東海道を上る道は、思ったよりも長かった。
大坂で見た闇は、町の奥に沈んでいた。
彦根で見た乱れは、武の秩序の隙間から漏れ出していた。
——同じものが、形を変えて広がっている。
雪村澪は、その確信を胸に抱えたまま、あえて道を外した。
名古屋へ向かうのなら、本来はそのまま街道を進めばよい。
だが澪は、伊賀へ向かった。
理由は、理屈ではない。
ただ、こういうときは——
“昔から、そうしてきた”という感覚があった。
澪は、医の手ほどきを受けてきた。
同時に、蓮の子孫として、草の血筋として、表に出さぬ技も叩き込まれている。
足音の殺し方。
視線の逃がし方。
人混みに溶ける角度。
何かを斬るためではない。
生き残って、伝えるためだ。
伊賀の山は、静かだった。
人の気配は薄く、風の音だけが枝を揺らしていく。
澪は、目立たぬ里の外れで立ち止まった。
目印などない。
だが、迷うことはなかった。
——ここだ。
戸は開かれていたわけではない。
澪が近づくと、影がひとつ動いた。
無言で、道を示す。
澪は一礼し、その後を追った。
通されたのは、質素な座敷だった。
火鉢の炭は赤く、湯の音だけが静かに響いている。
奥に、男が座していた。
年齢は測れない。
顔立ちは平凡で、印象に残らない。
だが、目だけが妙に澄んでいる。
「……棟梁」
澪がそう呼ぶと、男は小さく頷いた。
「話せ」
それだけだった。
澪は息を整え、これまでのことを語った。
長崎で聞いた噂。
大坂で見たアヘン窟。
彦根で起きた錯乱と、武家の町に入り込んだ“病”。
棟梁は遮らない。
相槌もない。
ただ、澪の言葉の端にある温度だけを測っているようだった。
澪は、最後に一つだけ付け加えた。
「……緒方洪庵という医師が言いました。
薬は悪くない。けれど、社会が病めば薬は毒になる、と」
棟梁は、火鉢の灰を少しだけ均した。
それは肯定にも否定にも見えない動作だった。
澪は、胸の奥に沈めていた言葉を、ようやく口にした。
「棟梁。
これは……ご先祖様が戦った戦いの再来ではないでしょうか」
棟梁の手が止まった。
澪は続ける。
「前は、信仰でした。
救いを餌にして、人の心を割った。
今は、薬です。依存を餌にして、人の身体と暮らしを割る」
澪は、言葉を選びながらも、はっきりと言った。
「刀を使わずに、国を内側からむしばむ。
……手口が、似ています」
棟梁は、しばらく沈黙した。
やがて、低い声で言う。
「“似ている”という感覚は、軽んじてはならぬ」
澪は息を呑んだ。
それは、澪の仮説が「ただの思いつき」ではなく、
ここで扱われるべき重みを持ったという意味だった。
「半蔵様にも、報告は入れておこう」
棟梁は、それ以上なにも口にはしなかった。
だがその沈黙が、
その名がいまも生きていることを、何より雄弁に物語っていた。
凍っていた何かが、深いところで静かに軋む。
音はしない。
だが、確かに動き出している。
「……澪」
棟梁が、初めて澪の名を呼んだ。
「この先は、ひとりで歩く話ではない」
澪は、視線を上げた。
座敷の陰から、ひとりの女が現れた。
若い。
だが、気配が薄い。
そこにいるのに、意識が滑る。
女は一礼した。
「……楓です」
それだけだった。
棟梁が言う。
「道中、この者が付く。
お前の目で見たものは、記録され、伝わる。
そして——」
棟梁は、澪をまっすぐ見た。
「お前が倒れるようなら、
その報告は途切れる」
澪は理解した。
楓は護衛であり、連絡であり、そして監視でもある。
澪が動けば、草も動く。
澪が折れれば、流れは途切れる。
澪は静かに頭を下げた。
「承知しました」
座敷を出ると、山の空気が冷たかった。
だが澪の胸は、不思議と澄んでいた。
自分はひとりではない。
そしてこの異変は、偶然ではない。
信仰も、薬も、本来は人を救うためにある。
けれど、それを意図的に操る者がいるなら——
救いは、毒に変わる。
澪は、歩き出した。
楓は一歩後ろを、影のように付いてくる。
名古屋へ。
そして、江戸へ。
過去と現在が、もう一度交わる場所へ。
▶「裏天正記」幕末編第6話「名を持たぬ報告」をカクヨムで読む
第2幕・第6話「名を持たぬ報告」考察
第6話は、第2幕において
澪の仮説が「個人の直感」から「歴史と組織の認識」へと昇格する回である。
これまで澪は、
-
医師として症状を見てきた(長崎・大坂)
-
秩序の乱れとして異変を見た(彦根)
だが、それらはまだ「現在の出来事」として分断されていた。
伊賀での棟梁との対話によって、
澪は初めてそれらを 過去の戦いと重ねて語る。
重要なのは、
澪自身がそれを「断定」していない点である。
「再来ではないでしょうか」
という言い方は、
-
確証はない
-
だが、無視できない類似がある
という、草の思考様式そのものを表している。
前回の戦いでは、
-
信仰
-
救済
-
思想
が用いられ、人の心を内側から割った。
今回用いられているのは、
-
薬
-
依存
-
生活の崩壊
であり、対象は心だけでなく、
身体と社会構造そのものである。
刀も軍勢も用いず、
気づいたときには内側が崩れている——
その手口の一致に、澪は気づいてしまった。
棟梁は、この仮説を肯定も否定もしない。
ただ、
「“似ている”という感覚は、軽んじてはならぬ」
と応じる。
この言葉によって、
澪の考察は「聞くに値するもの」として受け取られ、
同時に、組織の判断の土俵に乗る。
「半蔵様にも、報告は入れておこう」
という一言は、
凍結されていた作戦や記録が、
静かに再起動した合図である。
だが、棟梁はそれ以上を語らない。
その沈黙こそが、
-
草は常に全貌を明かさない
-
名や所在よりも「流れ」が重視される
という世界観を明確に示している。
また本話で重要なのは、
澪が 忍びとしての訓練を受けた存在であることが自然に示された点である。
澪は、
-
医師として前に出る
-
草として痕跡を残さず動く
という二つの顔を持つ。
そして、くノ一・楓の同行によって、
-
澪の言葉は記録され
-
澪の安全は守られ
-
同時に、澪自身も見られる側になる
この瞬間から、澪の旅は
個人の探索ではなく、組織を伴う行動へと変化する。
第6話は、
-
過去と現在が初めて明確につながり
-
草という存在が「まだ生きている」と示され
-
次の名古屋編(渡辺崋山)で語られる思想と警告の土台
を固める、静かだが決定的な転換点である。
