夕暮れのマカオ市場は、香辛料と潮の匂いが混ざり合い、人々の声が熱気とともに行き交っていた。
烈馬は市の外れ、乾物屋の屋根から群衆を見下ろしていた。草としての任務――それは物資の流れ、異国人の動向、そして宣教師の暗躍を探ること。その目は鋭く、冷静であるはずだった。
だが、その視線がひとつの騒ぎに引き寄せられる。
「放して!私がそんな安い女に見えるの?」
数人の男たちが、一人の女を囲んでいた。外套の裾を引っ張り、からかい混じりに絡んでいる。女は背筋を伸ばし、毅然と抗っていた。
烈馬は静かに地を蹴った。屋根から滑り降り、瞬きのうちにその輪の中へ割って入る。
「やめておけ、異人に手を出したら後が面倒だぞ」
男たちは烈馬の眼差しに射すくめられ、舌打ちを残して去った。
女はふっと肩の力を抜いた。
「助けてくれて、ありがとう。……あなた、あの人たちとは違うのね」
「見た目だけで、よく分かったな」
「目を逸らさずに助けてくれた人は、この市場では初めてだったから」
女の名はマリアといった。異国の装いに身を包みながらも、その目はどこか疲れていた。
「私は“ミゲル”という名の弟を探しているの。数年前、交易船に乗ってこの地に来たという話を聞いて……」
烈馬の胸がわずかに動いた。
「……ミゲル、か。ルイスという名の男を知っている。偽名だったかもしれんが、妙にお前と似ている気がする」
マリアの顔に、灯がともる。
「お願い……あなた、その人の居場所を知らない?」
烈馬は小さく首を振った。
「今は分からぬ。だが、探る術はある」
沈む太陽の中、市場にともる灯が、ふたりの影を長く引き延ばしていた。
▶ 『裏天正記』マカオ編 第9話 邂逅の灯(マカオ市場)をカクヨムで読む
🔍考察:偶然の出会いが導く、ふたつの運命
本章「邂逅の灯」は、物語の中でも特に重要な“出会いの瞬間”を描く転機です。烈馬とマリアという、まったく異なる背景を持つふたりの登場人物が、このマカオという交錯の地で交わることで、物語は「草の任務」から「命と想いの継承」へと次なる段階に踏み出します。
この章で注目すべきは、烈馬が「異国の女を助ける」という行動をとったことです。これまでの彼なら、余計な情を交えることなく無視していた可能性もある。しかし烈馬は動いた。これは彼が異国での生活のなかで“信仰”や“他者の苦しみ”というものに触れ、心の中に静かに芽生えていた「感情の兆し」を示唆する場面です。
また、マリアのセリフ――「目を逸らさずに助けてくれた人は、この市場では初めてだったから」――は、彼女の心に何よりも“信頼できる誰か”を求めていたことを暗に物語ります。ここでの烈馬は、ただの用心棒や情報屋ではなく、マリアにとっての“光”であり“希望”の灯火となる存在なのです。
さらに「ミゲル」という名前がここで烈馬の記憶を刺激することにより、物語はふたつの軸――任務と私情、過去と現在、家族と組織――が徐々に交差していく前触れとなります。
🌱この章が物語全体にもたらす意味
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異国の混沌の中に「小さな絆」が芽生えることで、烈馬は“任務の機械”から“人”へと変化していく第一歩を踏み出す。
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マリアの目的――弟を捜すという行為――は、烈馬の「草としての論理」だけでは説明できない“人間的な情”の重みを見せつける。
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この邂逅がなければ、烈馬の未来、そして草の進化は訪れなかったとも言える。まさにこの一章が、草に“血と感情の物語”を注ぎ込む起点となる。
