「静かに、そして深く潜れ。
墨の滲みは、時に刃よりも深く心を裂く」
かつて半蔵からそう教わった言葉が、今、梅之助の胸中で蘇っていた。
書写所の帳の向こう、霞が軽く顎をしゃくった。
その合図で、梅之助は筆と布を携え、静かに歩を進めた。
名前は「リカルド」。偽名。
役職は「補助筆耕生」。これも偽り。
だが、文字を綴る手の確かさだけは、紛れもない本物だった。
修道士の一人が紙束を差し出す。
「この“赦し”の語、現地語訳に違和感がある。
お前、異国の文も読めると聞いた。見てくれ」
梅之助は一礼し、紙面を覗き込んだ。
目に飛び込んできたのは、《perdão(赦し)》という単語と、
その下に翻訳された文字。
《服従》。
梅之助は眉を微かに動かし、筆を走らせた。
《赦しは罪の解放。命令の服従とは異なる》
その字を見た修道士は一瞬黙ったが、やがてこう呟いた。
「言葉は、神に通じる道であると同時に……迷路でもあるな」
その通りだ、と思った梅之助は、無言で微笑んだ。
その夜。梅之助は書写台の下に、紙片を一枚滑り込ませた。
そこには、小さな誤字。
ラテン語の句の中に、わずかな文字の違いで、
“愛”が“恐れ”へと転じる仕掛けが仕込まれていた。
ほんの僅かな改鼠。
だが、その一文が巡り巡って別の宣教師の説教に混じれば、
教義そのものを内側から蝕む毒となる。
梅之助は筆を置き、灯りを吹き消した。
「言葉を操る者が、信仰を操る。
信仰を操る者が、民を操る。
その文字に、影を刻めば……やがて敵は、己の言葉に溺れる」
月明かりが紙片に落ち、僅かな影を描いた。
▶ 『裏天正記』マカオ編 第6話(梅之助編)「誤字の種」をカクヨムで読む
📝考察:「筆の刃」――葛城 梅之助という思想戦の忍
梅之助の力は、物理的な力ではなく“誤情報”という武器にあります。
イエズス会の教義と翻訳に潜り込み、彼は「一文字の誤り」という形で思想の土台を蝕みはじめます。
この話では、「赦し=服従」といった翻訳操作の危うさを暴くと同時に、
草としての活動が単なる破壊ではなく、「敵の内部からの変質」を狙っている点が強調されています。
霞と梅之助――二人の草が組むことで、“思想の戦場”に踏み込む体制が整いました。
