気配を悟られることなく、六人の草がこの小さな入り江に並び立った。
寒風が波をかき消し、闇がすべてを飲み込む。
そこには、ただ“覚悟”だけが静かに立っていた。
寛永二年、冬。
駿河湾南端。密命を受けた影たちは、いま海を越えようとしている。
任務は、ルソン。
異国に潜み、奴隷売買と宣教師の動向を探り、支配の意志を突き止め、
必要ならば――火種を絶つ。
この夜、誰も言葉を交わさなかった。
草はもともと名を持たぬ。語るべき素性も、思い出も、この海に置いていく。
船は小舟一艘。伊豆諸島へ渡り、密航船へと乗り換える。
その先は、数百里の外洋。待つのは異国の地、マニラ。
霞が低く問う。「……帰りの船は?」
烈馬は、短く首を振る。
「戻る気なら、最初から乗らぬ」
その一言に、誰も動じない。
沈黙が、覚悟の共有となる。
船の舳先には、服部半蔵が残した木箱が置かれていた。
中には、干し肉、火打石、素性を偽るための異国風の装束、
そして一本の巻物。
「影は名を持たず、刀は主を選ばず。
ただ、志のもとに斬るべし」
葛城がそれを読み上げ、短く口元を歪める。
「斬らずに済めば、それが一番だがな……」
烈馬は最後に、船の縁に墨を垂らし、指で文字を刻んだ。
「朽ちず、隠れず、影となる」
それは、草に課せられた信条――
名を残すな、姿を見せるな、だが志は朽ちるな。
雲間から月がのぞく。
光が差した瞬間、小舟は音もなく水面を滑り出していた。
▶ 裏天正記 第2章 第5話:ルソン潜入・出立編をカクヨムで読む
📝考察:「戻らぬ旅」は“死地”ではなく“根を張る旅”
このパートでは、草たちが“ただの忍び”ではないことがはっきりと描かれます。
彼らの旅は、情報を持ち帰るためでも、武功を立てるためでもない。
根を張るための旅――すなわち「地中根構想」の実行初期段階なのです。
■ 烈馬の言葉の重み
「戻る気なら、最初から乗らぬ」
これは単なる勇ましいセリフではなく、
烈馬が父・半蔵から“名を伏せて生きる重み”を継承した者としての決意です。
■ 船に刻んだ文字の意味
「朽ちず、隠れず、影となる」
これは後に草の“密文標語”として異国に残され、
百年後、幕末や明治維新の裏側で発見される伏線にもなります。
■ 次回予告:マニラ潜入編
次回はマニラの裏市場。
キリスト教の布教の名のもと、倭の子供たちが笑顔で“神の教え”を語りながら売られていく。
草たちは、その“静かなる侵略”を、初めて目にする――。
