白壁の回廊に、石の靴音が響いていた。
霞――“メアリー・カスミ・アダムス”は、縮こまった背をさらに丸め、視線を落とす。
「こちらが、書写所です。あとは神の導きに」
付き添いの修道女の言葉に、小さく頷き、扉が閉じられた。
霞は一度だけ深く呼吸をし、部屋を見渡した。
インクの匂い。羊皮紙のざらつき。祈りと教義が、文字という形にされる場所――
それは言葉を武器とする“思想の工房”だった。
「……そこの娘。ポルトガル語は?」
髭を蓄えた修道士が問う。
霞はわずかに顔を上げ、控えめに答えた。
「Y-Yes… a little…」
発音は曖昧に、声は弱々しく。
数人の修道士がくすりと笑った。霞は目を伏せ、頬を赤らめて見せる。
だが、その奥の瞳だけが鋭く紙面を捉えていた。
書写台に置かれた草稿を拾うふりをして、彼女は一枚を素早く目で追った。
《Deus é amor(神は愛)》
その下に、《os escravos devem obedecer sem questionar(奴隷は問わず従うべし)》――
霞の表情が微かに揺れる。
“愛”の名を借りた“服従”の教え。
これが、人の心に根を張る“毒”か。
「“spirit”という言葉は、ラテンでは“息”や“魂”をも意味するが、
東の言葉ではどう訳すべきか……我々にも定かでない」
隣の修道士がぼやいたその台詞に、霞の動きが止まる。
“翻訳”という作業の中に潜む、思想のほころび。
そこに、忍びとして切り込む隙がある。
その夜、霞は人通りの少ない裏路地を歩いていた。
石畳の先に一つの影が立つ。
「……葛城 梅之助殿」
影が振り返る。
「書写所に、“草”が必要です」
その声は低く、小さく、だが揺るがなかった。
▶ 『裏天正記』マカオ編 第5話(霞編)「綴られた影」をカクヨムで読む
📝考察:「翻訳という戦場」──霞と“spirit”の罠
この回では、霞が“言葉と祈りの要塞”に足を踏み入れる場面を通じて、思想の戦場の輪郭が浮かび上がります。
霞の英語の演技は、按針に仕えていたという背景を巧みに隠しつつ利用する技であり、
内気なふりをして笑われることで、むしろ敵の警戒心を逸らす“草”としての高等技術です。
そして、「spirit」という一語の曖昧さに注目した宣教師の台詞は、
言葉がいかにして信仰と支配の道具となり、同時にその綻びも生むかを象徴しています。
霞はこの「綻び」に目を向け、次なる草――葛城 梅之助――を導こうと動き出します。
