波の音が喧しかった。
甲板を打つ潮と罵声。喧嘩と酒。
ここはマカオ沖、名も知らぬ小さな海賊団――だが、船の上では全てが剥き出しになる。
鬼頭 弥三郎は、黙って縄を巻いていた。
腰に刃はない。だが目は血を吸うように鋭い。
「おい、そこの新入り。水を持って来い、今すぐだ!」
濁声で怒鳴る船乗りの腕に、刺青が走っていた。
弥三郎は一歩前に出て、桶を差し出した。
だが、手を引く際に、わざと少しだけ水をこぼす。
「おいコラ、なにしてやがる!」
怒鳴り声と同時に拳が飛ぶ――
弥三郎は避けず、受けた。顎に直撃したが、微動だにしない。
血がにじむ口元に、にやりと笑みが走る。
「……気が済んだか?」
低い声が、静かに船全体に響いた。
その瞬間、周囲の男たちが言葉を失う。
「何だ、こいつ……?」
「……喧嘩を売ってるのか?」
弥三郎は口の端を拭いながら、桶をその男の足元に置いた。
「お前の水だ。飲め。飲まねば、二度と喉は潤わん」
その目に、剣はなかったが、殺気はあった。
嵐の前触れのような静けさが、甲板を包む。
「赤鬼……だ。あいつ、赤鬼みたいな目をしてやがる」
誰かがつぶやいたそのあだ名が、翌日には船全体に広がっていた。
三日後、船の頭領が“夜中に転落”して死んだ。
口に出す者は誰もいなかったが、皆が弥三郎の背を見ていた。
無言で綱を引き、酒も飲まず、ただ波と共にある男――
そして、彼の船は静かに変わっていった。
襲うのは宣教師船。積み荷に「神の書」があれば、必ず沈めた。
奴隷を積んだ船からは、人間を解き放ち、金を焼いた。
その海賊団はいつしか、“思想を狙う鬼の一団”と噂されるようになった。
そして、その中心には、“赤鬼の弥”がいた。
▶ 『裏天正記』マニラ編・第4話(弥三郎編)「赤鬼の弥」をカクヨムで読む
📝考察:「沈黙の支配者」――鬼頭 弥三郎の海上任務
弥三郎は“草”でありながら、草とは逆の存在――剣と恐怖を武器とする者です。
だがその行動は、破壊のためではなく、”未来のための“思想選別”に根ざしています。
敵は異国そのものではなく、思想と信仰を武器に民を縛る者たち。
それを見極め、襲い、消す――それが彼に与えられた任務です。
“赤鬼”とは恐れられる名であると同時に、烈馬たち“静の草”とは対をなす“動の草”としての象徴でもあります。
この先、弥三郎がどのように情報を操り、烈馬たちの影として動くのか。
彼の船が、“日本防衛”のための“影の海路”になる日も、遠くないのかもしれません。
