船は、静かに海を進んでいた。
帆は張られ、波を切る音だけが一定の調子で続く。
長崎を離れ、大阪へ向かう航路は、川口屋にとって見慣れた道だった。
雪村澪は、船縁に腰を下ろし、遠ざかる陸影を眺めていた。
港、倉、積み荷を点検する人々。
どれも、これまで何度も見てきた光景だ。
だが今回は、心が落ち着かなかった。
——考える時間が、できてしまったからだ。
寄港地の一つで、澪は簡単な診療を引き受けた。
重い症状ではない。
数も多くはない。
それでも、身体に触れた瞬間、違和感があった。
手の震え。
眠れぬ夜。
理由のはっきりしない焦燥。
訴えはまちまちだが、反応は似ている。
「薬は?」
そう尋ねると、返ってくる答えも、どこか揃っていた。
「もらったものです」
「効くと聞いて」
「眠れるから」
医師の名は出てこない。
用量も、使い方も曖昧だ。
澪は、それ以上問い詰めなかった。
ここで追っても、答えは出ない。
船に戻り、夜の海を前に一人になる。
荷の隙間から、薬箱の匂いがかすかに漂ってくる。
——同じだ。
量も形も異なる。
だが、扱われ方の気配が同じ。
澪は、雪村家に伝わる古い記録を思い出していた。
兄が言っていた、「書かれなかった報告」。
そこに記されていた一節。
——信仰は、人の心を借りて国を奪う。
だが、その続きも思い出す。
信仰そのものが、
初めから悪だったわけではない。
救いを求める心も、
拠り所を欲する願いも、
本来は、人が生きるために必要なものだった。
澪は、今、手にしている薬を思う。
痛みを和らげる。
眠りを与える。
苦しみを一時、遠ざける。
それ自体は、間違いではない。
——だが。
使い方を誤れば、
いや、誤らされれば。
信仰も、
薬も、
人を立たせる力を奪う毒に変わる。
澪の中で、点が線になる。
形は違う。
時代も違う。
だが、やっていることは同じだ。
人の弱さにつけ込み、
中立なものを操作し、
依存を生み、
内側から崩す。
「……再来、なのかもしれない」
それは断定ではなかった。
だが、医師としての感覚が告げている。
これは偶然ではない。
広がっているのではなく、
流されている。
澪は、静かに決める。
患者を診るだけでは足りない。
薬を止めるだけでも足りない。
必要なのは、
——どこで、
——誰が、
——その使い方を“教えた”のか。
大阪で、川口屋の取引を改めて見る。
そして江戸へ。
武家の奥で、
誰が、何を「必要なもの」に変えているのか。
夜の海は、何も語らない。
ただ、すべてを運んでいく。
澪は、その流れの先を見据えていた。
過去と現在が、
静かに重なり始めていることを、
確かに感じながら。
📖第2幕・第3話「同じ匂い」考察
第3話は、
物語が「出来事」を追う段階から、
構造を疑い始める段階へ移行した回である。
本話で澪が直面するのは、
爆発的な蔓延でも、明確な敵でもない。
むしろ描かれるのは、
各地に点在する小さく、似通った異変だ。
重要なのは、
その異変が「悪意」から始まっていない点である。
-
薬は、もともと人を救うために存在する
-
信仰も、人が立つための拠り所だった
-
どちらも本質的には中立であり、必要なものだった
しかし澪は、旅の中で気づく。
問題は“存在”ではなく、
“使い方を教えた者”にある
という事実に。
第一幕で描かれた信仰による侵略も、
剣や軍事によるものではなかった。
救済と正しさを語りながら、
人の内側に入り込み、
自ら立つ力を奪う構造だった。
第3話は、
その過去の構造が、
形を変えて再び現れている可能性を示唆する。
信仰が薬に、
教義が用法に、
救済が鎮静に置き換わっただけで、
やっていることは同じなのではないか。
澪はまだ断定しない。
これは「敵だ」とは言わない。
だが、
-
同じ匂い
-
同じ症状
-
同じ流れ
を医師として嗅ぎ取る。
ここで描かれる「再来」とは、
過去の敵が同一人物として戻ってきた、
という意味ではない。
見抜かれなかった侵略の方法が、
再び選ばれた
ということだ。
第3話は、
アヘンの蔓延を追う話ではない。
侵略が成立する“過程”を疑い始めた瞬間を描く回であり、
ここから物語は
「誰が売ったのか」ではなく、
「誰が教え、誰が流れを作ったのか」へと進んでいく。
それは、
草が戦う理由が
“敵を倒すため”ではなく、
同じ過ちを繰り返させないためであることを、
静かに示している。
