ネタバレ&質問あり


 2019年制作。史実に着想を得た(inspired by true events)となっている。アンソニー・ホプキンス、ジョナサン・プライス主演。「君とは考え方も流儀も違う」「君の意見にはなにひとつ賛同できない」。カトリック教会の最高位に上り詰めた二人の対話を中心に話は進む。名優二人にしかなしえない作品だ。大げさな演技はひとつもなく、「そのひと」として画面に存在する。内容は遠藤周作の「沈黙」に共通する部分はあるが、重く陰鬱になりすぎることなく、知的に、軽妙さを交えながら神、信仰、人生について、老いた2人が葛藤の少なくなかった人生を背景に対話を重ねる。映像・脚本・演出、すべてが洗練されていて、泥臭い作品ではない。

 2005年ヨハネ・パウロ2世が崩御。52カ国115名の枢機卿(cardinal)の中から次の法皇が選挙で選ばれる。2/3の得票、つまり誰かの得票が77名分以上になるまで選挙の儀式は繰り返される。当時のニュース映像を交えながら物語は進む。ホプキンスは教会の権威と隠蔽体質の堅持を望む保守派とされるのに対し、プライスは市井の人と多く触れ合い、教会の刷新を望む「改革派」。ホプキンスのプライスへの態度は明らかに敵対を示していた。結局ホプキンスが新教皇に選出されベネディクト16世となる。
 2012年、内部告発文書「バチリークス」によって司祭の性的児童虐待とバチカンの資金洗浄が明らかになる。以前からバチカンの在り方に疑問を抱いていたプライスは枢機卿の座を辞し、一介の司祭となることをホプキンスに願い出るが、返事をもらえない。ようやく直接会う機会を得るが、ホプキンスは「枢機卿辞職はバチカンへの抗議であり、辞職を認めることは教会の権威の失墜」と受け入れない。
 聖職者の犯罪行為への懲罰、司祭の結婚、避妊、中絶、同性愛、男女平等など、教会が受け入れるべき時代の変化なのか、迎合とみなすか。二人の考え・信条はことごとく相容れないが、ホプキンスはプライスの人柄を認め、自身の辞意を告白する。教皇は基本的に終身であり、生前の辞任はない。ホプキンスはプライスの枢機卿辞任を認めなかったのは、自らの後継者としたいがためだった。
 枢機卿すら辞任しようとしていたプライスは自らの過去について語る。1976年、クーデターによりアルゼンチンは軍事政権下にあり、体制に歯向かう人はもちろん、そうでない人を含む多くの市民が次々と文字通り虫けらのように粛清されていた。イエズス会の管区長の職にあったプライスは軍事政権から友人、信者たちを救うため、政府要人に近づき、隣人たちに反政府的な行動を慎むように諭して回るが受け入れられない。1983年に軍事政権は倒れる。プライスはそれまで多くの人命を救ったにもかかわらず、軍事政権支持者として非難され立場を追われる。
 

 並み以上の作品であるのは確かだと思うが、他ではない、ネットフリックスならではと思われる問題がこの作品ではあった。この映画は主に英語とスペイン語が話が進み、イタリア語とラテン語も加わる。政治的・宗教的な込み入った内容について語られる個所も少なくなく、字幕だけだと情報を拾いきれずに意味が不明瞭な箇所がある。それならばと吹替版を選択すると、スペイン語の部分は吹替がない。スペイン語部分については情報量が不足しているであろう日本語字幕をみるしかないのだ。
 作品中、重要な部分であるプライスの過去が字幕オンリーのスペイン語部分に該当してしまう。大筋はわかるが、状況がもう一つクリアにならず、モヤモヤする。字幕に情報が不足しているのか、そもそも作品自体が情報不足なのか、それすらわからない。全編日本語吹替版を作らなかったのはネットフリックスの怠慢だと思う
 いまいちよくわからなかったのが、
①エステルの助言に従わなかっため過ちを犯すことになった、とプライスは言っているが、エステルが実際何と言ったのか。「知らない人を見るような、おびえた目」でプライスを見たエステルがプライスに助言をするタイミングがどこにあったのか。助言の内容は、ヤリクスとジョリオに反政府支援を止めるよう助言すれば、却って自分が軍事政権側の人間だと疑われるだけだ、という内容だったと予測されるが、その辺のいきさつ、経過がよくわからない。
②プライドのせいで自分は誤りを犯した、とプライスは言っている。おそらく管区長である自分の命令(反政府組織支援の中止)に従わなかったヤリクスとジョリオを口論の末、破門してしまったことが失敗だった、という台詞に受け取れるが、この辺ももう一つ不明瞭。
③ ②に関連して、ヤリクスとジョリオを破門することで二人の命を救えると思った、ともプライスは言っているがこれもわからない。そもそも破門したのは自分の「権限」を否定され、傷つけられたプライドによる過ちであるという話をしていたのではなかったのか。この作品においては法王・司祭の「権限」というのがキーワードのひとつになっているようにみえるのだが、その辺も不明瞭。

 以上三点について、もしお判りの方がいらしたらぜひ教えてくださるとありがたいです。

 対話劇ともいえる内容なので名優二人のセリフ回しもぜひ楽しんでほしい。でも字幕だと本当に情報量が足りてない感じがするし、それじゃと吹替で見ても大事なところは結局字幕。本当は字幕の文字制限をもっと多くするべきだ。昔より絶対減っている。私が20代の頃の字幕のほうがもっと文字数は多かった。こういう映画を見る人はそもそも字幕がある程度速く読めるスキルがある人が多いと思うし。映画の内容によって文字制限数を変えることを提案したい。子供向けの作品は当然少なく、大人向けで知的な作品については倍以上に増やすという柔軟性が欲しい。「ウイットに富んだ会話系」も字幕の文字数制限のせいで台無しになっていることが多い。今の世の中こうして吹替版と字幕版がオプションで簡単に選べる世の中になったんだから、字幕版は思い切って文字数を増やしていいと思う。ダメなら簡単に吹替版に変えられるんだから。

 いくつか引っかかったことについて調べてみた。
 冒頭語られるのは「アッシジのフランチェスコ」についてのエピソードだ。フランチェスコ会の創始者であり、カトリック教会における最も重要な聖人のひとりだ。
 ホプキンスがプライスに振舞うドイツ料理「クヌーデル」。プライスが修道女と「これってビミョ―だよね」といった様子で顔を見合わせる。そんなに不味い料理なんだろうか。
 若かりしプライスがプロポーズに向かう道すがら「お告げ」を受ける教会のシーンに、「ウラカンのファンでないことを祈る」というセリフがある。司祭の教区であるパルケ・パトリシアスは「CAウラカン」というサッカーチームの本拠地にあたる。

 欧米では好むと好まざるにかかわらず一神教の「神」、教会と無縁には生きられない。支持するにしろ否定するにしろ、程度の差こそあれ無影響はありえない。日本では昭和のころ「神様」なんて言おうもんなら「非科学的」「怪しい宗教にハマっている」なんて扱いを受けた時代もあった。それが今じゃ「神回」「神対応」等々大安売りのバーゲンセール状態だ。いずれにしても日本人が信仰というものと苛烈に相対することは少なく、あってもいわゆる「カルト」になってしまうイメージから逃げられない。
 神は沈黙する。それでもひとの営みと”神”のかかわりが失せることはない。ひとは様々な神を気まぐれに思い浮かべる。
 私はかつてイタリア美術に興味があったので、自ずとカトリック教会(バチカン)にも興味があった。塩野七生さんの作品もけっこう読んだが、私は「神の代理人」が一番面白かった。あまりに人間的な組織であるカトリック教会の総本山。塩野さんが正確に何と言っていたかは忘れたが、
「本来信仰とは人間と神が一対一で相対するもの。でも宗教というものを考えた時、組織化せざるをえない。組織化されたとたん、神とは何のかかわりもない人間的な問題が噴出する」
 映画のロケがもしやバチカン内で行われるのかと期待したが、それはなかったようだ。システィナ礼拝堂は本物と比べるとまあまあチープな感じだったが、仕方ないか。見られないほどではない。新教皇選出(コンクラーベ)がどのように行われるかは初めて見たので非常に興味深かった。ホプキンスはピアノが上手でびっくりした。
 サン・ピエトロ大聖堂は私が訪れた建築物の中で最も感動した作品だ。まさに天才の叡智の結晶。20代に初めて訪れて、30代でまたひとりで行った。できることならまた訪れたい場所だ。二位はインドのタージ・マハルだが、あれは内部がスカスカだ。夫は仕事で国内外を問わず海外経験が多く、数年前もサクラダ・ファミリアに行っていた。とても羨ましい。夫はイタリアが未経験なのでぜひバチカンは一度行ってほしい。ただ夫は何事も感激・感動するということが少なく、なんでも「普通」で片づけるのが定番だ。バチカンに行っても「普通」と言われたらどうしようかと思う。
 この作品は数々の映画賞でノミネートされたが、その年の映画界の話題をさらったのは「パラサイト 半地下の家族」だ。

 

 


※バチカンとマフィアのかかわりについても描いてます。バチカンの資金洗浄については常態化している(た?)のがわかります。こっちは1978年頃の話。