伊賀を出てから、道は再びひらけた。
山の静けさを抜けると、人の声と荷の音が戻ってくる。
澪は街道の流れに身を置きながら、伊賀で交わした言葉を反芻していた。
——再来する戦。
確証はない。
だが、似ているという感覚は、消えなかった。
名古屋の町は、思った以上に賑わっていた。
城下を中心に、人と物が絶え間なく動いている。
大坂ほどの規模ではないが、東西をつなぐ要衝としての熱を帯びていた。
澪は、町の一角にある小さな書肆(しょし)を訪ねた。
伊賀の棟梁から、名だけは聞いていた。
——この町に、外を見ている者がいる。
戸を開けると、紙と墨の匂いが満ちていた。
壁一面に積まれた書。
どれも、容易に手に入るものではない。
「お探しの本は」
声をかけてきた男は、武士の装いだった。
だが、刀よりも筆が似合う佇まいをしている。
「書ではありません」
澪は答えた。
「話を、聞きに来ました」
男は一瞬、澪を見つめた。
その視線は、測るようでいて、拒まない。
「……奥へ」
通された先で、男は名乗った。
「渡辺と申します」
その名に、澪は静かに息を整えた。
渡辺崋山。
海防を論じ、外の事情を知る者。
だが、表で大きく語ることを許されていない人物。
澪は、これまでの旅を語った。
長崎での噂。
大坂のアヘン窟。
彦根で起きた錯乱。
伊賀で立てた仮説。
崋山は、途中で遮らなかった。
ただ、何度か筆を止め、視線を上げた。
「……なるほど」
澪の話が終わると、崋山はゆっくりと言った。
「あなたは、医師の目で見ている」
澪は頷いた。
「ええ。
けれど、それだけでは足りない気がして」
崋山は、小さく笑った。
「足りないのは、あなただけではありません」
そして、言葉を選ぶように続ける。
「敵は、刀を持って来るとは限らぬ。
むしろ、刀を持たぬ方が厄介だ」
澪の胸に、伊賀での言葉が重なる。
「信仰も、薬も……」
澪が口にすると、崋山は頷いた。
「ええ。
本来は人を救うものです。
だが、それを操る者がいれば、
救いは支配に変わる」
崋山は、机の上の紙を指で押さえた。
「外の国々は、すでにそれを学んでいます。
力で奪うより、
内側から崩す方が早い、と」
澪は、静かに問う。
「それは……戦なのですか」
崋山は、すぐには答えなかった。
窓の外、人の行き交う音を聞いてから、言う。
「戦です。
ただし、名のない戦です」
——名のない戦。
その言葉は、澪の中で、はっきりと形を持った。
伊賀での仮説。
彦根で見た乱れ。
大坂で見た依存。
すべてが、一つの線になる。
「あなたの仮説は、危うい」
崋山は続けた。
「正しいかもしれない。
だが、口にすれば、狙われる」
澪は、その言葉の意味を理解していた。
それでも、目を逸らさない。
「……それでも、見なかったことにはできません」
崋山は、澪をまっすぐに見た。
「でしょうな」
それだけだった。
別れ際、崋山は一枚の紙を渡した。
そこには、港と街道、薬種の流れが簡潔に記されている。
「これは、私の考えです。
確証はありません」
澪は、深く頭を下げた。
書肆を出ると、夕暮れが町を包んでいた。
人々は、いつも通りに歩いている。
だが澪の目には、違って見えた。
これは、すでに始まっている戦だ。
名もなく、旗もなく、
人々が気づかぬうちに進む戦。
楓は、澪の一歩後ろを歩いている。
いつもと変わらぬ距離。
「……楓」
澪が、初めて名を呼んだ。
「はい」
「この話は、重いですね」
楓は少し考え、短く答えた。
「……重い話ほど、
静かに進みます」
澪は頷いた。
名古屋で、言葉になった戦は、
次の地で、さらに形を持つだろう。
江戸へ。
名を持たぬ戦の、中心へ。
▶「裏天正記」幕末編第7話「言葉にされた戦」をカクヨムで読む
第2幕・第7話「言葉にされた戦」考察
第7話は、第2幕において
澪の仮説が「個人や組織の感覚」から「思想と言語」へと昇格する回である。
これまで澪は、
-
医師として「症状」を見てきた
-
旅人として「広がり」を感じてきた
-
伊賀で「過去との類似」に気づいた
しかし、それらはまだ
心の中にある理解に留まっていた。
名古屋で出会う 渡辺崋山 は、
その理解を「言葉」に変える存在である。
崋山は、澪と同じく外を見ているが、
澪とは違い、
-
書く者
-
考えを社会に置こうとする者
である。
彼が語る
「敵は、刀を持って来るとは限らぬ」
という言葉は、
澪が体感してきた出来事を
戦争の概念として定義する行為だ。
ここで重要なのは、
この戦いが「名を持たない」点である。
-
宣戦布告はない
-
軍勢も旗もない
-
だが、人の心・身体・暮らしが破壊されていく
崋山が言う
「名のない戦」
とは、
戦争でありながら、戦争として認識されない侵略を意味している。
これは伊賀で語られた
-
信仰による侵略
-
内側からの崩壊
という過去の戦いと完全に重なる。
第7話によって、
-
澪の仮説は「歴史的再来説」として裏付けられ
-
それが思想家の言葉によって共有可能な形になる
同時に、この回は
「語ることの危険」も明確にする。
崋山は澪に警告する。
-
正しいかもしれない
-
だが、口にすれば狙われる
つまり、
真実は、守るべきだが、
公にすれば必ず敵を呼ぶ
という現実である。
これは、のちに
-
井伊直弼が背負う決断
-
マヌエルが担う影の連絡
-
草が表に出られない理由
へとつながる重要な前提になる。
また本話では、
楓という存在が初めて“言葉”を持つ。
「重い話ほど、静かに進みます」
この一言は、
第2幕全体を貫くテーマの要約でもある。
第7話は、
-
感覚だった異変が
-
歴史と思想に結びつき
-
「戦」として明確に意識される
という、思考の決定点を描いた回である。
