火鉢の上で、汁椀が静かに温められていた。
豪勢とは言えないが、落ち着いた夕餉だった。
白米、焼き魚、漬物。
そして、湯気の立つ椀。
雪村蓮之介は、箸を置き、向かいに座る妹を見た。
「今日は、遅かったな」
「診療が長引いたの」
澪はそう答え、椀を手に取る。
一口すすり、少しだけ間を置いてから続けた。
「この頃ね……妙な患者が増えてるの」
蓮之介は何も言わず、続きを待つ。
「過剰摂取よ」
「……薬か」
「ええ」
澪は頷いた。
「しかも、町人じゃない。
武家の奥方が多い」
箸が、かすかに止まった。
「痛み止めとして処方されたものを、
勝手に量を増やしている」
「理由は」
「眠れるから。
考えなくて済むから」
澪は淡々と語った。
感情を挟めば、診断が狂う。
「身体は壊れ始めているわ。
震え、倦怠、焦燥。
それでも、やめられない」
蓮之介は、ゆっくり息を吐いた。
「……清と同じだな」
「ええ」
澪は即答した。
「ただ、まだ“病”として扱われていない。
皆、薬だと思っているわ」
沈黙が落ちる。
その静けさを破ったのは、蓮之介の声だった。
「草からも、報告が来ている」
澪が顔を上げる。
「各地で、似た話が上がっている。
医師の名を通らぬ薬、
用途を語られぬ取引」
「……もう、始まってるのね」
「始まっている」
蓮之介は肯定した。
そして、少し間を置いてから言う。
「次に大阪へ行くのは、いつだ」
「来月」
澪は迷わず答えた。
「その足で、江戸にも行きたい」
蓮之介は、妹を見た。
「理由は」
「武家が多すぎる。
これは一つの町の話じゃない」
火鉢の炭が、音を立てた。
しばらくして、蓮之介は頷いた。
「いいだろう」
澪は、少しだけ息を緩めた。
「川口屋には、私から話を通す」
「ありがとう」
「無理はするな」
「……それは、お互い様よ」
二人は、それ以上言葉を交わさなかった。
夕餉は、最後まで静かだった。
だがその静けさの下で、
この国のどこかが、確実に崩れ始めていた。
▶『裏天正記』幕末編 第2話「薬の顔をしたもの」をカクヨムで読む。
📖第2幕・第2話「薬の顔をしたもの」考察
第2話は、
侵略が「港」から「身体」へと移行した瞬間を描く回である。
第1話で示されたのは、
世界情勢の変化と外圧の兆しだった。
しかし本話では、
その変化がすでに日本社会の内側へ入り込み、
人の生活と感情を直接蝕み始めていることが明らかになる。
重要なのは、
この時点で誰も「悪意」を持っていない点だ。
-
医師は、痛みを和らげるために処方する
-
商人は、求められた薬を渡す
-
奥方は、眠りと安らぎを求める
すべてが正当で、
すべてが理解できる。
それにもかかわらず、
結果として現れるのは
依存と崩壊である。
雪村澪が気づくのは、
戦争でも政治でもなく、
症状の一致だ。
同じ震え、
同じ渇望、
同じ禁断症状。
それは、清で起きた出来事と
同じ形をしている。
兄・蓮之介が語る
「草からの報告」は、
この現象が偶発ではなく、
全国規模で進行している構造的な侵食であることを示す。
ここで物語は、
「誰が悪いのか」という問いを拒む。
代わりに突きつけられるのは、
「なぜ止められないのか」
という、より残酷な問いだ。
澪が大阪だけでなく
江戸にも足を延ばす決意をするのは、
侵略の本質が
一点の事件ではなく、
連続した流れであると理解したからである。
第2話は、
剣も銃も登場しない。
だがこの回で、
戦争はすでに始まっている。
しかもそれは、
最も静かで、
最も気づかれにくい形で。
