「ケイン号の叛乱」~アングルを変えて見たならば | ネコ人間のつぶやき

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 今回は「ケイン号の叛乱」(1954年)。本作のボギーは格好がよくない、とのことで観ることを躊躇っていましたが、観たらとてもおもしろい作品でした。

 

 

 第二次世界大戦中の1943年。


 海軍士官学校を卒業したキース(ロバート・フランシス)は、恋人に別れを告げて任務に就きます。


 しかし期待とは違い、老朽化した掃海駆逐艦ケイン号の配属となりキースは失意します。


 ケイン号の乗組員達はだらしなく、船は不潔。


 ケイン号のベテラン艦長デヴリースは、昔気質の男でずけずけと口も悪く、キースは好きになれません。


 新任務のため艦長がデヴリースからクイーグ(ハンフリー・ボガート)に交代の際、船員達がデヴリースをリスペクトしていたことをキースは理解出来ません。


 不潔やだらしなさを嫌うクリーグは、キースを風紀係に指名。


 そんなクリーグをキースはデヴリースとは違うと期待します。


 ところがクリーグは、自分が細かなことに気を取られ事故を起こしかけても、嘘の報告をしたり、部下のせいにする男でした。


 さらには奇行が目立つようになるのです。


 不安になってきた通信長キーファー(フレッド・マクマレイ)は、副長のマリックに規則に則ってクリーグの指揮権を剥奪すべきだ、と忠告。


 そして台風の際ケイン号が沈没の危機になり、マリックはクリーグが操艦不能と判断して指揮権を剥奪。


 ケイン号は沈没を免れますが、マリックは反逆罪に問われて軍法会議にかけられることになります。

 

 後半は裁判シーンになります。これがおもしろい。


 明らかに切れ者の弁護人グリンウォルドが登場。


 マリックの弁護に気が乗らないグリンウォルドですが、結局引き受けます。


 グリンウォルドのすべてを見透かすかのような鋭い眼差しは何を明らかにするのか?


 裁判では証言台に座った面々の真の姿が露わになってゆくんです。

 

 

 「ケイン号の叛乱」は実戦場面は無く、船の乗組員達の人間模様を描いています。


 キースは一流大学卒、士官学校出の実務経験ナシの即席士官です。エリートではありますが。


 キースはいわゆる世間知らずのお坊ちゃまで、母親に逆らえないマザコンでもあります。


 恋人がクラブ歌手だから、と彼女を母親に紹介さえ出来ない。


 そんなキースですが、ミスを指摘したデヴリース艦長には口答えする始末。


 親への反抗はやはり本当の親にするべきで、代わりに社会の権威的な立場の他人にすべきじゃないですね。


 感情転移だとしても言い訳になりません。


  さて、同じ人や事象でも、見る角度を変えると全く違う姿に見えることがあります。


 見方を変えたら良いと思っていたものが駄目だったとか、その逆もある。


 マリックを弁護したグリンウォルドがケイン号の面々に釘を刺すラストの語りは、そういうことだったんじゃないですかね。


 それを学んだキースは成長するんです。


 ケイン号をご自身の所属する学校や職場に置き換えて観るとおもしろいですね。


 「ケイン号の叛乱」は戦争映画ではなく、社会の縮図なんです。社会に住む人間の姿。


 「こういう奴おるわ~」とかね。色々考えさせられますね。


 冒頭のテロップにあるように、この映画は人のあり方を問う物語なんですね。


(でも、ボギーはやはりカサブランカ・ダンディーな方が好きではある…。)