裏天正記 幕末編|第2幕第8話 「品川の青い瞳──江戸前夜に現れた謎の男」 | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
信じるか信じないかは、あなた次第です!

品川の宿は、江戸の匂いがした。

 まだ江戸ではない。
 だが、江戸へ入る前に必ず踏む場所として、町の空気はすでに“都”に近い。
 旅人の声、荷の音、下駄の足取り。
 情報と酒と笑いが、ひとつの鍋で煮立っているようだった。

 雪村澪と楓は、夕刻に宿へ入った。
 荷を置き、身なりを整え、食事の支度が整う頃には、座敷はすっかり賑わっていた。

 澪は、酒の匂いに混じる熱気を感じながら、ふと違和感を覚えた。

 ——中心がある。

 この手の宿場は、自然と誰かが話の輪を作る。
 だが今日のそれは、少し異質だった。

 笑い声の渦の真ん中に、ひとりの男がいた。

 町人の身なり。
 旅装も、取り立てて上等ではない。
 だが、妙に目立つ。

 理由はひとつ。
 瞳が青かった。

 灯りを受けて、その青が一瞬、硝子のように光る。

 男は大きな身振りで盃を掲げ、片言の日本語で叫んだ。

「ニホンの酒、うまい!
 ひとも、みんな最高だ!」

 周りの客たちが、どっと笑った。

「マヌさん、またそれだ!」
「いいねぇ、飲め飲め!」
「ほら、こいつも一杯いけ!」

 男は嬉しそうに頷き、盃を空にする。
 その様子は無邪気にも見える。
 だが澪の目には、別のものが映っていた。

 ——人の輪の作り方を知っている。

 言葉は拙いのに、場を支配している。
 距離の取り方、間の置き方、視線の投げ方。
 それは偶然の才能というより、習い慣れた技に近い。

 澪は、楓に小さく目配せした。
 楓は何も言わない。
 ただ、座敷の端で、視線を滑らせるように周囲を見ている。

 澪は席を立ち、宿の者にそっと尋ねた。

「あの方は……?」

 宿の者は肩をすくめた。

「さあねえ。二、三日前にふらっと来た変な男だよ。
 どこから来たのかは知らねえが、よく笑うし、酒も奢る。
 悪い人じゃねえさ。みんな“マヌさん”って呼んでる」

 澪は頷いた。
 だが胸の奥で、違和感が消えない。

 ——二、三日前。

 このタイミングで品川に現れる。
 江戸へ入る直前の境界。
 そして、青い瞳。

 澪が座敷へ戻ろうとした、そのときだった。

 背中に、視線が刺さった。

 澪は立ち止まり、ゆっくり振り向く。

 男——マヌさんが、こちらを見ていた。

 笑ってはいない。
 しかし冷たくもない。
 ただ、まっすぐに澪の目を捉えている。

 その瞬間、澪は気づいた。

 視線が、言葉になっている。

 ——お前は、誰だ。
 ——なぜ、ここにいる。

 声には出さない。
 出せば、周りが気づく。
 だから、目だけで問う。

 澪は、思わず息を止めた。

 これは、草が受け継いできた技だ。
 会話をしない会話。
 気配と間で交わす、無言の確認。

 澪の横に、楓が静かに立った。

 楓もまた、男の目を見ている。
 言葉はない。
 だが、澪には分かる。

 楓も同じことを感じている。

 ——この男は、偶然ではない。

 男の青い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
 それは笑みの形ではない。
 理解の形だ。

 ——気づいたか。

 澪は胸の奥に冷たいものを感じた。

 なぜ、青い目を持つ者が。
 なぜ、草の“視線”を知っている。

 敵か。
 味方か。
 それとも、どちらでもないのか。

 男は次の瞬間、何事もなかったように盃を掲げた。

「サケ、もういっぱい!」

「おう、マヌさん、景気がいいねえ!」

 座敷は再び笑いに包まれ、澪の違和感だけが取り残された。

 澪は席に戻らず、そのまま廊下へ出た。
 楓が一歩後ろに付く。

「……楓」

 澪が小さく呼ぶと、楓は短く答えた。

「はい」

「今の、見えましたか」

「……見えました」

 それだけだった。

 澪は、夜気の冷たさを吸い込み、遠くに見える江戸の灯りを見た。
 ここは境界だ。
 江戸の外であり、江戸の入口。

 この場所で現れた青い瞳は、
 江戸に待つ何かの影なのだろう。

 澪は決めた。

 今は、問い詰めない。
 江戸へ入る。
 中心へ進む。

 名を持たぬ戦は、
 すでにこの国の中で、静かに形を変えている。

 そして今夜、品川で出会った謎が、
 その戦の輪郭を、さらに曖昧に、さらに深くしていた。


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第2幕・第8話「品川の青い瞳」考察

第8話は、第2幕における
「異変が“国内問題”から“世界的構造”へと転じる転換点」である。

これまで澪が追ってきたものは、

  • アヘンという具体的な“症状”

  • 日本各地に共通する“異常”

  • 過去の草が戦った「目に見えない侵略」との類似

いずれも、日本の内側で完結する問題として捉えられていた。

しかし品川宿で現れた「青い瞳の男」は、
その前提を静かに崩す。

重要なのは、この男が

  • 敵意を見せない

  • 情報を語らない

  • 正体を明かさない

にもかかわらず、
澪と楓に“同じ技”で接触してくる点である。

視線による会話――
それは伊賀や草の世界で受け継がれてきた、
「言葉にしない確認」の技だ。

ここで澪が感じる違和感は、恐怖ではない。

なぜ、この男がそれを知っているのか。

という、系譜の断絶に対する疑問である。

第8話は、答えを一切与えない。
むしろ、意図的に“保留”を積み重ねる回だ。

  • 名を名乗らない

  • 出自を語らない

  • 敵か味方かも定義しない

これは、作者側の引き延ばしではなく、
この物語の戦いが「即断を許さない戦争」であることを示す演出である。

また、舞台が「品川」であることも重要だ。

品川は、

  • 江戸の外

  • だが、江戸の一部でもある

という 境界の町 である。

つまり第8話は、

  • 江戸に入る前

  • 世界が交差する前

  • 決断を下す前

の“前夜”を描いている。

青い瞳の男は、

  • ヨーロッパから来た可能性を示しつつ

  • 町人として溶け込み

  • 民衆の中で笑っている

この姿は、第2幕全体のテーマを象徴する。

侵略は、剣を持って現れない。
ときに、笑顔で酒を飲んでいる。

澪がこの場で選ぶ行動も重要だ。

彼女は問い詰めない。
捕らえない。
名を聞かない。

それは恐れではなく、理解だ。

「今は、聞く時ではない」

この判断によって、澪は

  • 医師でも

  • 忍びでも

  • 被害者でもなく

“観察者として戦に入った”存在になる。

第8話は、

  • 直接的な事件は起きない

  • 戦闘も告発もない

しかし、

  • 世界が広がり

  • 敵味方の境界が曖昧になり

  • 読者が「単純な勧善懲悪ではない」と理解する

極めて重要な“静の回”である。

この回があるからこそ、
江戸編での再会や、マヌエルの立場の開示が
偶然ではなく必然として機能する。