シャーロック・ホームズの小説で、私のお気に入りは「ボヘミアの醜聞」です。
グラナダTV版「シャーロック・ホームズの冒険」の「ボヘミアの醜聞」より
"Jeremy Brett as Sherlock Holmes" Photo by Scott Monty
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「ボヘミアの醜聞」は、自他ともに認める女性嫌いのシャーロックが「あの女 the woman」と敬愛を込めて呼ぶ特別な女性、アイリーン・アドラーが登場する短編小説です。
ワトソンは「ボヘミアの醜聞」を「ホームズが一度だけ失敗した事件」と回顧しています(※「花婿失踪事件」より)。
「ボヘミアの醜聞」は、ボヘミア国王がお忍びでベーカー街221Bにやって来てシャーロックに依頼してきた案件にまつわるエピソードです。
(※以下、ネタバレですので、その点御了承下さい)
"scan-04" Photo by Scott Monty
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それは、国王は独身時代にアイリーン・アドラーというオペラ歌手と交際していたけれども、うかつにも彼女と二人で写真を撮ったことがあり、アイリーンが婚約者にその写真を送る、と言ってきた、というのです。
スキャンダルになる前にアイリーンからその写真を取り返してきてほしい、という国王の依頼からシャーロックはアイリーンと相見えることになります。
シャーロックはそれまで女性を軽視していたのですが、アイリーンと出逢って彼のそれまでの女性観が変わることになるのです。
アイリーン嬢は人気キャラでして、シャーロック・ホームズ関連のドラマや映画ではファム・ファタール(運命の女性・魔性の女)として登場していますね。
原作小説でもアイリーンは、男性が一度見たら「自分の人生を捧げても良い」と思えるほどの美貌の持ち主で、周囲の男性陣はアイリーンに魅惑されて虜になっているさまが描かれています。
そしてアイリーンは美しいだけでなく、知性に優れ教養に富み、己の力で行動する強い女性。
それにしても、変装したアイリーンが、自宅にやって来た牧師がシャーロックであることを確認しただけでなく、声をかけるあたりはかなり大胆ですね。
アイリーンが腹のすわった女性で、自分自身に自信を持っていることがわかります。
"scan-09" Photo by Scott Monty
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しかも問題のボヘミア国王との2ショット写真の代わりに自身のポートレートを置いて消えたアイリーン。
手紙を読んだシャーロックは、アイリーンがすべてお見通しだったことを知って愕然とします。
同時にシャーロックにアイリーンへの尊敬の念と愛情に近い感情が芽生えたことがうかがわれます。
依頼者のボヘミア国王に報酬としてアイリーンのポートレートのみ頂いて、国王が握手するため差し出した手を見もせずにさっさとその場を出て行ったシャーロック。
シャーロックにしてみたら、アイリーンに心奪われたというだけでなく、「アイリーンの素晴らしさを解らない小物で凡庸な人物に彼女の写真を渡したくない」という気持ちもあったと思います。
原作のアイリーン・アドラーは、例えば「SHERLOCK」やガイ・リッチー版「シャーロック・ホームズ」のアイリーンとは違い、シャーロックをたぶらかして利用していません。
「シャーロック・ホームズ」(2009年)のアイリーン(レイチェル・マクアダムス)
"Sherlock Holmes Movie - Rachel McAdams" Photo by tricks ware
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確かにアイリーンは、シャーロックを出し抜いてはいるけれども、それは彼女が自分を守り、かつ誰も傷つけぬようスマートに事を収めただけ。
アイリーンが国王の安全を保障した上で消えた、という結末にしてくれたお陰で、シャーロックの方も国王の心配を取り除いた形になったわけですから、表面上は依頼に応えている。
だから「ボヘミアの醜聞」は正確には「事件」とは言い難い。
でも、上記の理由でシャーロックにとっては忘れられない、魅力的な「事件」なのでしょう。
"scan-10" Photo by Scott Monty
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原作者のアーサー・コナン・ドイルは、名探偵シャーロック・ホームズを創作し、最初に「緋色の研究」、「四つの署名」をそれぞれ別の雑誌に発表しました。
ところが、どちらもサッパリ話題にならなかったので、ドイルはがっかりして筆を折ろうと考えたそうです。
そんな時に創刊して間なしの月刊誌「ストランドマガジン」の編集者がこの2編に目を付け、ドイルに1年契約で12本の読み切り短編を連載する依頼をしました。
そこでコナン・ドイルが「ストランドマガジン」の連載第一弾として登場させたのが「ボヘミアの醜聞」。
名探偵シャーロック・ホームズを世に知らしめる絶好のチャンスに、コナン・ドイルが最初に送り出したのが、なんとシャーロックが唯一失敗した事件だったんです。
それだけコナン・ドイルは「ボヘミアの醜聞」に「これならウケる!」と自信があったのだと思います。
実際「ストランドマガジン」に連載された12本の短編集「シャーロック・ホームズの冒険」は世に知られて絶大な支持を得ました。
魅惑的なアイリーン・アドラーとシャーロックの関係を描いた「ボヘミアの醜聞」が名作と評される根拠でもありますね。
「ボヘミアの醜聞」が掲載された「ストランドマガジン」誌(1891年7月号)
"The Strand Magazine, Vol. 2, No. 7, July 1891" Photo by Special Collections Toronto Public
source: https://flic.kr/p/dHwKJv
アイリーン・アドラーと「ボヘミアの醜聞」を読み解くと、「ファム・ファタールとは何か?」という命題が浮かびます。
ファム・ファタールとは、女性の魅力と不可解さが男性に不安を呼ぶイメージ・存在です。
それ以外に、世紀末が分かりやすい例なのですが、既存の社会システムが何らかの不安によって揺らいでいる、そういう時代の一種のイメージがファム・ファタールとも解釈できます。
アイリーンが自分のポートレートを置いていた、という行為ですけども、アイリーンはシャーロックが自分を一生忘れないことをわかっていたのだと思います。
このくだりは読み方次第ですけども、他の解釈としてはアイリーンの完全勝利宣言にも思えて痛快なんですね。
19世紀末当時のイギリスが極端な男尊女卑社会であったこと、そして女性の社会進出の兆しが男性社会を不安にさせていたことを考えるとより意味深いと思います。
「シャーロック 忌まわしき花嫁」(2016年)は、上述した19世紀末のロンドンの女性の選挙権運動と男性社会の不安と怖れを背景に描いており、興味深い内容となっています。
"Sherlock The Abominable Bride" Photo by Brenda Rochelle
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21世紀のロンドンを舞台にしたBBCドラマ「SHERLOCK」の「ベルグレービアの醜聞」は「ボヘミアの醜聞」を現代的に解釈した回で、こちらのアイリーン嬢は、原作よりも格段にファム・ファタール。
シャーロックとアイリーンの頭脳戦と恋の駆け引きが重なるような、ラブストーリーとしても名作です。
つまり、「ファム・ファタールもの」を特に男性がが好きなのは、時代や洋の東西問わず、ということなんですね。
現実に身近にファム・ファタールがいたら、関わりたくないのにね。
そこは不思議で面白いところなんですけども、男の性なんですよ、きっと。
とにもかくにも「ボヘミアの醜聞」が生まれなかったら、ひょっとしたらシャーロック・ホームズの冒険を読む機会がなかったかもしれません。
小説だけでなく、シャーロック・ホームズのドラマや映画もこの世になかったわけです。
そういう背景もあって、アイリーン・アドラーの登場する「ボヘミアの醜聞」は私はお気に入りのエピソードなんです。
(※今回の記事は2017年7月7日の過去記事「シャーロックとアイリーン・アドラー」~「ボヘミアの醜聞」をリライトしました)