烈馬の体はまだ完全には癒えていなかったが、影の戦は着実に広がっていた。
武器庫を焼き、倉庫を破り、補給を絶つ。現地に育てられた草たちが夜ごと活動し、港の支配者たちは苛立ちを募らせている。
「見ろ、烈馬。お前が蒔いた根は、もう芽を出している」
ミゲルの声に烈馬は頷いた。
「だが、ここに留まることはできぬ。敵の本丸は欧羅巴にある。バチカン、そしてその背後に蠢く貴族たち……そこを知らねば、百年の戦は勝てぬ」
烈馬は現地の仲間たちを前に立ち上がった。
「ここからは、お前たちが影を継ぐ番だ。だが忘れるな――やりすぎるな。背後にいる者たちを今怒らせれば、根は刈られる。草は時を待ち、じわじわと蝕むのだ」
黒人の男は胸を叩き、インドの水夫は深く頭を下げ、混血の少年は烈馬の言葉を記憶に刻むように拳を握った。
彼らの瞳には、すでに“草”の炎が宿っていた。
やがて約束の一年が過ぎた。烈馬はミゲルと共にマリアのもとへ戻る。
そこで彼を待っていたのは、思いがけぬ事実だった。
「烈馬……あなたには、息子がいる」
マリアの腕に抱かれた幼子の瞳は、烈馬と同じ光を宿していた。
烈馬は言葉を失い、ただその小さな掌を握りしめた。
「俺に……守るべき未来が生まれたのか」
マリアとミゲルはポルトガルに戻らねばならない運命にあった。
烈馬は迷った末に、己の道を選ぶ。
「ならば、俺はこの子と共に別の道を行く。影の戦を絶やさず、欧羅巴へたどり着く」
ミゲルは烈馬の肩を掴み、目を逸らさずに言った。
「俺は本国に戻り、敵の懐に潜る。影で操る者たちの中に入り込み、内から裂いてやる」
「ミゲル、無理はするなよ」
「わかってるよ」
二人の道は分かれた。だが目指す先は同じ、欧羅巴。
その別れ際、マリアは涙を浮かべながら烈馬にペンダントを握らせた。
「烈馬……どうかお願い。この子を、生かして。あの人たちに奪われぬ未来へ導いて。……私には、あなたしか託せないの」
烈馬は幼子を抱きながら、去り行く馬車を見送った。
小さな命の温もりが、刃よりも重く胸に刻まれていく。
「草は根を残した。今度は――影を運ぶ番だ」
潮風が吹き抜ける。
その風の先に、バチカンの尖塔と、欧羅巴の巨大な影が待ち受けていた。
▶『裏天正記』ゴア編 第10話「根を残し、西を望む」をカクヨムで読む
考察:父となる忍びと“草”の拡大
第十話は、烈馬の物語に新たな重みを加える章です。ここまでのゴア編は「若さゆえの衝動」「敗北からの学び」「草の思想の理解と定着」という流れでしたが、この章で烈馬は「父」としての責任を負う存在となりました。彼の戦いはもはや自分自身や日の本だけのためではなく、「息子」という未来の具体的な存在のためのものとなったのです。
マリアの感情的な言葉――「この子を、生かして。奪われぬ未来へ導いて」――は、烈馬にとって最大の転機でした。忍びとして冷徹に時を裂く存在でありながら、父として一つの命を守る役目を負う。この矛盾が烈馬の人間性を深め、今後の物語で彼がどのように決断を下すかに強い緊張感を与えます。
一方で、この章は「草の拡大」という大きなテーマも抱いています。烈馬が育てた現地の仲間たちが独立し、それぞれの地で根を張っていく描写は、草が単なる日本の忍びの戦略を越え、思想として広がり始めたことを示しています。黒人、インド人、混血の子供たちが草の教えを受け継ぐ姿は、やがて「秘密結社」へと成長していく未来を予感させます。
また、ミゲルが「本国に潜入する」という決断を下したのも重要です。烈馬とミゲルは異なる道を選びましたが、目指す先は同じ「欧羅巴」。この二人の動きが並行して描かれることで、読者は「草の戦い」が世界規模へ拡張していく予兆を強く感じることになります。
この第十話の意義は二つに整理できます。
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烈馬個人の物語の深化 ― 忍びであると同時に父となり、守るべき存在を得た。
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草の思想の拡張 ― 日本人以外の“草”が根を張り、戦いが世界へと広がる布石となった。
ここでゴア編は一区切りを迎え、次の舞台はついに「欧羅巴」へと移ります。烈馬が父として、忍びとして、どのように草を運び、敵の本丸に挑むのか――物語は新たな段階に入っていくのです。
