鳥居強右衛門墳墓 新昌寺 | かまのん紀行

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2024.4.1.

 

鳥居強右衛門の墓所が在る『新昌寺』

 

創建は天文8年(1539年)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚による。
創建当時は「喜船庵」と称された。

天正3年(1575年)の長篠合戦では、「喜船庵」のある有海の地は戦場となり、特に篠場野の地には奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商の礫死跡があり碑が立っている。
合戦後、強右衛門は「喜船庵」に埋葬された。「喜船庵」は萬治3年(1660年)新昌寺に改められ、寛政3年(1791年)には興国山新昌寺に改められた。

 

 

 

 

 

 

鳥居強右衛門の墓(胴墓)

 

 

 

 

 

(長篠城)

 

鳥居強右衛門(とりい すねえもん)とは、当時長篠城を護っていた奥平貞昌の家臣で、長篠城が武田によって攻め込まれた際に徳川に援軍を頼みに行った人物です。
鳥居強右衛門が援軍を頼みに岡崎城に到着した際、そこには既に加勢する準備をした織田・徳川軍がいました。
「明日には長篠城に援軍を送る」という言葉を聞いた鳥居強右衛門は、仲間に報告するために急いで長篠城に向かいますが、あえなく武田軍に捕まってしまいます。
武田に対し鳥居強右衛門は、織田の援軍があることを伝えました。
そこで武田は「長篠城の前で『援軍は来ないから諦めて城を渡せ』と言ったら、お前を開放してやる」と言い渡します。
了承した鳥居強右衛門は長篠城の前で声高らかに「すぐに援軍が来るからあと少しだけ持ちこたえろ」と叫びます。
武田の命令とは真逆のことを叫んだ鳥居強右衛門を、武田はその場で殺してしまいました。
鳥居強右衛門のおかげで援軍が来ることを知った長篠城はなんとか持ちこたえることができたのでした。
長篠の戦いの後、奥平貞昌は大出世をすることになり、鳥居強右衛門の一族はその忠臣として、子孫の代まで厚遇を受けることになります。

処刑された場所の付近に立つ石碑。