大坂の町は、息をしていた。
人が行き交い、荷が動き、金が回る。
川と道が絡み合い、商いが脈のように全身を巡っている。
雪村澪は、川口屋の蔵の前で立ち止まり、その流れを眺めていた。
——長崎とは、違う。
同じ港町でも、規模がまるで違う。
ここでは、物も、人も、考えも、溜まる。
診療の依頼は、到着したその日から相次いだ。
腹痛、震え、不眠、焦燥。
どれも見覚えのある症状だが、数が違う。
澪は、一人ひとりを診た。
脈を取り、舌を見、呼吸を聞く。
だが、どの患者にも共通している。
——止められない。
薬を減らせば苛立ち、
断てば、身体より先に心が崩れる。
「これは……」
澪は、言葉を飲み込んだ。
ある夜、診療の帰り道で、澪は不思議な気配に足を止めた。
路地の奥。
灯りが、妙に静かだ。
誘われるように進むと、そこにあった。
狭い部屋。
重たい空気。
横たわる人々。
吸い口を手放さない者。
虚ろな目で天井を見つめる者。
——アヘン窟。
長崎でも噂には聞いていた。
だが、ここでは点在ではない。
生活の一部になっている。
澪は、背筋に冷たいものを感じた。
これは、もう“隠れた病”ではない。
町の奥に、確かに根を張っている。
澪は、そこでも診ようとした。
薬を減らし、休ませ、水を与える。
だが、翌日には元に戻る。
何度も。
何人も。
その夜、澪は一人、川のほとりに立っていた。
町の灯が水面に揺れる。
——治せない。
初めて、はっきりとそう思った。
そのときだった。
「あなたも、同じところを見ているようだ」
背後から、落ち着いた声がした。
振り向くと、見知らぬ男が立っている。
年は澪より上だろう。
目に、疲れと覚悟が同時に宿っている。
「緒方と申します」
澪は、名を聞いてすぐに気づいた。
蘭方医として、大坂で名が知られ始めている人物だ。
「雪村です」
二人は、それ以上名乗らなかった。
「治せませんでしたか」
洪庵は、川を見つめたまま言った。
「……ええ」
「私もです」
その言葉は、淡々としていた。
悔しさよりも、現実を見据えた響きだった。
「薬は悪くありません」
洪庵は続ける。
「使い方も、理屈も、間違っていない。
だが……」
少し、間を置く。
「社会が病めば、
薬は人を救えなくなる」
澪の胸で、何かが静かに組み上がった。
——病は、人にあるのではない。
——流れにある。
「大坂は、入口です」
澪は言った。
「ここで集まり、
ここから流れる」
洪庵は、否定しなかった。
「江戸でしょうな」
「ええ」
二人は、それ以上語らなかった。
答えは、もう共有されていた。
その夜、澪は決めた。
大坂に留まっても、治せるものは限られている。
ならば、流れを追うしかない。
東海道を上る。
町を見て、人を診て、噂を拾う。
点が、線になるかどうか。
それを、自分の目で確かめる。
大坂の町は、今日も変わらず賑わっている。
だがその足元で、
静かに崩れ始めているものがある。
澪は、その流れの先へ向かうことを選んだ。
📖第2幕・第4話「治せない病」考察
第4話は、第2幕の中で
澪が「医師としての限界」を初めて自覚する回である。
これまで澪は、
-
症状を診て
-
薬を調整し
-
患者を個別に救おうとしてきた
だが、大坂という巨大都市で直面する現実は、
その積み重ねを無意味にしかねない規模だった。
アヘン窟は、もはや例外ではない。
裏の闇でも、特異な犯罪でもなく、
都市の生活の一部として定着している。
ここで重要なのは、
澪が「悪」を発見したのではない点である。
-
薬は薬として存在している
-
使う人間も、最初は救いを求めている
-
商いも、理屈の上では成立している
それでも結果として現れるのは、
誰も止められない依存と崩壊だ。
澪が口にする
「治せない」という言葉は、
医術の敗北ではない。
それは、
個人を診るだけでは、
社会が生み出す病には届かない
という認識への到達である。
ここで登場する 緒方洪庵 は、
澪に新しい答えを与える人物ではない。
彼が示すのは、
澪がすでに感じていた違和感を
言葉として整理する視点だ。
「薬は悪くない。
だが、社会が病めば、
薬は人を救えなくなる」
この一言によって、
澪の考察は
「薬の問題」から
「流れの問題」へと進化する。
第4話の終わりで澪が東海道行きを決意するのは、
新たな使命を得たからではない。
ここに留まっても、何も変えられない
という冷静な判断の結果である。
大阪は“入口”であり、
病そのものではない。
この回は、
第5話以降で描かれる物語向けて、
-
点在する異変を
-
一本の線として追う
という、物語の視座を確定させる役割を果たしている。
