第二章 世田谷へ(3)
【駒繋小学校】②
駒繋国民学校児童や廣森隊長らが滞在した目之湯は現在も当時のままの姿で営業を続けられています。(2023年現在)
僕も三度ほど宿泊させていただいて、都度ご主人の中野さんと武尅隊についてお話しさせていただきました。
僕が彼の足跡を追って浅間温泉にやって来たこと、また廣森隊長らの残像を求めてこの旅館に宿泊したこと、これまでの経緯などをお話しすると、ご主人もご両親(当時将校らの世話をしたのは現在のご主人のご両親です)から伝え聞いた話などを話してくださいました。
部屋の名前も一般の旅館のような〇〇号室、ではなくて、「拾壱番」「櫻ノ一番」といった呼び名で部屋の入り口に札がかけられているんですね。
一階にはおそらく生徒たちが寝起きしたであろう大広間があって、二階奥には隊長らが使用した部屋があります。
僕が訪れた際は客室として使用されていませんでしたが、ご主人によると部屋は当時のままの姿だそうです。
宿泊した後、数日たって、ご主人から手紙が届きました。
お帰りになられた後、疎開児童の本を読み返しましたら、コピーの様な文章が有りましたので、お送りいたします。
児童と武尅隊の交流の様子が良くわかり、私も、なる程と思いました。
コピーされた本は、目之湯に疎開していた中澤敬夫さんが書かれた
「日本の子、小國民よ 学童疎開 父と子の便りの記録」
駒繫小学校の疎開児童と廣森隊長らがどのように触れ合ったのかが良くわかる貴重な資料ですので、次回以降の記事で原文をそのまま掲載します。
出版は1995年となっており、中澤氏の消息も把握できませんため、この場をお借りして引用させていただくことをお許し願いたいと思います。
実は1年半ほど前、本に書いてあった中澤氏の住所を辿って訪ねたことがあります。
確かに「中澤」という表札がありました。
数日後、私は「中澤」の表札のあるお宅に手紙を投函しました。
この本を書かれた中澤氏がご存命かどうか、
またご存命かどうかわからないけれども、何某かの資料が残されていないか
そんな内容でした
彼のご遺族を訪ねた時のように...
手紙には
私の電話番号とメールアドレスを記載して、差し支えなければご連絡いただくよう書き添えましたが
いまだに連絡はありません