共感疲労とは? | "little magazine"

"little magazine"

架空の雑誌"little magazine"のライターとして、詩や自由奔放な散文を書いてます:)

二月 如月
公園へ梅を観に行った。

2月だというのに、
まるで春のような暖かさ。

真冬でこんなに暖かいなんて、全く異常だ。
今年の夏は、一体どうなってしまうのだろう?

梅の甘い香りが、
ただ静かに園内に漂っている。

メジロたちは無邪気に鳴き、
忙しく飛びまわっている。

寒桜・水仙・福寿草も見頃だった。
ミモザ・ミツマタまで、ほころび始めていた。

公園を訪れた人々は、
この奇妙な暖かさに戸惑いながらも、
公園の美しい世界のなかで、
穏やかに幸福そうに見えた。





先月のメンタルクリニックの診察日。

私が性暴力に関するネット記事を読み、
心のバランスを崩してしまったことを
医師に伝えると、こっぴどく叱られてしまった・・

「せっかく治療しているのに、
何故そういうものを見るの?」

〈・・好奇心からです〉

「例えば、ウクライナ侵攻。
あの時も、体調を崩していたよね?」

〈・・はい〉

「僕が言いたいのは、
共感疲労は、"無意味"ということなんだ」
「ちなみに、僕はもう何年もニュースを見ていない」

〈・・えっ!(絶句)〉

「ニュースは見なくていい」
という、医師の持論に私は心底驚いてしまった。


それは、誰かの不幸を知ったところで
自分がしてやれることは何も無い、という
徹底した"共感拒否"とも感じられた。

・今だ続くウクライナ侵攻
・ガザ地区への空爆
・能登半島地震
・若者による凶悪犯罪
・幼児を狙った性犯罪

その事実は事実として認識しながらも、
"自分事"として捉えることを拒絶する。

「今の自分とは無関係のこと」

それは、すごく冷酷なことに感じられる。

でも、むやみに同情したり
悲しんでみても結局、何もならない。

共感疲労という名の同情で、
自分の心を悪戯に傷つけてはいけない。


「だったら、ニュースを消して
ゲームでもやってるほうがいいでしょ?」

「他人の心配をする前に、
自分の体を大切にしなさい」

それが、私の主治医の考え方なのだ。



診察後、しばらくの間
私も医師の言う通り、
ニュースを見ることをやめてみた。

何週間かすると、またニュースを
見るようになってしまったけど・・

しかし私の脳に、ある変化が起きていた。

それは、
「これは、とても気の毒な事件。
でも、この事件は私には関係ない」

と、心理的距離をおいて
ニュースを見ている自分がいたのだった。

先月、5歳の女児が真冬に長時間、
母親に冷水を浴びせられ亡くなった。

また、親から繰り返し向精神病薬を飲まされ、
中毒死した4歳の女児もいた。

以前の私だったら、
「なんて可哀相なことを!」
と、怒りに震えたと思う。

そして、その鬼畜親たちの
生い立ちなんかも調べたかもしれない。

でも今は、
「こういう事件が増えてるな」
「みんな生活が大変なんだろうな」

「親のストレスが、子供にいっちゃうんだよな」
「施設に預けたほうが、子供にはいいのにな」

と、ひどく客観的に様々な事件を
見ることが出来るようになってきた。



以前から、一度読んでみたかった本があった。

図書館で検索してみたら
別館に置いてあったので、つい予約してしまった。

『闇の子供たち』梁石日
という、タイの田舎で実際におきている
子供たちの強制売春・臓器密売の話だ。

読むだけでトラウマになる
と言われているこの本・・

自分の心のバランスを崩さないように
軽く拾い読みしてみようと思っている。

先日も、
『性犯罪の心理』作田明
という本を、飛ばし読みしたけど
熟読せずとも、十分読み応えがあった。

近年は本当に、
人が人ではなくなっているというか・・
人間が、動物に近い感覚に
なってきている気がする。

否、貧困が人間を
獣や鬼にしてしまうのだ。
(自分がこんなに苦しいのだから、
他人を傷つけても構わないだろうと・・)

世界の歴史が、それを物語っているではないか。


これからも
残忍な事件が増えていくと思うが、
不安にどっぷり浸からないように・・

自分の心をしっかり守りながら、
毎日をゆっくり過ごしてゆこう。



今日も公園は平和で、
私は花花の香りを胸いっぱいに嗅ぎ、
カメラのシャッターを切っている。

小さな幸福を味わっている私を、
後ろめたく思う必要はない。

主治医は、きっとそのことを
私に言いたかったのだと思う。




「あぁ、しずかだしずかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸うった希望は今日を、
いかめしい紺青となって 空から私に降りかかる」
春/中原中也