修道院の療養所の裏口は、午後の陽に干からびた魚のようにくすんでいた。
雪村 蓮――今は“ミナ”と名乗っている――は、古い木の扉をそっと叩いた。
喉には白い包帯を巻いている。傷を負ったふりだ。
ときおり漏れる微かな声は、言葉にならない音――それも演技の一部だった。
「……誰だ?」
扉の隙間から、薄汚れたエプロン姿の中年の女が顔を出す。
蓮は無言で、小さな包みに入った薬草を差し出した。
女の目がそれを見て細くなった。
「薬草か。あんた、どこでそれを……いや、いい。入れ。今は手が足りん」
中に通されると、空気が変わった。
血と膿、病と死の臭い。
小さな寝台に横たわる者たちが、荒い呼吸を繰り返していた。
中には、目に生気のない子どももいる。
「名は?」
女が問うと、蓮は懐から筆と小さな木板を取り出し、すらすらと書いた。
《ミナ》
「声は……出せないのか?」
蓮は頷き、喉元の包帯に手を添える。
女はしばらく黙り、やがて吐き捨てるように言った。
「修道士たちは病の者に祈りを授けるばかり。水も薬も足りねえ。
……あんたが役に立つって証明しな。でなきゃ、明日には追い出されるよ」
蓮は再び頷き、病人の元に歩み寄った。
熱にうなされる中年男の額に手を当てる。
激しい熱。呼吸が浅く、口元が乾いている。
彼女は荷から取り出した乾燥させた根を細かく刻み、湯に溶かした。
男がむせそうになると、蓮は背を支え、ゆっくりと薬湯を含ませた。
その所作に、傍らの女は目を細めた。
「……手慣れてるじゃないか」
蓮は答えず、次の患者へと動いた。
手はすばやく、表情は変わらず、言葉は一切発しない。
代わりに、彼女の動きが語っていた。
夕方になり、女が一枚の濡れた布を差し出した。
「これ、あんたの首に。傷が開かぬように……ああ、そうか。治らないんだっけ」
蓮は小さく会釈し、筆で書いた。
《治らなくても、動けます》
女はそれを読み、ふっと鼻を鳴らした。
「ま、言葉より手が早い奴は嫌いじゃないさ。
しばらくはいていいよ、“ミナ”。」
蓮は静かに頷いた。
その夜、彼女は修道院の隅にある藁の上に身を横たえた。
声なき者として潜り込み、手の中で命を測りながら、
“敵の腹”に静かに根を張る――草の生き方そのものだった。
▶ 『裏天正記』マニラ編・第3話(蓮編)「青き布、赤き手」をカクヨムで読む
📝考察:「声なき者の声」──蓮という忍の沈黙
蓮の潜伏先である修道院の療養所は、物語上重要な“思想の現場”です。
祈りで癒そうとする修道士たちと、実際の医療を行う蓮との対比は、思想と現実の乖離を象徴しています。
また、「喋らぬ」ことを選んだ蓮の潜入は、草としての覚悟と技術の両方を感じさせます。
声を封じられた者が、言葉ではなく“行い”で信頼を築いていく。
それはまさに、武ではなく知で戦う忍の在り方そのものです。
今後、蓮がこの修道院で何を見るのか、
患者の中に“ある秘密”を見つけるのか――その伏線としてもこのエピソードは機能します。
