松平氏の郷へ | かまのん紀行

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この度、ヤフブロの閉鎖の為… こちらに移行して来ました✋

日常の事や、旅行での事、寺社巡りや史跡巡りなど行った所を日記形式で載せます♪

2024.5.7.

 

松平郷は徳川三百年の礎となった松平氏発祥の地です。昨年の大河ドラマを見て、行ってみたかった所ウシシ

 

今からおよそ600年前、この地に発祥した松平氏は三河を平定し天下太平の礎としました。 

松平郷の開拓領主は、後宇多天皇(在位1274 〜1287 年)に仕えた公家の在原信盛と言い入郷したのは弘安年間(1278 〜1287 年) の頃で、現八幡神社松平東照宮境内に本屋敷を構えたと伝えられています。 信盛の子信重は、開拓を進め人馬の道を作り交通の便を図りました。 後にこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称しました。 ここに徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏(不詳〜1394 年4 月24 日没)の出現です。

 

 

松平東照宮。当時は、ここに館が在った様です。

 

 

 

 

 

松平東照宮に現存する水濠や石垣は、松平太郎左衛門家九代尚栄によって関ケ原の合戦のあと築かれました。
はじめは、八幡宮と称して松平家の屋敷神でした。1619 年( 元和5 年) 家康を合祀し1965 年( 昭和40 年) 親氏公を合祀しました。 松平太郎左衛門家は、大正初期までこの地に居住しました。

 

 

 

 

初代松平親氏の銅像

 

親氏は、近隣7 ケ村を手中にし松平家の勢力拡大のきっかけをつくりました。 親氏の弟泰親は、その子信広、信光を従え岩津城を落としました。 この戦いでけがをした信広を松平郷に残し、信光とともに岩津を居城としました。

松平宗家三代信光の代に岡崎・安城に勢力を広げ西三河の大半を手中にし、戦国時代の一大勢力となっていきました。 七代清廉は安城から岡崎に居城を移し、三代信光の再来を思わせる活躍をし、三河一国を支配しました。 尾張守山を攻めた清康( この時25 歳) は近臣に殺され、兵は総崩れとなりました。 八代広忠はこの時10 歳。 清廉の死により松平一族の支配圏は弱体化し乗の今川氏、西の織田氏から攻められ支配圏は縮小していきました。 広忠もまた近臣の者に殺されたことを知った今川義元は、岡崎城を手中にしました。

その時、後継ぎ竹千代(8 歳) は、織田信秀の元にありました。 松平家初代親氏の天下泰平の願いは、竹千代( 家康) に託されました。

 

 

 

 

 

 

1367 年足助次郎重宗の子、重政( 寛立上人) が松平郷主在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立したと言われています。1377 年に親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となっています。 その後、徳川家康によって寺領100 石が与えられ、明治維新まで時の将軍家から厚い保護を受けていました。 山門や本堂は、1641 年に徳川家光によって建てられたものと言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高月院本堂の左手奥には、葵の紋の石扉がの松平氏墓所があり、松平親氏、二代泰親、四代親忠夫夫人の宝篋印塔三基が祀られている。(真ん中が親氏の墓)お願い

 

そして、松平氏ゆかりの城にも行ってきましたニコ (また、別記事にて)