~ 野田城跡 ~御城印 | かまのん紀行

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2024.4.1.

 

今回の遠州めぐりにて、気になっていた野田城跡へニコ

さほど大きな城ではないが、大きな空堀など見応えは十分OK また武田信玄が最後に攻めた城と言うことで有名みたいキラキラ

 

 

また、武田信玄を狙撃したという伝承もある城ほっこり


野田城は永正13年(1516年)から天正18年(1590年)に城主の移封に伴って廃城となるまでの75年間に亘って存続したとされている。
築城者は、奥三河地域で勢力を張った三河菅沼氏一族の菅沼定則で、はじめ今川方に属していた。定則は、南東方面に約1km離れた場所にあった館に居住していたが、たびたび水害を被るので、永正5年(1508年)にこの地に築城の計画を開始したとされる。しかし、吉田城や長篠城の築城時期と同じ頃であるため、東三河地域での今川氏の影響下で築城された可能性も考えられる。
城主は、大永6年(1526年)から永禄3年(1560年)に今川義元が桶狭間で戦死するまで遠州と西三河地域の狭間でその帰属先を転々としたが、義元の死後は徳川方となっている。
その後野田城は戦地となり、元亀4年(1573年)までの12年間に今川氏や武田氏からたびたび攻撃を受けている。永禄4年(1561年)には今川氏真によって落城し、元亀4年(1573年)の「野田の戦い」では、武田軍と籠城戦を強いられている。
なお、この「野田の戦い」の時に武田信玄を撃ったとされる火縄銃は、『信玄砲』として市の指定文化財となっており、設楽原歴史資料館で展示されている。

 

 

本丸と二の丸の土橋。二の丸側から目

 

両側には巨大な空堀があるキラキラ

 

本丸側から目

 

本丸

 

 

 

 

 

大きな井戸おーっ!

 

城郭の構造は南北に延びる丘陵地に3つの曲輪を配した連郭式で、丘陵端部の一番奥まった南側に位置する曲輪が中心となり、3つの曲輪のうちで標高が一番低い。

 

 

主郭は、東西約60mで南北約47mの長方形で、南西部には素掘りの井戸が見られる。南面と北面には高さ1m前後の土塁が認められ、この土塁の外側に堀が造られている。これら堀の西側の形状が湾曲していることから、本来は堀が巡っていたと考えられている。ここの出入り口は、北西と南東の2箇所に虎口が認められるが、西側部にも虎口があったことが古絵図等から推測されている。北西虎口は、土塁を乗り越えて出入りする格好で、その東側の土塁は「かぎ型」に屈曲して北側に張り出し、この虎口への横矢掛けを意識した造りとなっている。また、南西虎口の前面には馬出し状の広場を有している。ここでも土塁上から虎口に向けて横矢掛けとなっており、虎口の防備性を高めている。さらに、ここの南方の麓から主郭へ至る登城道は、この馬出し経由する道に限定される。このあたりは、主郭の南側の斜面地に設けられた堀と、その外側に土を盛って土塁状の平坦面が形成され、防御性を際立てている。さらに、東側の斜面にも2段の段差を持つ平坦部が造られて、虎口への侵入に備えている。

真ん中に位置する曲輪は南北約50mの方形を呈し、全体的に後世の開墾等で地形が改変されている。主郭とは土橋によって連絡する。また、ここより北側に位置する曲輪と画する場所は、約1.5mの段差を有しているが、これは堀の痕跡と考えられる。西側の市道を挟んだ所に土塁状の高まりが残り、古絵図と比較してこの曲輪の一部であった可能性が高い。

一番北側に位置する曲輪は、約40m四方で北東部が突出した形状を呈する。東と北にわずかに土塁状の高まりが認められ、北側には溝状の窪みを持つ。さらに、この溝状の西端からわずかに北方に派生しているが、古絵図から三日月状の堀で馬出しを形成していたようである。

野田城は、東側を切岸と各曲輪に共通した犬走り状の平坦部で防備され、丘陵下の南面と西面にそれぞれ侍屋敷が推定されており、主郭への出入りの防御性が高い縄張りである構造から、単に城主が居住する城郭としてだけでなく、軍事性が非常に高かった縄張りであったことが推測される。

本丸、北東側の虎口跡と土塁跡

 

 

 

本丸と二の丸の空堀を上から目

 

そして、一度道路に出て走る人またin

と言うのも!二の丸は完全に藪の中で侵入が難しいえー? 整備してほしいねうーん

 

 

二の丸と三の丸の堀切跡?

 

三の丸

 

 

 

 

 

 

 

うーん?小っちゃい

 

それから、野田城の移築門をパー