船は動いてこそ船――河田小龍が気づいた『絵では描けない異国』 | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
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 翌々日、小龍はまた浜へやって来た。

 抱えている紙は、前回より一回り大きい。

「今日は大きいですね」

 万次郎が笑うと、小龍も肩をすくめた。

「町が広くなってしもうた」

 紙を広げると、そこには石造りの家並みが並び、西洋の女性が町角へ立っている。

「今日は港じゃ」

「まだ描くのですか」

「町の向こうに海があるのに、港がなければ締まらん」

 そう言って筆を取る。

「港には、まず何がある」

 万次郎は少し考えた。

「倉庫ですね」

「木か」

「石が多かったです」

「石の倉庫か」

 小龍は黙々と描く。

「荷は」

「綿や木材、樽なんかもありました」

「人は」

「荷運びをしております」

「武士は」

 万次郎は首を横に振った。

「見かけませんでした」

 小龍の筆が一瞬止まる。

「役人は」

「おります。でも刀は差していません」

「なるほど」

 そのまま何も言わず描き続けた。

 万次郎は不思議だった。

 誰もが武士の話になる。

 だが小龍は、役人の服装を聞いただけで、それ以上は広げない。

「港は賑やかです」

「毎日か」

「毎日です」

「祭りのように」

「祭りより賑やかです」

 小龍は笑う。

「毎日祭りとは忙しい国じゃ」

 万次郎も笑った。

「船は」

 その一言で、万次郎の表情が少し曇る。

「帆船もおります」

「ほかには」

「蒸気船も」

 小龍は筆を動かしたまま尋ねた。

「煙は黒いか」

「はい」

「音は」

 万次郎は目を閉じた。

 耳の奥で、あの日の音が蘇る。

「……低く響きます」

「低く」

「腹の底へ響くような音です」

 小龍は静かにうなずいた。

「速いか」

「風がなくても進みます」

「人は驚くか」

「最初は」

 万次郎は遠くの海を見た。

「でも向こうでは、誰も立ち止まりません」

「当たり前だからか」

「はい」

 小龍は煙突を一本描き足した。

「一本でよいか」

「大きい船は二本ありました」

「ほう」

 紙の上に黒い煙が立ち上る。

 その煙を見つめながら、小龍はぽつりと言った。

「これだけ描いても、動かんな」

「え?」

「船は動いてこそ船じゃ」

 万次郎は少し考えてから笑った。

「そうですね」

「絵には風も音も描けん」

「煙の匂いも」

「揺れも」

 二人は同時に言って顔を見合わせた。

 小龍は筆を置く。

「面白い」

「何がです」

「絵に描けぬものばかり残る」

 その言葉に、万次郎は少し考え込んだ。

「向こうで、一番驚いたのは何じゃ」

 小龍が尋ねる。

 万次郎はすぐには答えなかった。

「船ですか」

「違います」

「町ですか」

「違います」

 しばらく波の音だけが続く。

「人です」

 小龍は目を上げた。

「人?」

「はい」

「どう違う」

「知らない者同士でも話しかけます」

「見知らぬ相手に」

「はい」

「助け合います」

「ほう」

 万次郎は少し笑う。

「もちろん悪い人もおります」

「どこにもおる」

「でも、初めから疑われることは少なかった」

 その言葉を聞いた小龍は、ゆっくりとうなずいた。

「だから帰ってきて、少し寂しかったのか」

 万次郎は驚いたように顔を上げる。

「……そうかもしれません」

 小龍は筆を動かさない。

 ただ話を聞いている。

「向こうでは、知らないことを聞けば教えてくれました」

「こちらでは」

 万次郎は苦笑した。

「話せば疑われます」

 小龍は静かに笑う。

「それだけ、そなたが見てきたものが、この国には遠いのじゃろう」

「遠い……」

「人は知らぬものを恐れる」

 万次郎は砂浜へ視線を落とした。

「わしは、この国が嫌いになったわけではありません」

「分かっておる」

「でも」

「分かっておる」

 小龍は二度繰り返した。

「その顔は、この国を捨てた者の顔ではない」

 万次郎は何も言えなかった。

「帰ってきたからこそ苦しい」

 小龍は紙を巻き始める。

「見てしまったから比べてしまう」

「……はい」

「そして、どちらも好きだから困る」

 万次郎は思わず笑った。

「その通りです」

「難儀じゃの」

「本当に」

 二人はしばらく笑い合った。

 笑いが収まると、小龍は描きかけの絵を見つめる。

 石造りの町。

 港。

 煙を吐く船。

 西洋の女性。

 どれも万次郎の話どおり描いた。

 しかし、まだ足りない。

(この男が見たものは、絵一枚には収まらん。)

 小龍はそう思った。

 町には音があった。

 船には振動があった。

 人には言葉があった。

 そして万次郎の話には、そのすべてが宿っている。

「万次郎殿」

「はい」

「次は、学校の話を聞かせてくれんか」

 万次郎は少し驚き、それから穏やかに笑った。

「喜んで」

 小龍も笑う。

「絵はまだ終わらん」

「背景が多すぎますね」

「異国とは、背景ばかりじゃ」

 その言葉を残し、小龍は浜を後にした。

 帰り道、小龍は胸の内で考える。

 万次郎の話は、噂として広まれば形を変える。

 だが、このまま聞き続ければ、本当の異国を後の世へ残せるかもしれない。

 まだ、その考えを万次郎へ話すつもりはなかった。

 もう少しだけ、この男の言葉を聞いていたい。

 そう思う自分に、小龍は小さく苦笑した。

 


▶「裏天正記」幕末編第二部第7話(59)「絵に描けぬもの」をカクヨムで読む

■ 第7話(59)「絵に描けぬもの」考察

第59話は、第58話の「信頼」がさらに一歩進み、絵では伝えきれないものを描いた回です。

一見すると港や蒸気船について語る回ですが、本当のテーマは、

文明とは建物や機械ではなく、人の営みそのものである

という点にあります。

この考え方は、第57話で水戸の隠居が語った

「蒸気船は時代そのものじゃ」

という言葉を、小龍が絵師として別の角度から理解し始めた回でもあります。


港を描くことで文明が見える

小龍は、

「蒸気船はどのくらい速い」

とは聞きません。

まず聞くのは、

  • 倉庫
  • 荷物
  • 荷運び

です。

つまり、

船ではなく港を描こうとしている。

これは情報収集として非常に優秀です。

蒸気船だけ見ても文明は理解できません。

しかし、

  • 倉庫がある
  • 毎日荷物が動く
  • 人が絶えない
  • 役人が管理している

ここまで見れば、

「ああ、この船は社会全体で動いている」

と理解できます。


「船は動いてこそ船」

今回の名台詞は、

「船は動いてこそ船じゃ」

でしょう。

これは絵について言っています。

しかし本当は、

文明そのものについて語っています。

絵には、

  • 匂い
  • 振動
  • 人の動き

は描けません。

つまり、

静止画では文明は伝わらない。

これは小龍自身が、

「絵だけでは万次郎の体験を残せない」

と気付き始める瞬間です。

後の

「本にせんか」

へ繋がる非常に重要な伏線になっています。


万次郎が驚いたもの

今回、万次郎は

「蒸気船」

でも

「町」

でもなく、

「人です」

と答えます。

ここがとても良いです。

つまり万次郎は、

アメリカの技術ではなく、

人間そのもの

に衝撃を受けていた。

これは、

単なる文明開化の物語ではなく、

文化や価値観の違いを描く作品になっています。


「知らない者同士でも話しかける」

この部分は万次郎の孤独が表れています。

彼が日本へ帰って苦しかった理由は、

外国へ行ったからではありません。

向こうでは、

知らない人が普通に話しかける。

助けてもらう。

困れば聞ける。

しかし日本へ戻ると、

話すだけで疑われる。

つまり、

異国を知ったことで、

日本が嫌になったのではない。

日本が以前より見えるようになってしまった。

ここが万次郎の苦しみです。


小龍は万次郎を理解する

今回、

小龍は非常に重要なことを言います。

「その顔は、この国を捨てた者の顔ではない」

ここで小龍は、

万次郎が

  • 攘夷派
  • 開国派

どちらでもないことを理解します。

万次郎は、

ただ、

両方知ってしまった人

なのです。

だから、

日本も好き。

アメリカも好き。

だから苦しい。

小龍はそこまで読み取っています。


小龍の心が変わる

最後に、

小龍はこう考えます。

「この男が見たものは、絵一枚には収まらん。」

ここで初めて、

絵師・河田小龍

として限界を感じます。

そして、

「本当の異国を後の世へ残せるかもしれない」

と思い始めます。

まだ本の提案はしていません。

しかし、

心の中では

「絵では足りない」

と結論が出始めています。

この段階だからこそ、

第60〜61話で

「万次郎殿、これを本にせんか。」

という流れが自然になります。


小龍の情報収集術

58話と59話を合わせると、

小龍は一度も

「外国は日本より優れているのか」

とは聞いていません。

代わりに、

  • 学校

という、

生活そのものを聞いています。

つまり、

思想ではなく、

生活を調べている。

草として非常に優秀です。

生活を知れば、

その国の仕組みが見えてくる。

これは後の草組織の情報収集方法にも繋がる思想でしょう。


今後への伏線

第60話では学校や教育を描き、

そこで

  • 人材育成
  • 学問
  • 読み書き
  • 子供

へ話が広がるでしょう。

そこで小龍は、

「異国とは、人を育てる仕組みだった」

と気付きます。

そして、

絵だけでは伝えられない。

文字なら残せる。

ここで初めて、

『漂巽紀略』

という発想が生まれる。

この流れになると、

「本を書こう」

ではなく、

「本を書くしかない」

という必然になります。