裏天正記 幕末編|第2幕第5話 「乱れの兆し──武の町・彦根に忍び寄る病」 | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
信じるか信じないかは、あなた次第です!

彦根城下は、静かな町であった。

 武家屋敷が整然と並び、往来には無駄な声がない。
 商いの町とは違う、張り詰めた秩序が、空気そのものを形作っている。

 雪村澪は、その中を歩きながら、わずかな違和感を覚えていた。

 ——静かすぎる。

 その違和感は、突然、破られた。

 鋭い叫び声。
 次いで、悲鳴。

「逃げろ!」

 通りの向こうで、ひとりの若者が刀を振り回していた。
 目は血走り、動きは荒い。
 理性の影が、どこにもない。

 人々は一斉に散った。
 転び、押し合い、叫びながら、四方へ逃げる。

 澪は、逃げる男の腕を掴んだ。

「何があったのです」

 男は息を切らし、吐き捨てるように言った。

「……あいつは、おかしなくすりのとりすぎで
 おかしくなっちまったんだ!」

 ——くすり。

 その一言で、澪の中の点が線になる。

 長崎。
 大坂。
 同じ症状。
 同じ崩れ方。

 アヘン。

 澪は、男の腕を放した。

 逃げ惑う人々とは逆に、
 澪は歩き出した。

 刀を振るう若者の方へ。

 その先に、ひとりの男が立っていた。

 背筋を伸ばし、静かに刀を構えている。
 正眼。

 周囲の混乱の中で、その姿だけが、奇妙なほど揺るがない。

「井伊様!」

 誰かが叫んだ。

「井伊様、退治してくださいよ!」

 男は、答えなかった。

 ただ、じっと若者を見据えている。

 次の瞬間だった。

 若者が斬りかかる。
 間合いに入った、その一瞬。

 男は踏み込み、
 刃を返し、
 みねで叩き伏せた。

 乾いた音。

 若者の身体が崩れ落ち、刀が地面に転がる。

 死んではいない。
 だが、完全に動きを止められている。

 澪は、すぐに駆け寄った。

「動かさないでください」

 誰に言うともなく告げ、
 澪は若者の脈を取る。

 速い。
 乱れている。
 瞳孔も、呼吸も異常だ。

 間違いない。

 そのとき、背後から低い声がした。

「……拙者は、斬らなかっただけでござる」

 振り向くと、先ほどの男が立っていた。

 落ち着いた眼差し。
 だが、その奥には、確かな憂いがある。

「この者は、病です」

 澪は言った。

「刃で裁くものではありません」

 男は、澪の手元を見つめ、静かに頷いた。

「左様か」

 そして、ぽつりと呟く。

「……市中が、
みだれはじめておる」

 それは、誰に向けた言葉でもなかった。
 己に言い聞かせるような、重い声だった。

 澪は、その言葉の意味を、すぐに理解した。

 ——これは、ひとりの狂気ではない。

 ——町そのものが、侵され始めている。

 若者の身体が、かすかに震える。

 澪は手当てを続けながら、心の中で確信していた。

 大坂だけではない。
 武の秩序で守られてきたこの町にすら、
 同じ病が入り込んでいる。

 そして今、
 それを“乱れ”として感じ取っている者がいる。

 この男——
 井伊直弼

 まだ力を持たぬ者。
 だが、すでに気づいている者。

 澪は、顔を上げた。

 東海道の先で、
 さらに多くの“答え”が待っている。

 その予感だけが、
 確かな重みをもって胸に残っていた。


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第2幕・第5話「乱れの兆し」考察

第5話は、第2幕の中で
「社会の病」が初めて“武の秩序”を侵す瞬間を描いた回である。

これまで澪が見てきた異変は、

  • 長崎:港町の裏側

  • 大坂:巨大都市の構造的歪み

と、いずれも「商い」と「人の流れ」に関わる場所で起きていた。
しかし彦根は違う。

ここは、

  • 武士の町

  • 秩序と規律によって保たれてきた空間

  • 本来、外の混乱から最も遠いはずの場所

である。

その町で起きたのが、
刀を振り回す若者の錯乱事件だった。

重要なのは、
この事件が「反乱」でも「思想犯」でもない点にある。

原因はただ一つ。

おかしなくすりの取りすぎ

つまり、
**外から持ち込まれた“管理を失った薬”**である。

澪は医師として、
この若者を「病」として即座に認識する。

一方で、ここに現れる
井伊直弼 は、
武士として、別のものを見ている。

「市中が、みだれはじめておる」

この一言は、
目の前の事件を指しているようでいて、
実際には 町全体、ひいては国の兆候を捉えた言葉である。

この時点の直弼は、

  • 権力を持たない

  • 命令する立場でもない

  • ただ、刀を抜かずに事態を収めることしかできない

存在である。

しかし、その「斬らずに制する」という選択は、

  • 無力ではなく

  • 逃避でもなく

  • 秩序を守ろうとする武の抑制

として描かれている。

ここで澪と直弼は、

  • 同じ現場を見ながら

  • 違う言葉で

  • 同じ異変を捉える

という関係になる。

  • 澪は「病」として

  • 直弼は「乱れ」として

この回で澪の思考は、さらに一段進む。

  • これはもはや都市の問題ではない

  • 商人だけの問題でもない

  • 武の秩序すら侵されている

つまり、

これは、国の話になる

という直感である。

第5話は、
後に権力の中枢へと進む直弼が、
「なぜ秩序に固執する男になったのか」を示す
静かな原点の回でもある。