夜の名残がまだ空に滲む頃、烈馬は目を覚ました。
ここはマカオの外れ、小高い丘にある打ち捨てられた宣教師の屋敷。
赤く焼けた土の地面と、葡萄のような蔦が絡む壁。
異国と祖国が交わる、奇妙な匂いのする土地だった。
枕元には、小さな寝息。
幼い命――マリアの子。己の血を継ぐ者。
烈馬は、腕に感じる体温を確かめながら、天井を見つめる。
ひとときの静寂。
だが風が吹き、扉の隙間から何かが滑り込んだ。
羊皮紙。小さく折りたたまれた手紙。
封蝋には、見覚えのある緋色の紋章。
烈馬は黙ってそれを開いた。
「烈馬へ
私は、戻ります。
生まれた家、待っている義務、そして決められた結婚へ。
あなたと出会い、この地で過ごした時間は、嘘ではありません。
でも、その真実だけでは、世界は変わらない。あなたは戦い続ける人。
私は、逃れられないものに従う人。子の名は『エリオ』と名付けました。
陽の昇る方角を、あなたが背負っているから。私は、今はこの子を抱けません。
でも、いつか――この子とは、必ず巡り合えると信じています。
だから、それまで……二人とも、生きていて。あなたとエリオに、神の加護と影の庇護があることを
マリア」
手紙を握る指に、力が入る。
その横で、エリオが小さくくしゃみをした。
烈馬は、炎を灯し、手紙を火にくべた。
黒く巻き上がる煙が、夜明け前の空に溶けていく。
「約束じゃない。だが……祈りは届く」
その言葉を呟くように、彼は背を伸ばした。
草は動かぬ。
だが、土を選び、陽を待ち、根を張る。
烈馬はエリオを背負い、ゆっくりと扉を開けた。
朝靄の中、東の空がかすかに明るむ。
「俺たちは“草”だ。刃を捨て、時を裂け」
そう言い聞かせ、彼は西へ――ではなく、まず北へ向かった。
マカオから陸を伝い、大陸を巡る“影の旅”が、今始まる。
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【物語考察】「草の便(つたえ)」──沈黙の約束、影の胎動
🔹物語の転換点:影は“旅”ではなく“根”から始まる
この第一話では、烈馬の物語が「戦場」から「生活」へとシフトする様が静かに描かれています。
刃を手放し、幼子を抱いた忍――この姿は、“草”という存在の本質を改めて浮かび上がらせます。
草とは、根を張り、時を待ち、風と共に思想を運ぶ者。
烈馬は、マリアの遺した子と共に土に足をつけ、「巡礼」と称して世界に思想の種を蒔く覚悟を固めたのです。
この“巡礼”という語が象徴するのは、宗教的信仰に仮託された影の活動です。
異国の思想に対抗するには、信仰と文化の皮をかぶった“影”を同じように世界へと広げなければならない。
それは忍びの戦いであると同時に、“思想戦”としての草の新たな形でもあります。
🔹マリアの手紙:約束ではなく祈りとしての別れ
手紙の中でマリアは、烈馬とエリオに「再会の約束」を交わしていません。
代わりに書かれていたのは、「いつか巡り合えると信じている」という、祈りに近い言葉。
この“あいまいさ”こそが現実の重みを感じさせます。
国家、宗教、階級――マリアが背負う現実は、真実の愛や母性すら封じてしまう。
だからこそ、彼女の言葉は美辞麗句ではなく、烈馬に託された「生の継続」そのものだったのです。
そしてその言葉に烈馬が応じるのもまた、“約束”ではなく“行動”。
過去を燃やし、子を抱き、旅を選ぶことでしか“草”は応えられない。
それが、忍びの宿命であり、父としての矜持でもあります。
🔹「影の巡礼編」という章題の重み
この章タイトルは、烈馬の物語が新たな段階に入ったことを象徴しています。
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草は刀を振るう者から、文化と思想を運ぶ者へ
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旅は戦場への直行ではなく、“観察・潜伏・布石”の巡礼へ
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世界を斬るのではなく、世界の“亀裂”に根を這わせる戦いへ
烈馬はまだ欧羅巴には向かいません。
その選択が、この物語の深みであり、“静かな侵略”と対抗する“静かな戦い”の幕開けなのです。
✨次章への布石
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「草はまず、土に生きよ」――この思想が烈馬の行動理念に刻まれた。
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エリオの存在が“未来への投資”であると同時に、“人質”にもなり得る現実。
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マリアの帰国、ミゲルの計画、草ネットワークの潜在的拡大――烈馬はそのすべてを見据えながら動き始める。
この第一話は、静かでありながら、極めて戦略的な始まり。
草の影が世界を巡る、その旅の第一歩としてふさわしい一篇となっています。
