2024.4.1.
長篠城の後は、こちら 設楽原古戦場へ
天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と、武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い超有名な戦いですね~
当時、無敵を誇った武田の騎馬に対し、織田&徳川軍は約3000挺の鉄砲を主力に用いた戦いでした 三段撃ちが有名ですね 通説では、鉄砲隊を3列に並べ順番に撃ったとされるが(時間的に撃ち終わる方が早く弾込めが間に合わないとのこと)現在では数人の班で数挺を扱い弾込め射撃と役割分担をしていたのでは?と
そして戦いが始まる おそらく最初は武田の騎馬隊が突撃
互いの陣の間にある(連吾川) 当時、どれくらいの川幅で深さは分かりませんが、武田の騎馬隊はこの川を渡って織田、徳川軍へ突撃したと思われるが!?実際は、どうだったのか?
突撃すると、連吾川で若干スピードが鈍る!しかも!ちょうど鉄砲の射程距離
そこを、絶え間なく斉射されたらと思うと!一方的です
武田軍も鉄砲の威力をもっと分かっていたら戦い方が違っていたかも
一方的と思われたが、右翼の土屋昌次をはじめ、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、真田兄弟等が連合軍の堅い守りを突き崩します
織田軍が陣を置いていた丸山砦 武田軍右翼と激突!
しかし、正午を過ぎるころになると、将兵の討死が次々と伝えられ、武田軍の敗色は明らかとなってきた。柵より討って出る連合軍に押され、じりじりと後退を始めた。馬場信房は、勝頼を落ちのびさせようと、追手をくい止めたが、寒狭川付近でついに力尽きた。勝頼はわずかな兵に守られて退却していった。武田軍10,000人、連合軍5,000人が、たった10時間ほどの戦いで命を落としたと伝えられる。
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それから、討ち死にした武田の武将の墓(石碑)巡りへ
(甘利信康)
(山縣昌景)
(馬場信房)
真田昌幸の二人の兄の墓
(信綱と昌輝)
(土屋昌次)