品川の宿は、江戸の匂いがした。
まだ江戸ではない。
だが、江戸へ入る前に必ず踏む場所として、町の空気はすでに“都”に近い。
旅人の声、荷の音、下駄の足取り。
情報と酒と笑いが、ひとつの鍋で煮立っているようだった。
雪村澪と楓は、夕刻に宿へ入った。
荷を置き、身なりを整え、食事の支度が整う頃には、座敷はすっかり賑わっていた。
澪は、酒の匂いに混じる熱気を感じながら、ふと違和感を覚えた。
——中心がある。
この手の宿場は、自然と誰かが話の輪を作る。
だが今日のそれは、少し異質だった。
笑い声の渦の真ん中に、ひとりの男がいた。
町人の身なり。
旅装も、取り立てて上等ではない。
だが、妙に目立つ。
理由はひとつ。
瞳が青かった。
灯りを受けて、その青が一瞬、硝子のように光る。
男は大きな身振りで盃を掲げ、片言の日本語で叫んだ。
「ニホンの酒、うまい!
ひとも、みんな最高だ!」
周りの客たちが、どっと笑った。
「マヌさん、またそれだ!」
「いいねぇ、飲め飲め!」
「ほら、こいつも一杯いけ!」
男は嬉しそうに頷き、盃を空にする。
その様子は無邪気にも見える。
だが澪の目には、別のものが映っていた。
——人の輪の作り方を知っている。
言葉は拙いのに、場を支配している。
距離の取り方、間の置き方、視線の投げ方。
それは偶然の才能というより、習い慣れた技に近い。
澪は、楓に小さく目配せした。
楓は何も言わない。
ただ、座敷の端で、視線を滑らせるように周囲を見ている。
澪は席を立ち、宿の者にそっと尋ねた。
「あの方は……?」
宿の者は肩をすくめた。
「さあねえ。二、三日前にふらっと来た変な男だよ。
どこから来たのかは知らねえが、よく笑うし、酒も奢る。
悪い人じゃねえさ。みんな“マヌさん”って呼んでる」
澪は頷いた。
だが胸の奥で、違和感が消えない。
——二、三日前。
このタイミングで品川に現れる。
江戸へ入る直前の境界。
そして、青い瞳。
澪が座敷へ戻ろうとした、そのときだった。
背中に、視線が刺さった。
澪は立ち止まり、ゆっくり振り向く。
男——マヌさんが、こちらを見ていた。
笑ってはいない。
しかし冷たくもない。
ただ、まっすぐに澪の目を捉えている。
その瞬間、澪は気づいた。
視線が、言葉になっている。
——お前は、誰だ。
——なぜ、ここにいる。
声には出さない。
出せば、周りが気づく。
だから、目だけで問う。
澪は、思わず息を止めた。
これは、草が受け継いできた技だ。
会話をしない会話。
気配と間で交わす、無言の確認。
澪の横に、楓が静かに立った。
楓もまた、男の目を見ている。
言葉はない。
だが、澪には分かる。
楓も同じことを感じている。
——この男は、偶然ではない。
男の青い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
それは笑みの形ではない。
理解の形だ。
——気づいたか。
澪は胸の奥に冷たいものを感じた。
なぜ、青い目を持つ者が。
なぜ、草の“視線”を知っている。
敵か。
味方か。
それとも、どちらでもないのか。
男は次の瞬間、何事もなかったように盃を掲げた。
「サケ、もういっぱい!」
「おう、マヌさん、景気がいいねえ!」
座敷は再び笑いに包まれ、澪の違和感だけが取り残された。
澪は席に戻らず、そのまま廊下へ出た。
楓が一歩後ろに付く。
「……楓」
澪が小さく呼ぶと、楓は短く答えた。
「はい」
「今の、見えましたか」
「……見えました」
それだけだった。
澪は、夜気の冷たさを吸い込み、遠くに見える江戸の灯りを見た。
ここは境界だ。
江戸の外であり、江戸の入口。
この場所で現れた青い瞳は、
江戸に待つ何かの影なのだろう。
澪は決めた。
今は、問い詰めない。
江戸へ入る。
中心へ進む。
名を持たぬ戦は、
すでにこの国の中で、静かに形を変えている。
そして今夜、品川で出会った謎が、
その戦の輪郭を、さらに曖昧に、さらに深くしていた。
第2幕・第8話「品川の青い瞳」考察
第8話は、第2幕における
「異変が“国内問題”から“世界的構造”へと転じる転換点」である。
これまで澪が追ってきたものは、
-
アヘンという具体的な“症状”
-
日本各地に共通する“異常”
-
過去の草が戦った「目に見えない侵略」との類似
いずれも、日本の内側で完結する問題として捉えられていた。
しかし品川宿で現れた「青い瞳の男」は、
その前提を静かに崩す。
重要なのは、この男が
-
敵意を見せない
-
情報を語らない
-
正体を明かさない
にもかかわらず、
澪と楓に“同じ技”で接触してくる点である。
視線による会話――
それは伊賀や草の世界で受け継がれてきた、
「言葉にしない確認」の技だ。
ここで澪が感じる違和感は、恐怖ではない。
なぜ、この男がそれを知っているのか。
という、系譜の断絶に対する疑問である。
第8話は、答えを一切与えない。
むしろ、意図的に“保留”を積み重ねる回だ。
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名を名乗らない
-
出自を語らない
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敵か味方かも定義しない
これは、作者側の引き延ばしではなく、
この物語の戦いが「即断を許さない戦争」であることを示す演出である。
また、舞台が「品川」であることも重要だ。
品川は、
-
江戸の外
-
だが、江戸の一部でもある
という 境界の町 である。
つまり第8話は、
-
江戸に入る前
-
世界が交差する前
-
決断を下す前
の“前夜”を描いている。
青い瞳の男は、
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ヨーロッパから来た可能性を示しつつ
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町人として溶け込み
-
民衆の中で笑っている
この姿は、第2幕全体のテーマを象徴する。
侵略は、剣を持って現れない。
ときに、笑顔で酒を飲んでいる。
澪がこの場で選ぶ行動も重要だ。
彼女は問い詰めない。
捕らえない。
名を聞かない。
それは恐れではなく、理解だ。
「今は、聞く時ではない」
この判断によって、澪は
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医師でも
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忍びでも
-
被害者でもなく
“観察者として戦に入った”存在になる。
第8話は、
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直接的な事件は起きない
-
戦闘も告発もない
しかし、
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世界が広がり
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敵味方の境界が曖昧になり
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読者が「単純な勧善懲悪ではない」と理解する
極めて重要な“静の回”である。
この回があるからこそ、
江戸編での再会や、マヌエルの立場の開示が
偶然ではなく必然として機能する。
