灯の消えた屋敷の奥、夜の帳に包まれた草の集会所。烈馬は香を焚きながら、じっと目を閉じていた。静寂のなか、思考がまるで煙のように漂う。
「信仰に救われる者がいる。それが敵の教えであっても……否定できるか?」
そう呟くと、対面に座る霞がわずかに目を細めた。
「……お前がそんなことを言う日が来るとはな」
「俺も驚いている。あの子どもたちの瞳を見た。人を守る教えなのかもしれぬと、思ってしまった」
烈馬の声には迷いが滲んでいた。霞は静かに、茶を一口含んでから語り出す。
「昔、按針さまと話したことがある。信仰について尋ねたとき、彼はこう言った――」
霞は一拍置き、ゆっくりと思い出すように言葉を紡いだ。
「『信仰とは国を動かす剣であり、民を守る盾でもある。だが剣も盾も、振るう者の心根ひとつで毒にもなる』と」
烈馬は目を見開いた。まるで、ルイスの言葉と同じではないか。
「ならば、信仰そのものではなく……それを操る者こそが見極めるべき敵か」
「そうだな。教えを糾すのではなく、誰の手にあるかを見よ――按針さまはそう続けていた」
炎がゆらめき、影が揺れる。
烈馬の内で、ひとつの答えが生まれかけていた。
▶ 『裏天正記』マカオ編 第8話 第二幕:仲間との対話、過去の声(霞と按針)をカクヨムで読む
🔍考察:誰が“教え”を振るうのか?
この第二幕では、「教えは敵なのか」という烈馬の問いが、“人の在り方”に結びついていく過程が描かれます。信仰そのものを否定するのではなく、それを「剣や盾として振るう者」をこそ見極める必要がある――この考えは、按針から霞、そして烈馬へと受け継がれます。
ここに描かれるのは、固定的な“敵”の像ではなく、より流動的で危うい人間の在り方です。信仰を盾に弱きを守る者もいれば、剣にして人を支配する者もいる。つまり、信仰とは道具であり、その道具をどう使うかが重要だという思想が強調されます。
この思想は、烈馬の後に続く「草の次世代」にも深く影響を及ぼしていくことになるでしょう。烈馬の子が異文化の中で育つことを選ばれる未来の布石として、この幕は非常に重要です。
🌱今後への布石
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按針の思想が、草の「思想工作」や「思想防衛」の核として受け継がれる
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烈馬が“信仰を持つ敵”ではなく、“信仰を操る人間”を見極める視点を得たことで、草の行動原理に新しい風が吹き込まれる
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信仰を「文化侵食」と見るだけではなく、「内から変える可能性」として捉える余地が生まれる
