その日、小龍が浜へ持ってきたのは、筆だけではなかった。
細く綴じた数枚の和紙も抱えている。
「今日は絵ではないのですか」
万次郎が尋ねる。
「いや、絵も描く」
小龍は笑った。
「じゃが今日は、話も少し書いてみようと思うてな」
万次郎は首をかしげた。
「書く?」
「絵を描いておると、どうにも足りんことがある」
そう言いながら紙を広げる。
昨日まで描いていた町並みは、かなり形になっていた。
石造りの家。
広い道。
港。
煙を吐く蒸気船。
だが、人物の周囲にはまだ余白が残っている。
「今日は学校の話でしたな」
「はい」
万次郎は静かにうなずいた。
「向こうでは、子どもも学校へ通います」
「皆か」
「皆ではありませんが、日本より多いと思います」
小龍は筆を走らせながら尋ねる。
「何を学ぶ」
「読み書きです」
「算術も」
「はい」
「武士だけではないのか」
「違います」
小龍の手が止まる。
「百姓もか」
「商人も」
「なるほど」
また筆が動き始める。
「先生は厳しいか」
万次郎は笑った。
「厳しい人もおります」
「どこも同じじゃな」
二人は笑い合った。
小龍は子どもたちの姿を描き加えていく。
「机は」
「並んでおります」
「筆か」
「ペンです」
「紙は」
「ノートのようなものを使います」
「ほう」
描きながら、小龍は小さくつぶやいた。
「学ぶ者が多ければ、多くの知恵が生まれる」
万次郎はその言葉に目を向けた。
「そうかもしれません」
「では」
小龍はさらに尋ねる。
「学んだ者は何になる」
「職人になったり、商人になったり」
「役人も」
「おります」
「身分は」
「変わる者もおります」
小龍は静かに息を吐いた。
「学ぶことが道を開く、か」
万次郎は少し考えてから答える。
「皆が成功するわけではありません」
「当然じゃ」
「でも、学ぶことを止める人は少なかった」
その言葉を聞いて、小龍は筆を置いた。
「万次郎殿」
「はい」
「そなたは向こうで何を学んだ」
万次郎は少し笑った。
「最初は言葉です」
「その次は」
「船」
「その次は」
万次郎は遠くの海を見つめた。
「人でしょうか」
小龍は何も言わない。
「どんな国にも、良い人も悪い人もいました」
「うむ」
「だから外国だから怖い、日本だから安心とは思わなくなりました」
その言葉に、小龍は深くうなずいた。
「見てきた者の言葉じゃ」
しばらく沈黙が流れる。
波の音だけが浜へ響く。
やがて小龍は懐から小さな紙を取り出した。
「実はの」
「はい」
「城下へ戻るたびに、そなたの話を耳にする」
万次郎の表情が曇る。
「また何か」
「この前は、万次郎は異国へ移り住みたがっている、と」
万次郎は苦笑した。
「そんなこと、一度も言ったことはありません」
「知っておる」
「今度は、異国では百姓でも殿様になれると言うたそうじゃ」
「それも違います」
「うむ」
小龍は静かに紙をたたむ。
「誰かが悪意で変えておるのではない」
「……ええ」
「人が人へ話すうちに、話は勝手に育ってしまう」
万次郎は砂浜を見つめた。
「最初は、一人でも多くの人に知ってほしいと思っていました」
「今は」
「少し怖いです」
その一言には、今まで誰にも言えなかった本音がにじんでいた。
小龍は黙って聞いている。
「話せば話すほど、本当のことが遠ざかっていく気がします」
万次郎は力なく笑った。
「これでは、何のために帰ってきたのか分かりません」
小龍はゆっくり立ち上がり、描きかけの絵を見つめた。
石の町。
港。
蒸気船。
学校へ通う子どもたち。
どれも万次郎の話から生まれた。
だが、その絵だけでは、人々の笑い声も、先生の言葉も、学び続ける子どもたちの心も残せない。
「万次郎殿」
「はい」
「わしも困っておる」
「小龍殿がですか」
「絵師というのは難儀な商売じゃ」
小龍は苦笑する。
「見えるものは描ける」
「ええ」
「じゃが、人の言葉までは描けん」
万次郎は静かにうなずいた。
「そなたが見た異国は、絵の中だけでは息をせぬ」
その言葉に、万次郎の胸が少し熱くなった。
小龍は巻いた紙を抱え直す。
「もう少しじゃ」
「何がです」
「もう少し話を聞けば、わしにも答えが見つかる気がする」
「答え」
「どうすれば、そなたが見たものを、そのまま後の世へ残せるか」
万次郎は驚いたように小龍を見た。
小龍はそれ以上何も言わない。
まだ自分の考えが形になっていないからだ。
だが、その胸の中には、ぼんやりとした思いが生まれていた。
絵だけでは足りない。
人から人へ伝えれば、言葉は変わる。
ならば――。
その続きを口にするには、まだ早かった。
「次は、家の中の暮らしを聞かせてくれ」
小龍は笑う。
「異国の台所も描かねばならん」
万次郎も笑った。
「話は、まだたくさんあります」
「それを聞くのが楽しみじゃ」
二人は並んで海を眺めた。
寄せては返す波は、誰の言葉も歪めることなく、静かに浜を洗い続けていた。
▶「裏天正記」幕末編第二部第8話(60)「残すべき言葉」をカクヨムで読む
■ 第8話(60)「残すべき言葉」考察
第60話は、これまで3話かけて積み上げてきた流れの転換点です。
第58話では**「話を聞く」、
第59話では「絵では足りない」**ことに気付きました。
そして第60話では、小龍が初めて
「言葉を残す必要がある」
という考えへ近づきます。
まだ「本を書こう」とは言いません。
しかし、その発想が生まれる土台は完全に整いました。
学校を描いた理由
今回、小龍は学校の話を聞きます。
一見すると、港の次だから学校という流れにも見えます。
しかし、小龍が本当に知りたかったのは
「なぜアメリカはあれほど発展したのか」
です。
船は結果です。
町も結果です。
その原因は何か。
そこで小龍は、
教育
へ視点を移します。
これは非常に自然な流れです。
「学ぶことが道を開く」
今回、小龍は
「学ぶことが道を開く、か」
とつぶやきます。
ここで彼は、
身分ではなく、
学問によって社会が動く仕組みに初めて触れています。
幕末日本では、
教育は寺子屋などもありましたが、
基本的には身分制度の上に社会があります。
しかし万次郎の話では、
学ぶことが職業へ繋がり、
人生を変えていく。
小龍はそこへ驚いています。
つまり彼は
蒸気船ではなく、
蒸気船を作る人を育てる社会
を理解し始めています。
万次郎が学んだもの
今回、
「向こうで何を学んだ」
という問いに対し、
万次郎は
言葉
船
のあとに
「人でしょうか」
と答えます。
ここが非常に重要です。
つまり万次郎は、
技術を持ち帰った人ではありません。
人を見る目
を持ち帰った人なのです。
だから、
「外国だから悪い」
とも言えない。
「日本だから良い」
とも言えない。
これは万次郎自身が、
世界を見る基準を手に入れたことを意味します。
噂は悪意ではない
今回の小龍の
「誰かが悪意で変えておるのではない」
という言葉も印象的です。
普通なら、
誰かが嘘を流した、
誰かが万次郎を陥れている、
という展開になりそうです。
しかし小龍はそう考えません。
話は
人から人へ伝わるだけで
変わる。
つまり、
噂の怖さは
悪人がいることではなく、
普通の人でも起こしてしまうことにあります。
これは現代のSNSにも通じるテーマです。
万次郎が話すことを恐れ始める
今回初めて、
万次郎は
「少し怖いです」
と言います。
この一言は重いです。
土佐へ戻った頃の万次郎は、
一人でも多くの人へ
アメリカを伝えたい
と思っていました。
しかし、
話せば話すほど
違う話になる。
つまり、
善意が結果として
誤解を広げてしまう。
この状況に疲れ始めています。
ここまで描くことで、
後の
「本に残そう」
という提案に説得力が生まれます。
小龍も限界を感じ始める
今回、
小龍は初めて
「絵師というのは難儀な商売じゃ」
と言います。
つまり、
彼自身が
絵だけでは無理
と認めています。
絵は
- 建物
- 人
- 船
は描けます。
しかし、
- 会話
- 考え
- 驚き
- 学び
は描けません。
だから、
小龍は
「文字」
を意識し始めます。
ここで初めて、
絵師から
記録者
へ変わり始めています。
「答えが見つかる気がする」
この一言が、
第61話への伏線です。
まだ答えはありません。
しかし、
小龍の頭の中では、
点だったものが
線になり始めています。
異国を知る。
万次郎を知る。
噂を知る。
絵の限界を知る。
これらがすべて結び付き、
最後に
「本」
という答えへ到達する。
その直前の状態が第60話です。
