マカオの市場には、濃密な香りが満ちていた。
干し魚と肉、唐辛子と香辛料、ざわめく商人の声。
言葉はわからずとも、売る気と奪う気は肌で感じられる。
烈馬は布頭巾を目深にかぶり、野菜の山に手を伸ばすふりをしながら目を細めた。
小柄な男が、パンを一つ懐に入れて素早く身を翻す――。
「……早いな」
声に出さずつぶやいた瞬間、烈馬はその男の足の動きを読み、右足をわずかに滑らせた。
「うおっ!」
男は烈馬の足につまずき、転倒。
懐から転がり落ちたパンが地面を転がった。
「おいおい兄さん、やりすぎだぜ……」
転がったまま男が苦笑した。
金髪に近い褐色の髪、肌は浅黒く、目は細くも鋭い。
服装は古びているが、腰の動き、手の動きが洗練されている。
「俺を捕まえても、正義の味方にはなれねぇぞ?」
烈馬は黙って、パンを拾い上げ、黙って差し出した。
「……?」
男が怪訝そうに受け取ると、烈馬は一言だけ言った。
「腹は減る」
その一言で、男は目を細め、どこか皮肉げに笑った。
「おかしな奴だ。追っ手でもなく、施しでもなく、……ただ、わかってる顔だな」
烈馬は問い返さない。むしろその“間”が、男を話に導いた。
「ルイスだ。名前くらい、ただでくれてやるよ。……あんた、港から来たな?」
烈馬はわずかに頷いた。
「イエズス会の教会からパンが出てる。でもな、祈りを口にすればもらえる、ってだけだ。
口を開けば腹は膨れるのか? 神は腹を満たしてくれるのか?」
烈馬は、無言で地面の石を見つめていた。
「お前、イエズス会を嫌っているのか?」
ルイスは肩をすくめた。
「嫌ってる……ってのとは違うな。
昔は信じてた。司祭の言葉も、神の救いも。
でもよ、奴隷を船に詰めて売る修道士の目に、“神の愛”は映ってんのか?ってな」
烈馬の指がわずかに動いた。
心が、動いたわけではない。ただ、記録すべき言葉として刻んだ。
「……もし、その神の目が嘘だとしたら?」
ルイスは一瞬だけ言葉を止めた。
そして、ふっと息を吐き、パンをちぎった。
「そしたら……俺も一緒に嘘で生きてるってことだろ。
だけどな、嘘に気づいてる分、俺の方がまだマシかもな」
彼はちぎったパンの片方を烈馬に差し出した。
「分けて食おう。名も知らねえ“分かってる奴”と、同じ空腹のなかでな」
烈馬は一瞬だけ目を閉じ、静かにそれを受け取った。
誰が敵か、誰が味方か。
それすら定まらぬ土地で、“掴まぬ手”を差し出された――。
📝考察:「偽りの信仰と、黙する共感」──ルイスの問い
烈馬が市場で出会ったルイスという男。
彼は盗人でありながら、実は“信仰への疑念”という鋭い視線を持つ人物です。
イエズス会という巨大な権威が掲げる「愛と救済」は、実際には「奴隷と支配」の道具でもある。
その矛盾を、現地に生きる者たちは“感覚”として知っている――それが烈馬の目に映った現実でした。
烈馬は忍びであり、草でありながら、敵を斬る者ではない。
言葉にならぬ声、掴まれぬ思いを、じっと聞き、記す者です。
