりと飲み込んだ。
「異国の、ですか」
「異国だけではない」
「と申しますと」
「異国のやり方を知って、それをこの国でどう使うかじゃ」
隠居は澪を見る。
「英国には英国の海がある。米国には米国の海がある。この国には、この国の海がある」
「そのまま真似ても使えない」
「そういうことじゃ」
隠居は少し笑った。
「澪」
「はい」
「マヌエルに文を送れ」
「蒸気船について、さらに資料を?」
「いや」
隠居は首を振った。
「船のことは、ひとまずよい」
「では」
「海でどう戦っておるのか。それを集めさせよ」
澪は少し身を乗り出した。
「具体的には、何を」
「分かるものはすべてじゃ」
隠居は指を折る。
「船を束ねる者。命令の伝え方。船乗りの育て方。航海の訓練。砲の扱い。港の使い方。修理。補給」
そして最後に付け加えた。
「人の育て方」
「どの国を調べさせますか」
「一つではいかん」
隠居は即答した。
「英国。仏国。米国。マヌエルが手を伸ばせるところは、できるだけ見よ」
「どこかを手本になさるのでは?」
「手本?」
隠居は笑った。
「敵になるかもしれぬ相手を、そのまま真似てどうする」
「では、比べる」
「そうじゃ」
隠居の目が楽しそうに細くなった。
「良いところだけ頂く」
澪も思わず笑った。
「相変わらずですね」
「家康公より続く草のやり方じゃ」
だが、隠居はすぐに真顔へ戻った。
「もう一つ頼みがある」
「何でしょう」
「人を探せ」
「人?」
「海での戦を任せられる者じゃ」
澪は眉を寄せた。
「船乗りなら、影島にもおります」
「船乗りを探せとは言っておらぬ」
隠居は首を振る。
「では、砲術に通じた者を」
「それだけでも足りぬ」
「蘭学者?」
「それも一つじゃ」
澪は困った。
「では、どのような者を探せばよいのです」
隠居はしばらく考えた。
「知らぬことを、知らぬと言える者」
澪は意外そうな顔をした。
「それが第一ですか」
「第一じゃ」
隠居は続ける。
「海を恐れぬ者。異国の知恵を学ぶことを恥と思わぬ者。身分より腕を見る者」
少し間を置く。
「そして、自分より優れた者を使える者」
「難しいですね」
「だから探すのじゃ」
「何人ほど」
「まずは五人」
「五人」
「江戸だけを見るな。長崎でも浦賀でもよい。諸藩の者でも構わぬ」
澪は思わず聞き返した。
「諸藩からも?」
「海の向こうから見れば、水戸も薩摩も長州も同じ島の中じゃ」
隠居は静かに言った。
「これから必要になるのは、水戸の海を守る者ではない」
澪は、その先を待った。
「この国の海を考えられる者じゃ」
部屋の空気が変わった。
まだ、そのような者がどこにいるのか分からない。
そもそも、そんな考えを持つ者がいるのかさえ分からない。
だが澪は頭を下げた。
「探してみます」
「うむ」
澪は写本を包み直そうとした。
「待て」
隠居が止める。
「これは置いてゆけ」
「まだお読みになりますか」
「もう一度な」
隠居は写本へ手を置いた。
「漂流した漁師一人が、よくもまあ、これほど持ち帰ったものじゃ」
「万次郎殿自身は、ただ故郷へ帰ってきただけだと思っているでしょう」
「そうじゃろうな」
隠居は笑った。
「だから面白い」
そして窓の外へ目を向けた。
「時代を動かす者というのは、自分が動かしておることに気づかぬものかもしれんな」
澪は何も答えなかった。
薬箱を持ち、立ち上がる。
「澪」
「はい」
「急げ」
隠居の声から笑みが消えていた。
「海の向こうは、こちらが学び終わるまで待ってはくれぬ」
澪は静かに頭を下げた。
「承知しました」
その日、水戸藩邸から二つの命が草へ流れた。
一つは、海の向こうから戦のやり方を集めること。
もう一つは、この国の中から、それを学び取れる人間を探すこと。
その候補の中に、まだ何者でもない一人の男の名が浮かぶことを――。
澪は、まだ知らなかった。
▶「裏天正記」幕末編第二部第10話(62)「海での戦」をカクヨムで読む
■ 第10話(62)「海での戦」考察
第62話は、第58〜61話まで続いた土佐編を受けて、物語の視点が再び江戸へ戻る転換回です。
万次郎が持ち帰ったものは、蒸気船の知識だけではありません。小龍によって整理されたことで、異国では船・港・教育・補給・人材育成が一つの仕組みとして動いていることが見えるようになりました。
ご隠居はそこに注目します。
水戸に足りなかったもの
『裏天正記』の設定では、水戸側はアヘン戦争の頃から蒸気船を入手し、影島で研究と改良を続けています。
そのため今回、ご隠居は蒸気船そのものに驚きません。
むしろ、
「我らが知っておるのは、船の動かし方までじゃ」
というところに問題を見つけます。
一隻の蒸気船を動かす技術と、複数の船を組織的に運用して戦う技術は別物です。
船が増えれば、
- 誰が指揮するのか
- 船同士をどう連携させるのか
- 燃料や弾薬をどう補給するのか
- どこで修理するのか
- 航海や砲術を誰が教えるのか
- 次の世代の乗組員をどう育てるのか
という新しい問題が生まれます。
つまり、水戸は「蒸気船を持つ」段階から、「蒸気船を組織として使う」段階へ進もうとしています。
あえて「海軍」と言わない
今回、ご隠居が、
「海での戦のやり方を知らねばならぬ」
と表現していることも重要です。
まだ最初から完成された近代海軍を構想しているわけではありません。
船を研究してきた結果、
船だけでは戦えない
という次の問題に気づいた段階です。
ここから海外の制度を調べ、人材を集め、実際に航海させ、試行錯誤する。その積み重ねの先に、後の「海軍」という考え方が形になっていく方が物語として自然です。
マヌエルへの新しい依頼
これまでマヌエルから集めてきたのは、主に異国情勢や蒸気船などの技術情報でした。
しかし今回、ご隠居が求めたものは違います。
「海でどう戦っておるのか。それを集めさせよ」
つまり、「物」から「仕組み」へ情報収集の対象が変わりました。
英国、フランス、アメリカなどを比較し、
「良いところだけ頂く」
という考え方も、ご隠居らしいところです。
一国を理想化するのではなく、それぞれを比較し、日本に使えるものを選ぶ。
草が二百年以上にわたって外国勢力を観察してきた組織だからこそ可能な発想でもあります。
「海外から知識、国内から人」
第62話では二つの命令が同時に出されました。
一つはマヌエルを通じて、海外から「海での戦のやり方」を集めること。
もう一つは澪たちの情報網を使い、それを学び取れる人間を国内から探すことです。
この二つは対になっています。
知識だけあっても使う人間がいない。
人間だけいても学ぶ材料がない。
だから、ご隠居は両方を同時に動かします。
ここから幕末編第2部は、「外国を知る物語」から、少しずつその知識を使って日本側が何を準備するのかという物語へ移っていきます。
求めているのは完成された人物ではない
ご隠居が示した条件も興味深いところです。
「知らぬことを、知らぬと言える者」
これが第一条件になっています。
この時代、日本国内で近代的な海戦を十分に経験した人物を探すこと自体が無理があります。
ならば探すべきなのは、すでに完成された指揮官ではありません。
これから学ぶことのできる人物です。
異国の知識を拒絶せず、身分にこだわらず、自分より優秀な人間を使える。
ご隠居は技術者ではなく、将来、多くの人間を束ねることのできる「器」を探し始めています。
誰が候補として浮かび上がるのかは、まだこの段階では伏せておいた方がよいでしょう。
「水戸の海」ではなく「この国の海」
今回、ご隠居の考えが最も表れているのが、
「これから必要になるのは、水戸の海を守る者ではない」
「この国の海を考えられる者じゃ」
という部分です。
第57話で、
「徳川が残ることより、この国が残ることのほうが大事じゃ」
と語った思想の延長にあります。
水戸藩の軍備を強くするだけでは意味がない。
薩摩、長州、水戸、幕府がそれぞれ別々に海を守ろうとすれば、外国勢力と対峙する前に国内対立へつながる可能性もあります。
ご隠居が考え始めているのは、まだ名前さえ明確ではない、
「藩を越えて海を守る仕組み」
です。
ここが、今後の大きな伏線になります。
万次郎の役割はいったん終わる
最後の、
「時代を動かす者というのは、自分が動かしておることに気づかぬものかもしれんな」
という言葉で、今回までの万次郎編も一区切りになります。
万次郎本人は、革命を起こそうとも、国を変えようともしていません。
ただ生きて帰り、自分が見たことを話した。
小龍がそれを書き留めた。
草が江戸へ運んだ。
そして、それを読んだ人物が次の策を考え始める。
つまり『裏天正記』では、歴史を動かすものを一人の英雄だけに求めず、
見た者 → 記録した者 → 運んだ者 → 読んだ者 → 実行する者
という連鎖として描いています。
第62話は、その「実行する者」を探す物語が始まった回です。
