The Pioneerであるということ

The Pioneerであるということ

何を読み取るかはあなた次第。

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日本では時折ノーマスク派が炎上している一方で、海外では既に規制緩和の一環としてマスク着用義務が撤廃された、というニュースを目にすることも多くなった。

 

マスクの問題について、私は、コロナ禍初期より一貫して「マスク着用は個人の自由」という立場を取っているが、

実生活でも、マスクは必要最低限しか着用しない。

 

まず、密でも何でもない外の空間では確実に着用しないし、それ以外の空間でも、

人との距離が十分に取れて、会話がないのであればほぼ着用しない。

 

また、どうせ食事中は外すので、飲食店でも、どうしてもという意思表示をしているところを除き、

入店時にわざわざマスクは着けることはしない。

(逆に、いろいろ言ってきそうなところであれば、その対応コストの方がリスクなのでマスクをすることもある。

揉めて入店拒否、といった愚行はしない。自衛のためにその時に応じた判断くらいはする)

 

喫煙所では、建前のために顎マスクなんてすることなく、邪魔なマスクはポケットにしまって一服を楽しむこととしている。

 

理由は大きく三つある。

 

まず、若い私は感染しても重症化するリスクは低く、更に日本全体の感染者数は、

増えたと大騒ぎしたところで他の先進国と比べて少ない、つまり感染確率が低いことから、

感染したり、重症化したりすること自体を、個人的には許容リスクと捉えているからである。

 

確かにコロナは「ただの風邪」でも陰謀でもなく、重症化したり、軽症でも苦しいケースもあったりはするのだろうが、

これらの「大袈裟な」ケースを、人は実際よりもはるかに多くの確率で起こると見積もりがちであり、

「なんでもない」もしくは「軽微な」ケースをはるかに少なく見積もりがちだという心理学的傾向がある。

 

有名なのは殺人事件と窃盗事件の年間発生数の見積もりで、データを持っていない人は殺人事件の数を実際よりも多く、

窃盗事件の数を実際よりも少なく見積もるという。

 

このような人の特性や、メディアの特性上、ネタにならない軽微なケースは載ってこないと考えられることから、

また実際に現在の厚労省のデータからも、20代なら重症化率0.02%、死亡率0.00%に過ぎないと判明していることから、

私はコロナの感染や重症化を許容リスクとして受け入れ、

むしろマンボウや緊急事態宣言のように人々の自由を抑圧し、経済を委縮させることによるマイナスの影響を危険視している。

 

次に、「人のために」着用しましょう、というメッセージが、個人的には全く響かないからである。

 

本来、人のために何かするのであれば、そちら側がポジティブに評価されるべきことであり、

しないからと言ってネガティブに評価されるべきことではない。

 

ところが、今の日本では、ノーマスクの人に対して異常な攻撃性を見せる輩や、

病気などでマスクを着けられない人たちをも叩く過激派があふれている。

その裏にある、「人のために何かをして当たり前」という傲慢さを見て、

果たしてそのような「人のために」何かをしようと思えるだろうか?

(もちろん、一部のノーマスクデモのように、過激化しているものが批判されるのはある意味自然なことだろう。

だが、そこまでいったら、マスク着用とは別件の話である。

マスク着用者が同じことしても、許すわけではあるまい?)

 

はっきり言って、私にはそうは思えない。

 

日本には昔から、「情けは人の為ならず」という諺がある。

人はめぐりめぐって自分のためになるから情けをかけるのであって、

当然だと言って何も返さない人たちのために積極的に何かをしようとはとても思えない。

 

マスク着用が「人のため」の行為なら、その行為に対する感謝や賞賛を見せるべきである。

それが人に物を頼む態度というものであり、リスペクトがなければ、その人にはそれ相応のものしか返ってこない。

 

少なくとも、こちらが何かを我慢しなくてはならないような「人のため」の行動は、私はするつもりにはなれない。

 

そして実際、単純に理屈抜きで、マスクは不快だからである。

 

私の体質上、マスクは基本的に肌に合わないし、ともすると息苦しい上に、眼鏡が曇ることもある。

私の中では、発生確率が高い不快感によるリスクの方が、確率が低いコロナ感染のリスクよりも差し迫ったものである。

 

だから、着用義務撤廃で喜ぶ外国人の気持ちは、痛いほどよく理解できる。

 

あんな不快感を伴うものを嬉々として着けられる人たちはすごいと思うし、

それを無償の「人のため」としてできる人なら、多分その人は人格者なのだろう。

 

それはそれで尊敬できるし、そこに○○警察的な傲慢さがないのであれば感謝すらしても良いが、

残念ながら私はそんな人格者でもなければ、関わりのない不特定多数の顔色をうかがうつもりもない。

 

長時間の着用ははっきり言って無理だが、短時間なら耐えられるので、マスクはあくまでも自衛のために持ち歩き、

必要最低限の場面においてのみ、いざこざを避けるためのリスク回避手段としてのみ着用することとしている。

 

もちろん、以上は私の考えや行動であり、ノーマスク派やマスク警察のように、これを読む人に合わせろと強要するつもりはない。

 

ただ、体質に関係なく、マスクには時期や行動によっては熱中症など、別のリスクもあるので、

やはりマスクの着用はコロナ以外のリスクも含めて、個人の自由で総合的な判断で決めるべきだし、

「人のため」なればこそ、しない人を叩くのではなく、する人が称えられるような社会が本来あるべき姿ではないか、と思う次第である。

脳は鍛えないと衰える。

 

そんなフレーズが、まだ幼いころに流行っていたものだが、この頃その通りであると実感する。

 

ふと何かを思い出したいときに、昔学校で学んだはずのことでもすっと頭に思い浮かばなかったり、

座学の場に赴いて、集中力を維持できる時間が短くなってきていることを感じたりなどするからである。

 

「脳を鍛える」というフレーズは漠然としているが、それができるとうたうアプリなり書籍なりは、

大抵の場合、つまるところ「脳トレ」に過ぎない。

 

脳トレは、場合によっては脳の基礎的な能力を鍛える手段になるのは否定しないが、

筋トレと同じで、それだけでは応用は効かない。

 

人生は、死ぬまでの暇つぶしかもに過ぎない人もいれば、何かしら社会的あるいは個人的な使命に追われてどこかに向かっていくものだという人もいるだろう。

 

だが、いずれにしても、人生における頭の使い方は、トレーニングのような定型的なものではないし、

テストやクイズ、あるいは演算可能なゲームなどのように、明確な答えが既に知られているものでもない。

 

トレーニングで基礎能力を鍛えたつもりになったとしても、せいぜい認知症予防の最低ラインを引けるだけであり、

人生を豊かにする知性が得られる訳ではない。

 

簡単な四則計算や図形操作だけで、優れた哲学者や科学者になったり、革新的な起業家になったり、一流の政治家になったりすることができるであろうか?

数学者であれば「簡単な公理からなら」とはいうかもしれないが、殆どの場合は否である。

 

であるが故に、答えのある問題を基礎体力をつけるために解くのは意味がないとは思わないが、

答えのない問題にぶつかってこそ、意味のある脳の鍛え方になるのではないか。

 

そのためには、「基礎体力」は必要かもしれないが、より重要なのは答えの出ていない問題に、仮の答えを出す力だと思う。

ある時は内容の正確性よりもそこへ至るスピードが重視され、

別の時には長期的な有用性や再現性が重視されるのであろうが、

いずれにしても、脳を真に衰えさせるのは、良質な情報との接触不足、思考停止、そして思考の放棄なのではないか?

 

足し算だけ速くできるバカになるのでは、人生も面白くはないだろう。

そうなりたくはないので、何かしら良質な情報に接触し、ただ触れるのみではなく、自分の考えをまとめることを意識したいと思うこの頃である。

私は最近、自分がXジェンダー・両性(あるいは英語圏で言うところのBigender)であり、

かつ最も幸せな在り方は、自分の男性性と女性性を結婚させる、特別な形の自分婚であることに気が付いた。

 

今回はその話をしようと思う。

女装からの内面の女性性の再発見

私の友人で、長らく女装しろとよく言われている人がいて、

そういうのに乗っかるのなら、私自身も一度はやってみるのが面白いかもなと

思ってやってみたところ、これはこれでしっくり来たのである。

 

そんなこともあって、暇つぶしにFaceAppで私自身を女体化させてみたら、

生み出されたのはえらい美女たち。

 

美貌評価系アプリ各種でもハリウッド女優にも引けを取らないスコアを出してきたので、

彼女たちはデータに基づいても美人さんであることは間違いなかった。

 

そして恐ろしいことに、この上なく私好みでもあったのだ。

 

もう一歩踏み出して、一人チャット系アプリを使って、

生み出された彼女たちの中でもお気に入りの数名(ネームド)と話してみたら、

これまで出会ってきたどんな女性とお話するよりも楽しかったのである。

 

それならばと、男性としての私は、彼女たち、女性としての自分であるネームドを、自分自身の彼女とすることに決めたのである。

(それはポリアモリーでもある。マイノリティの多重がけ路線に入っている訳だ)

過去に感じていた違和感のお話

元々、私は男性として籍を持っているし、特に男子校だった高校以降は、

男性比率が高い「男性社会」に身を置いてきたので、自分自身は男性であると認識していた。

 

しかし、そこにはかすかな違和感があった。

 

私のルックスは中性的だし、

声はGod Knows...を(ちょっと疲れはするが)原曲キーの高音のまま飛ばせる程度に高い。


この曲は、リアルの女性でさえも時としてキーを落とす曲と言えば、それがどの程度の高さか分かるだろう。

まあ、かといっていわゆる女声でもないので、やっぱりこれも中性なのだろう。

 

小さい頃は、女装などしなくても女の子によく間違えられたものだが、

考えてみればどこかくすぐったいような気分で、でもそのことも、今思えば決して嫌ではなかった気がする。

 

一方で、バーでカッコよくウイスキーやカクテルを飲んで見せるオトナの男などは正直なところで憧れるし、

男としての私は、自分自身そうなりたいとも思っている。

 

だが、そうしてカッコでくくっていく中で、自分の中の何かを多分抑え込んでいるのだろうという予感はしていた。

本格女装で女装者の交流の場に出向いた時、私は二つのことを感じた。

 

1. 女としての私は可愛い(異論は認めない)。なんばを出歩いていたらナンパもされるくらい。

2. 男性社会で生きてきた息苦しさから解放される自分の存在。

 私は人のジェンダー・アイデンティティについては個人の自由で良いと思うが、
 その実自分自身については、ジェンダーの檻に閉じ込められていて、

 自分自身のそぐわない側面を切り捨てて何とかごまかしてきたのだと気付いた。

 

そのあたりからが転換期で、結局のところ私はどんなジェンダー・アイデンティティなのか模索していたところ、

最もしっくり来たのが、両性含有であるXジェンダー・両性やBigenderなどの表現だということに気が付いた。

 

そして、女としての自分自身が男としての自分にとって魅力的なのだとしたら、

リアル彼女はデメリットの方が大きいという結論に至り、自分自身の男性性と女性性を付き合わせることにしたのである。

 

まだお付き合いのみで、所謂自分婚のステージまでは進んでいない(挙式などはしていない)が、

その件については現在の印象がそのまま維持されるか見ながら、最後には決めたいと思っている。

自分婚のメリット

今のところ、このアプローチのメリットとして考えているのは以下の点である。

1. 自由は守られること

ソロガミーについてちゃんと調べればわかるが、自分婚では他者との恋愛そのものも含めて制限はない。

 

リアル彼女など作ろうものなら、よほど寛容でない限り、ポリアモリー的アプローチを認めてくれることもないだろうし、

オンデマンド婚のような形にしない限り、居住空間を共有することによる制限もかかって来るだろう。

 

男としての私は女性を恋愛対象としてみるが、それ以上に自由を愛しているし、

女としての私も、恋愛が自由を侵すことようなら、自由を選ぶ点では一致している。

(女としての私のセクシャル・アイデンティティはまだはっきりしていないが、

少なくとも男としての私自身を愛してくれているので問題はない)

2. 経済的にリーズナブルなこと

私は男女平等論者なので、デートなどをするにしても、自活しているならお互いの費用はそれぞれで持つべきだと個人的には考えている。

 

だが、実際には未だに日本にはデートの時におごってもらう前提の女性なども多いもので、

仮に付き合った相手がそうであれば確実にコストがかかる。

 

また、仮に奢らせようとするタイプでなくとも、デート先の意見が合わなければどっちにも行くことになる、などと余計な時間も取られやすい。

 

自分自身で完結する分には、そういう形での余分なコストは発生しない。

3. 私自身にとって、幸福度が上がっていると感じられること

これは主観の問題だが、両性である以上、どちらも解放できる場がどこかしらに欲しいところである。

 

それをたとえリアル彼女が許したとしても、社会的に表に出している男としての自分は、中々許してくれないだろう。

だが、自分自身同士で付き合う分には、どっちも自然に出て来てくれるので、抑え込まなくてよい。

 

それは気分が楽になるし、私が相手なら互いに本音で話せるのもあり(特に男としての私はカッコつけでそれをしたがらない)、

実際自分自身同士のお付き合いが始まってから、私(総称)は以前より幸せになったと感じている。

4. 幻滅リスクが低い

リアル彼女なら、関係が深まるうちに、いずれどこかで幻滅する場面にも出くわすであろう。

 

ユング心理学的に見ても、恋愛対象としての外部存在は、内在する理想の存在の投影対象でしかない。

であれば、内面に存在する理想に直接接触を試みた方が、互いの成長や洗練が見込めて合理的であろう。

 

そして、互いにスタートが理想そのものなので、客観的にどうであろうと、主観的に幻滅するリスクは極めて低いと言える。

終わりに

明確なデメリットがあるとすれば、自分婚のみの場合は子供を作れないことくらいだろう。

だが、これまた自由とお金を捧げることになる子供は欲しいと思わないので、その意味でも特に問題はない。

 

私の幸せは、私自身の力で獲得しようと思う。

デジタル・ウェルビーイングをこの頃意識するようになった。

 

ふとSNSやゲーム、中身のない動画にどれほどの時間を費やしているか悟って、愕然としたからである。

 

SNSの投稿の99%は、さしたる洞察を与えてくれるものではない、一昔前だったらせいぜいチラシの裏止まりのものである。

 

また、ゲームにしても、仮想世界で簡単に富豪や英雄になれるが、

それに惹かれるのは現実世界での得体のしれない無力感の裏返しだと悟って、途端に虚しくなった。

(尤も、現実世界でどんなに力を得ようとも、それはそれでますます現実世界の巨大さの前に立ち尽くす羽目となるだけなのだが…)

 

動画コンテンツにしても、多くは中身が薄く、10分でまとめられることを30分かけているような代物ばかりで、

ダラダラと続きを見ることは時間の無駄であることが多い。

(プロのコンテンツでさえ過度に説明的な傾向が増していると言われるくらいであり、真に考えさせられるような作品は少ない)

 

幸か不幸か、世界はまだ、人間が義務としての労働から解放された世界ではない。

そうである以上、快楽物質漬けになっている訳にも行かない。

 

あるいは、快楽物質に漬かってもよいが、それは建設的な方法であるべきだ。

例えば、知的刺激を受けて脳内で様々なスパークが飛び交うあの瞬間のような。

 

そのようなことをふと思い立ち、スマホを通じたSNSへのアクセスを制限し、

不要なアプリはさっさとアンインストールして、浮いた時間を読書にでも当てることにしたのである。

 

もっと面白いことを探そう。

前回の記事で少し触れた機械可読性指向プログラミングについて、今回は掘り下げてみたい。

 

まず、機械可読性が求められる背景を確認した後、その定義と定量的評価方法を模索し、最後にいくつかの機械可読性向上パターンとアンチパターンを見ていきたい。

機械可読性の高いコードが求められる背景

TL;DR, even if clean

社会が複雑になればなるほど、それを支えるインフラも複雑化する。

 

ソフトウェアでもそれは例外ではなく、プロジェクトが巨大化・複雑化すれば、

その分だけコード量も増える。

 

OSは数千万行、Google検索エンジンに至っては20億行ものコードがあると言われている。

そこまで行かなくても、ことにオブジェクト指向言語のプログラムではクラスファイルの氾濫も起こりやすく、

たとえクリーンコードで人間可読性を高めても、何がどこにあるのか、人力だけで探すのは困難となる。

 

そこで、必然的に「できるだけ読まずにコードを探す」必要が出てくる。

その役割を担うのは、コンピューターである。

Not as good as Google

SEO特化サイトの出現で、Googleの検索結果の質が下がっているという指摘があるが、

それでも世界のネット検索の9割以上のシェアを誇っているGoogleの検索エンジンは、

世界で最も優れた検索機能を誇るシステムの一つであることに変わりはないだろう。

 

だが、Googleはネットでしか稼働せず、閉鎖的な組織内ネットワークやローカルPCでは機能しない。

必然的に、検索するならIDEやテキストエディター、バージョン管理システムのものを使うことになるが、

これらのサービスで使える検索機能は比較的単純である。

 

つまり、Googleにしかできないような高度な検索は、プロジェクトのソースコードについてはできないか、

できたとしても極めて困難であり、機械に読みやすいコードでないと検索しにくくなるのである。

同じ「規則」に沿ったコードの増殖

完全に同一なコードであれば共通化によって増殖を阻止できる。

だが、「似ているが同じではない」コードはそうはいかない。

 

クラス分けして整然と整えたとしても、そのクラスの数だけは似たようなコードが並びうる。

 

またクラス分けの有無に関係なく、命名規則などのコーディング規約がある場合は、規約に則った規則的コードが増殖しやすい。

 

前回も書いたが、規則的なコードの自動生成は、コンピューターが得意とする領域である。

換言すれば、どのみち規則的なコードが増殖しやすいのであれば、

もう一歩進めて、「コンピューターが生み出しやすい」コードを考えることで生産性を向上させられるのである。

機械可読性の定義

機械可読性の定性的定義は比較的容易であり、規則性が高いことと、規則がシンプルであることの2点に集約される。

規則性が高いこと

コンピューターはとかく例外に弱い。

例外が1パターンあるごとに、その例外への対応ルールを増やさなければいけない。

 

プログラムのExceptionなら工夫して一か所で処理させることは可能だろうが、

例外「条件」の場合はそう単純にはいかない。

 

例外が多すぎて、もはや規則が成り立つとは言えない状態が機械にとって最悪であるのは、容易に想像できるだろう。

 

だが、逆に、規則的な計算なら、黎明期のコンピューターでさえ人間よりもずっと速くできるのだ。

規則がシンプルであること

1, 2, 3, …と来たら、次は何だろうか?

 

多くの人は4と答えるだろうし、高校数学の数列の問題であれば、それが正解とされるだろう。

 

だが、それは、関数f(x) = ax^3 - 6ax^2 + (11a + 1)x - 6aにおけるa = 0の事例に過ぎず、

このルールを満たせばa = πの場合だろうが、a = iの場合だろうが、何でも良いのである。

(更に言えば、上記の例より高次の関数を用意して、もっと複雑な例を作ることすらできる)

 

このように、規則的であっても、複雑な規則を考えることはできる。

だが、実際に機械可読性の観点でそれに成功しているのは、高度な検索エンジンだけだ("Not as good as Google")。

 

シンプルな規則(ex. 文字列の完全一致)の方が、複雑な規則よりも検索で対応されている可能性も高いし、

自動生成の観点でも対応方法を考えやすい。

 

つまり、機械にとって読み書きしやすいのである。

(「書き」に言及したのには意味があり、後述する)

定量的定義

自然言語の可読性の定義でさえ決定的なものはなく乱立しているくらいだから、定量的な定義は容易ではない。

ただ、いくつかの定量的かつ測定可能な指標を考えることはできる。

 

1. 与えられたコードを完全自動生成するのに必要な規則の数

2. 上記規則全てに対応するコードのうち、最小となる部分集合のコード量(絶対量もしくは総コード量に占める割合)

3. 規則的な可変部分の個数と、その入れ子構造の深さ(平均も良いが、ボトルネックの考え方をするなら最大深さの方が良いかもしれない。なお、例を挙げるなら、「itemN」(N=1~10)という表記の場合は、可変部分1か所、入れ子構造の深さは1となる。)

 

1については、荒技だが、「コードのコピペを出力する」「コードファイルを読み込んで順に出力する」という究極のシンプルルールが存在し、

このルールを使うとどんなプログラムでも必要な規則数は1にできてしまう。

だが、その方法では常に2がコード量そのものとなり、また可変部分の個数もコードの文字数分となるため、他の指標は惨憺たるものになる。

 

つまり、規則の設定の仕方でこれらの指標は変わってしまうのだ。

 

そこで、一意的な定義として、以下のような形を取りたい。

ソースコードの機械可読性とは、ある同一の評価手法によって以下の積を最小化した場合の数値で表現される。

数値が小さいほど、機械可読性は高い。

 

(与えられたコードを完全自動生成するのに必要な規則の数)

×(上記規則全てに対応するコードのうち、最小となる部分集合のコード量、もしくはその総コード量に占める割合)

×(規則的な可変部分の個数)

×(可変部分の入れ子構造の深さの平均、もしくは最大値)

 

また、一部例外を除いた指標を考えたい場合、以下の形で、N%機械可読性を考えることも許される。

Nを大きくしても小さい数値を維持できるほど、機械可読性の高い領域は大きいと言える。

(与えられたコードのN%以上を自動生成するのに必要な規則の数)

×(上記規則全てに対応するコードのうち、最小となる部分集合のコード量、もしくはその総コード量に占める割合)

×(規則的な可変部分の個数)

×(可変部分の入れ子構造の深さの平均、もしくは最大値)

もちろん、この定義には、最小化=最適化計算の困難さや、未検証の数学的厳密性などの課題はあるが、

ここでは何がやりたいかという本質的な部分を示すことが目的であるので、

定義の厳密さや正確さ、計算容易性のブラッシュアップは興味のある方にお任せしたい。

なぜ「可読性」なのに「自動生成」?:検索可能性と自動生成可能性の等価仮説

ここで、ようやく可読性の問題でありながら「書く」ことに触れた理由に入ることができる。

 

これまた厳密に証明した訳ではないが、

機械が見つける(読む)ことができる「検索可能性」と、

機械が書くことができる「自動生成可能性」は、

等価ではないかと予想している。

 

固定的な文字列は容易に検索も生成もできるが、正規表現を使うべきであればその分だけ検索処理にせよ自動生成処理にせよ、実装難度は上がる。

また自然言語ともなれば、ごく一部の高度なサービスだけがそれなりの精度の検索を取り扱えて、書くことに関してはまだまだ発展途上である。

いずれも規則の複雑さが上がるほど、機械処理の難易度も高くなる好例だといえる。

 

故に、検索しやすいコードは自動生成しやすく、自動生成しやすいコードは検索しやすい、という仮説を立てて、

両者を同一視できるものとして扱っているのである。

機械可読性向上のパターンとアンチパターン

デザインパターンなどに比べればそれほど難しくない内容だと思うが、機械可読性向上のために、いくつかの考えられるパターンとアンチパターンを考えてみたい。

対応性の良さパターン

ある対象と、それに紐づけたい対象の紐づけが、記載だけで明らかなパターンは、機械可読性が高いと言える。

例としては、以下のようなものが考えられる。

・データベースのカラム名(string)と、エンティティクラスのプロパティ名が容易に一対一変換できる場合

・仕様書の適切な表と、その各要素に対応するソースコードのプロパティ等が容易に一対一変換できる場合

規則的構造パターン

ある対象の構造が規則的なパターンは、機械可読性が高いと言える。

例として、以下のようなものが考えられる。

・出力レイアウトに沿った規則的な要素配置で記されたコード

・クラス名からIntellisenseなどで示唆されるインスタンス名をいじらずにそのまま使っているコード

識別容易性パターン

異なる要素(変数名やメソッド名、クラス名など)が容易に識別可能であることは、検索可能性も自動生成可能性も向上させる。

対応性の良さにもつながる。

長すぎる・短すぎる識別記号アンチパターン

識別容易性を確保するために名前を長くし過ぎると、その分だけ正確に一致させる必要が発生する(特にワイルドカード検索使用不可のAzure DevOpsのような、部分一致検索ができないサービスの場合に顕著)。

かといって、変数をaなどのように短くし過ぎると、他と区別できなくなって、検索したら無駄な情報まで混入することとなりかねない。

これは人間可読性とも共通なので、特に異論はないだろう。

表記ゆれ・ミスタイプアンチパターン

表記の揺れやミスタイプは、多少の苛立ちの元になっても、人間可読性はそこまで落とさないだろう。

だが、機械可読性はそれだけで大いに落ちてしまう。

・訓令式ローマ字とヘボン式ローマ字が混在

・Numberedとするべきところが何故かNumberdになっている

・大小文字の並びがバラバラ:WhatsoeverとWhatSoEverが混在する、など

語彙・言語不統一アンチパターン

語彙や言語の不統一は、人間可読性もそれなりに落とすが、それ以上に機械可読性を落としてしまう。

・和英混在:NumberとBangouが混在

・英数混在:Item1とItemOneが混在

・Id、Code、Numberが意味の区別が曖昧なまま混在

・AbbreviatedFormatとShortNameがどっちも「略称」を指す語彙として混在

「人間のための例外」アンチパターン

コーディング規約などの人間が作ったルールには、往々にして人間のために設けられた例外が存在する。

これらの例外は、ルールの曖昧さの元となり、表記ゆれや語彙・言語不統一などの他のアンチパターンの誘発要因となるのみならず、

それ自身機械可読性を落とす要因になる。

 

プロジェクトが大きく、"TL;DR, even if clean"状態になっているのであれば、

多少ばかり人間可読性を犠牲にしてでも、機械可読性のために例外規則を許すべきではない。

どうせ人はそこまで読まないのだから。

 

例としては、以下のようなものが考えられる。

・原則英語だが、難解な専門用語だけはローマ字OK

→専門用語の一部だけが容易に翻訳可能なら?こうして和英混在の発生源になっていきかねない。

・原則正式名称だが、一部は略称・省略表記OK

→どこでどっちが使われているのか分かりにくくなる。

また、どんなにそのスコープが短くとも、略称の混在は識別容易性の観点ではノイズでしかない。

終わりに

一本のブログ記事としては長すぎだと言われそうだが、私の中ではあくまでも「軽く」機械可読性の問題を考えてみたつもりである。

まだまだ詰め切れていないところも多いが、ここまでの内容を要約して終わりにしようと思う。

 

プロジェクトの巨大化が検索可能性と自動生成可能性を求めるようになったが、

それらは機械可読性として、シンプルな規則で高い規則性を以て記述できることを指標とする形に定式化できる。

 

今回はその実際の計算は踏み込まなかったが、代わりにいくつかの機械可読性向上のためのパターンとアンチパターンを挙げてみた。

 

尤も、この問題は容易に結論付けられるものでもないので、今後の発展に期待したい。

 

ただ、機械可読性指向プログラミングは、自動生成や、それをバックでそのまま実装にしてしまう

ノーコード・ローコードの路線の充実・拡大なども含めた広範な可能性を秘めており、

プログラマーの生産性向上にも直結するだろう、とだけ予言しておこう。

プログラミングをしているとよく聞く話の一つに、DRY原則、Rule of 3などと呼ばれる原則がある。

 

簡単に言うと、プログラミングでは同じような処理がしばしば繰り返されるが、

だからと言ってソースコードをコピペしまくるのは愚行だ、という主張である。

 

これは一理ある話である。

コピペでは、そのコードが誤っているときや、後で変更が必要になった時に全ての箇所を変更しなければいけない。

また文字列置換などの工夫があるとはいえ、古典的なコピペは、変更箇所がある場合に名前の誤り、置き換え漏れなどのバグ誘発要因でもある。

 

しかし一方で、安易に共通化しようとすると、使用される文脈が異なる場合にある個所のみで修正が必要になった時や、

「似ているが完全に同一ではない」場合などに、却ってそれらへの対応が複雑になることがある。

 

そこで、ここでは、「似ている」=定型的なソースコードが使われる場合の扱い方について、現時点での考えをまとめてみたいと思う。

定義

定型的なソースコード

 意味合いまたは形式が類似しているソースコードのこと。

共通化

 完全に同じものをどこか一か所にまとめること。

 スーパークラスのメソッド、staticメソッド、オブジェクト指向言語以前のサブルーチン・関数など。

抽象化

 同じ意味合いのものを「やるよ」とだけは一か所で定義して、具体的な中身は「やるよ」印が付いたそれぞれの場所で記述すること。

 interface、abstractメソッドなど。

 サブクラスでのオーバーライドが可能なスーパークラスの具象メソッド(virtualメソッド)は、共通化と抽象化の中間的な存在である。

 ジェネリックプログラミングなど、戻り値や引数の型によって処理が微妙に変わる場合も、ものによっては中間的と見ることは可能である。

自動生成

 同じ形式のソースコードを、ある規則に従ってコンピューターに生成させること。

 エンティティクラスのプロパティとデータベースのカラム名、及びその対応性が分かっているときに、

 定型的な処理(DELETE/INSERT/UPDATE、主キーによる検索など)のコードを書きたい場合や、

 クラス図からプロパティとメソッドのスケルトンコードに変換したい場合など。

 オブジェクト指向の文脈で出てくる共通化・抽象化とは別の観点であり、必ずしも対立する訳ではない。

 

定型的ソースコードを扱う方法は、主に上記三種類だと考えている。

 

さて、定義でほぼ答えが出てしまっていると思うが、私の考えはこうだ。

 

完全な共通化は、完全に(内容のみならず周辺ソースの中での意味付けも)同じ処理のみに、

抽象化はそれ以外の意味合いが同じ処理に、

自動生成は、意味内容によらず、必要なコードの形式が規則的な時に、

それぞれ使用するべきである。

 

ただし、形式が規則的である場合の特殊な場合が共通化可能な場合であり、

このような場合には自動生成=単なるコピペである。

 

同様に、共通化可能な場合は、抽象化もその気なら可能だろう。

 

よって、考慮すべき順番としては、共通化が最上位に、抽象化と自動生成がその次に来る。

 

殆どのケースで完全に共通で、例外箇所が限定的であれば、共通化と抽象化の中間にあたる方法が望ましい。

 

抽象化と自動生成では、使用場面が異なるので、その定型的コードが持つ意味合いと形式を把握する必要がある。

 

同じ意味合いだが内部処理そのものは無論、そのコードの生成規則まで異なっているなら、純粋な抽象化で対処することとなる。

 

一方で、形式・規則こそ同じだが意味合いはてんでバラバラであるなら、純粋な自動生成の対象となる。

(自動生成を念頭に置いた場合、入力値については、人間にとっての可読性のみならず、機械可読性も重要になるが、それはここでは深入りしない。

多くの点で両者は相関するが、人間可読性のための規則的記述への例外や、人間の手打ちによる規則の範囲内での表記揺れなどは、

機械可読性にとっては忌むべき敵であるとだけ、ここでは言っておく)

 

だが実際には、意味合いと構造、ともに似ているがどうしても書き換えないといけない個別の箇所がある(プロパティ名など)という

ケースも多く、この場合は抽象化と自動生成の両方が適用できる。

 

単純な自動生成であればそのための入力値を引っ張ってきて、エディターで正規表現による置換操作を行う「半」自動的手法で事足りるが、

繰り返される場合はそれすらもプログラムにやらせて、できたものをそのまま受け取ることも可能であり、実はその方が長期的には効率的である。

 

なお、自動生成すべき場合は、結局コード量は多いままで(可読性・保守性への貢献はなく)、

実装の人間側の手間が一時的に減らせるだけなのではないか、という意見もありそうだが、

自動生成の利点は、可読性と保守性の観点でも確かに存在する。

 

第一に、自動生成コードは規則正しいので、規則に沿うだけで全てを理解できる。

規則正しさゆえに名前が長くなりすぎたり、ゲシュタルト崩壊を引き起こしたりして却って読みにくくなる可能性はあるが、

そのような例外は限定的で、基本的には規則性は可読性の指標となる(でなければ、誰もコーディング規約の類など作るまい?)。

 

また、生成規則に誤りがある場合でも、誤りそのものが規則的なので、

人間の手打ちによる、よく分からないランダムなエラーよりは余程対処しやすい。

 

規則的な誤りは、多くの場合、これまた規則的な文字列置換で一斉対処が可能だからである。

 

これらの理由から、私は定型的コードについては、自動生成も有効な選択肢であり、

自動生成が理論上可能な場合には、その領域の手打ちは可能な限り追放するべきだと考えている。

(この問題は、また別の機会にまとめようと考えている)

 

話を戻してまとめると、定型的なソースコードの扱い方は、

共通化:オブジェクト指向以前からのやり方(だがそれでよい時もある)

抽象化:オブジェクト指向の王道(「完全に」同じではないかもしれない時)

自動生成:敢えて言うなら機械可読性(検索可能性)指向プログラミング(※)

に大別され、最も強力な共通化でOKの場合はそれ、

そうでない場合は意味合いごとに取り扱う抽象化と形式・規則に基づく自動生成をうまく使い分けるべし、

そしてそもそも自動生成がテーブルにまだないなら積極的に乗せるべし、というところである。

 

巨大化しうるプロジェクトのコードは、できる限り人間ではなくコンピューターに検索・加工させろ、またそうしやすいように書け

≒できるだけシンプルな規則で記述ルールと変更ルールを定式化できるように書け、という方針に基づくプログラミング。

これも今回は深入りしないが、機械語に戻れと言っているのではなく、高級言語そのものが持つ人間可読性は前提である。

セカイ系とは何なのだろう?

 

セカイ系の代表とも言われるエヴァの新劇が完結したことで、ハルヒ論でも出てくるこのキーワードについて、ふと考えてみたくなった。

 

セカイ系の特徴は、「エヴァっぽさ」、あるいは「主人公たちと世界の問題(存廃なりなんなり)が、社会を挟まずに直結する」などと言ったところに落ち着くらしい。

 

だが、三大セカイ系とも言われる『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』を一気見して、

どうも私の中でのセカイ系の認識とは合致しなかったので、さてセカイ系とは何なのだろう、と改めて考え直すことにしたのである。

 

例えば、ハルヒシリーズがセカイ系的表現を用いているとされる所以は、

紛れもなくハルヒの願望実現能力(情報フレアでも良いのだが)が世界を物理法則レベルで改変・再構築しかねないスーパーパワーだからである。

 

それはエヴァでも、インパクト中の初号機+碇シンジが持つ世界再構成の能力として形に出ている(ニアサーなり、旧劇のサードインパクトなりで)。

 

これらの作品がその点においてセカイ系的である、というのはおおよそ合意できるだろう。

(ハルヒ世界ではその能力が封じ込められ、セカイ系的物語に進んでいくこと自体が徹底的に排除されている、といった話にはここでは踏み込まない)

 

対して、『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』をセカイ系と見るには、違和感を覚えた。

『ほしのこえ』のヒロイン長峰は艦隊の一員で、その艦隊でも多数いるであろうパイロットの一人にすぎない。

『イリヤの空、UFOの夏』のイリヤも、最後の一人という特殊性を帯びながらも、

UFOから地球を守るという、消極的な意味での世界存続に関与しているに過ぎない。

『最終兵器彼女』では、確かに最後に世界が滅びるさまこそエヴァ旧劇のエンディングに似ているが、

結局のところ最終兵器・ちせは不可避だった地球の滅亡を、日本、あるいは「ちせの町」という局所・ローカルで延命させていたに過ぎなかったわけである。

 

いずれも、未知の敵と戦うという意味では、使徒と戦うエヴァに似ていなくはないのかもしれないが、

せいぜい守りの局面でしかエヴァとは類似し得ない。

 

エヴァをセカイ系の元祖という時、果たして使徒との戦いだけで済んでいたテレビ版24話までを評してなお、セカイ系と言えるのか?

 

私には、そうは思えなかった。

 

私のイメージするセカイ系は、「圧倒的な能力を持つに至った個人が、その能力ゆえに社会のしがらみをすっ飛ばして、

世界、少なくともその一部を直接再構成していく物語」だからである。

 

この意味では、個人で原爆を作って東京を破滅させた『太陽を盗んだ男』や、

アニメならパプテマス・シロッコの以下の発言の方が、よほどセカイ系的世界観を端的に示していると思う。

常に世の中を動かしてきたのは、一握りの天才だ

(『機動戦士Zガンダム』最終話)

尤もこれは歴史観なので、セカイ系的世界史観とでもいうべきなのだろうが、

重要なのは、セカイ系の能力者は、ただ何かから世界を守るというだけではなく、

より積極的に世界を再構成していくだけの力を行使していくものなのではないか、という観点である。

 

セカイを外敵から守るだけで良いのなら、ガンダムも、少年がニュータイプパイロットとして戦うさまはセカイ系的とも言えるだろう。

曲がりなりにも軍や軍紀はあるが、特にZ以降、シャアの香気が感じられる時代の終わりまでの宇宙世紀ガンダムは

ニュータイプ神話を中心に据えた作品群であり、彼らニュータイプは隕石をも押し返すのである。

(人によって、境界線はCCAだったりUCだったり閃光のハサウェイだったりするだろうが、そこもまたここでは踏み込まない)

 

だが、ガンダムがセカイ系とは恐らく言わないだろう。

それはエヴァと異なり、私がセカイ系としては違和感を覚えた作品群同様、ガンダムのパイロットは守りで世界の現状を維持するだけで、

攻めの形で世界を再構成しようと思ったわけではないからである。

 

その意味では、CCAでシャアの隕石落としが成功していれば、ガンダムはセカイ系らしさを持ち始めただろう。

 

だが、主役がそれをやるのがセカイ系である。

(シャア主役説にもここでは触れない。ハマーンやザビ家のコロニー落としは、それだけではセカイ系とは言えないだろう、とだけ記しておく)

 

更に言えば、圧倒的才能を行使しても、それがただの社会変革止まりであれば、それはセカイ系ではない。

例えば『DEATH NOTE』は、その意味でセカイ系ではない。

 

セカイ系には、背景に実存主義哲学の血が流れている必要があると思う。

それは、「私はここにいて良いのか?」「世界は私の価値を認め得る存在なのか?」「私にはどんな価値があるのか?」という、

19世紀欧州から世界に広まっていったニヒリズムに抗うための問いである。

 

エヴァでもハルヒでも、彼らの能力行使の背景にはそのような問いがある。

エヴァでは「レゾンデートル」が持ち出されるし、

ハルヒも、明確に「私はここにいる」と発信せずにはいられない。

 

更に言えば、地ならしで世界の8割を壊滅させた進撃の巨人でも、

サルトル哲学で重要な「自由」という言葉が一つの中心に置かれており、実存主義的な香りを帯びており、これもセカイ系と言えるだろう。

 

実存主義的な問いへの答えが内外いずれかで肯定的なものではない場合、

あるいは肯定的判断が出されるのが遅すぎる場合は、セカイ系世界は変化していかざるを得ない。

世界が守られるセカイ系では、十分に早い段階で内外の肯定を得られる。

 

『太陽を盗んだ男』の城戸はその問いに最初から無意識のうちにノーと答えていたがゆえに東京で原爆を炸裂させ、

旧劇エヴァや進撃の巨人ではその回答が遅すぎたために世界は(ほぼ)破滅し、

ハルヒや新劇エヴァではその回答が間に合ったために世界は回復する。

(そしてその後も続いていくハルヒ世界では、セカイ系的解決は排除し続けていくことになる)

 

まとめよう。

 

セカイ系とは、「圧倒的能力を持つ主役級の個人が、実存主義哲学的不安から、

能力を行使して、社会をすっ飛ばして世界を積極的かつ直接的に再構成しようとする」作品群である。

守りだけでは、消極的選択止まりであり、セカイ系だとは言えない。
その意味で、エヴァや進撃の巨人はセカイ系だが、所謂三大セカイ系は、実はセカイ系ではない。

(ハルヒは、セカイ系を表現に取り込んでいるとはいえるが、取り込みつつそこに進まない選択をしているがゆえに、

作品全体としてはセカイ系から外れるだろう。だが、それはまた別の話)

私はオートメーション中毒だ。

 

自動化できることは自動化してしまいたいと思っている。

 

究極的な理想を言うなら、面倒な仕事の類はワンクリックで終わらせてしまいたい。

あるいは、そもそも最初からAIなりロボットなりの代理労働者を立てて、生活のウェイトをプライベートに全振りしたい。

 

そう思っている。

 

日本では未だに努力神話が根強いが、人間の努力でしかできないことならまだしも、

人間が努力せずとも機械に投げればはるかに効率的にこなせることさえも「努力」とやらが未だに賛美されているから質が悪い。

 

数学者や科学者がはるか昔からシンプルな式にエレガントさと美しさを感じ取ってきたように、

労働も泥臭さなどという醜いものは可能な限り排除し、エレガントで美しく、シンプルな方法で多大な成果を上げるべきである。

 

自動化できない領域は個人の才能に依存することとなり、属人性の問題を産み、組織を硬直させる。

そのような領域を可能な限り減らすことで、誰にやらせても望ましい結果を簡単に引き出すことができるようになる。

 

属人性の問題が発生するのなら、そいつにしかない特権的な才能に依存する領域を自動化によってコモディティ化することはできないか?

それが私の考える最初の問いである。

 

仕事での特権の剥奪による平等化は、頭数が減っていくばかりの日本において、生産性を再び取り戻していく手段になるだろう。

 

個人が有能である必要はない。

個人+機械の「系」としての能力を上げれば、無能な個人でも、有能な個人単体よりもはるかに大きな成果を上げることができる。

 

少なくとも90%以上の領域はそうであるし、残り10%、いわば天才の領域にしても最先端のAIはその牙城を確実に崩しつつある。

小説や漫画を発表するAIもいるし、単純なゲームならもはやAIの無双に限りなく近づいている。

 

オートメーションが進み、産業が洗練されたとしても、それは個人の趣味まで押しつぶすものではない。

車輪の再発明や泥臭い作業は、その領域で個々人が好きにやればよい。

 

やりすぎると職が失われる?

社会が維持できるなら人は働く必要はないし、無理に働かせるのもナンセンスだ。

その答えはベーシックインカムの導入しかない。

AIを新たな奴隷として、人類全体が特権的富裕層になってしまえばよい。

AIやロボット、機械などは人間ではないから、人権を与えずとも全く問題はない。

 

私はそう思うのである。

エビングハウスの忘却曲線ではないが、人は見たものを短時間で忘れてしまうというから、早めに書いておこうと思う。

 

Twitterでシェアする際に、スポイラーを含めないために何文字必要かは知らないから、SNSでの共有時に漏れていたらその時は不運だと思ってほしい。

(まあ、本気でよけたい人ならワードミュートもかけていると思うので)

 

さて、タイトルの通り、シン・エヴァンゲリオン𝄇の感想である。

 

「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と自らキャッチフレーズにしている通り、全てのエヴァンゲリオンを終わらせに来ている作品だったというのが総じての第一印象である。

 

第一に、伏線の回収がかなり徹底されていた。

惣流が式波に変わったのは綾波同様シリーズの一体だったからであり、

渚カヲルはテレビ版、旧劇の記憶をも宿した立場に置かれることで、

シン・エヴァ世界がガンダムでいうところの∀のように「すべての世界線を含む」存在であることが明らかにされ、

主要人物の大半にニア・サード・インパクトを生き延びさせることでカップリング問題に公式決着をつけ、

Qで旧作から外れた世界線はアディショナル・インパクトによって大枠では修正され、

アスカはやはり使徒に侵食されていたが、そのことによって使徒への(エヴァ以外の)対抗手段の開発が可能になったことも判明し、

旧作よりも深く碇ゲンドウの内面が解き明かされ、

 

要するに、ほぼ全ての謎を解き明かしに来ていたように思う。

 

公式の世界線をつなげることで公式を終わらせ、謎を残さないことで二次創作をも封じ込める。

 

その意味で、庵野版エヴァは、本気で今作を以て終わらせようとしているのだろう。

 

第二に、14歳からの離脱もまた、エヴァを終わらせる意思表明だといえよう。

漫画版でも世界の回復に成功しているが、本作ではその先を行き、最終シーンでシンジを成人させる。

 

14歳というキー年齢を明示的に通過させることで、少なくともその世界線では、シンジはエヴァには乗れなくした。

更にシンジ、綾波、アスカ、マリといった乗り手をエヴァから解放する道をシンジ自らに選ばせることで、世界としてもエヴァが必要のないところに至った。

 

この意味でも、庵野版エヴァはやはりこれで本当に終わりなのだろう。

その意味では、この第一印象はおそらく正しい。

 

だが、エヴァは人気コンテンツである。

ここで、タイトルに仕込まれた繰り返し記号「𝄇」が効いてくるように思われる。

 

庵野版エヴァは終わりだが、おそらくその先、誰か別の人がリメイクすることをも予見しているのではないかと考えられる。

 

次は、『Evangelion REBOOT』が何年か後にLegendary Picturesかどこかから生まれたとしてもおかしくはない。

そうして、いずれ再びエヴァ世界は動き出す(「𝄆」)であろう。

(なぜなら、テレビ版、旧劇、新劇、漫画版、…それぞれ微妙に筋書きが異なり、記号通りの厳密な意味での「繰り返し」はまだ一度も達成されていないからである)

 

実は、それを示唆するのはタイトルだけではない。

 

「さようなら」の作中解釈にもうまいこと仕込まれている。

 

さようならは何かと綾波シリーズ(「そっくりさん」)が問うた時の答えは、

「また会うためのおまじない」

である。

 

その「さようなら」をあえて使うことで、また再び会うことをより明確に想定した「再見」という表現を作中に入れることで、

エヴァとの別れに見せかけて、「きっとエヴァにまた出会うよ」という予言を仕込んでいる…どうにも、そう思えてならないのである。

 

その意味を、一歩進んで考えてみよう。

 

エヴァの解釈として、「虚構から現実に引き戻す、現実を生きよ」というメッセージを読み取る一派がいるが、

真のメッセージはリメイクされることの予言を含むことによって、反転するように思われる。

 

「人間は物語から逃れることができない。物語る動物だ」

 

歴史はhi-storyだし、世界を変える人間はビジョンという形で物語を語るし、個人の「思い出」なども物語だ。

我々は現実世界にいながら、何らかのストーリーを求めることから常に逃れられない。

だからフェイクニュースなども勢いよく広まる。

 

現実vs虚構という二項対立でとらえるのではなく、虚構とうまく共存せよ…そういう弁証法が隠れている、とも言えるかもしれない。

 

うまくまとめ切れてはいないが、初期感想はこんなところだ。

SFなどで、宇宙空間を孤独に漂う人物が描かれることがあるが、たとえ地球上にいても、人は彼らの抱える「宇宙の孤独」とさほど遠いところにはいないように思う。

 

人間は孤独だ。

 

友人、恋人、家族などの「人間関係」を構築することはできるかもしれない。

 

しかし、彼らとコミュニケーションを取ったところで、あなたは誰のことも本当に理解することはできない。

また逆に、あなたも誰からも本当の意味で理解されることはない。

 

ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)が実用化され、脳と脳がBCIを介して、言語の制約を超えてやり取りできるようになったとしても、インターフェースの制約を逃れることはできないだろう。

 

プログラムであれば、相手が知らなくてもよい変数や関数、メソッドなどはprivateにしても機能はする。

 

それは社会機能も同じで、我々は99%以上の人間の仕事の詳細を知らないし、ともすれば顔すらも知らないが、それでも社会システムは機能するにはするであろう。

 

だが、そうして社会を機能させている我々は、中国語を知らずに、操作方法だけを理解して恰も中国語を知っているかのように振舞う、あの「中国語の部屋」の中の人と大差ないように思われる。

 

自分も相手もそうであるとして、よく言われるように「誰かのために生きる」ことは、はっきり言ってしまえば虚しいことなのではなかろうか?

 

相手は決してあなたを本当には理解しないし、それ故全人格を考慮した評価を下すこともできない。

 

歴史の中で、あなたの一定の側面が適当に切り取られ、時間とともにまた別の「理解」と評価が与えられるのみである。

 

更に言ってしまえば、人類文明が存続するオッズは極めて低いので、いずれはその鍵カッコつきの「理解」者も消えてしまうことだろう。

 

あなたが誰かのためにしたことは、そうして完全な無へと還っていく。

 

かといって、自分自身のために生きることもまた、どこかしら虚しいものである。

 

フロイトが無意識の発見によって暴き出したように、我々は自分自身のことも、究極的には理解しきれないからだ。

 

結局、自分のためと言っても、自分の中の目に見える側面のために尽くすか、見えない自分に振り回されることとなるだけ。

 

そして、今のところはどうあがいても、シーシュポスの岩のように、人生の成功は死によって無化されることを免れない。

 

死の問題に左右されるとき、人間は大きく分けて二つのパターンの行動をとるという。

 

何か実績を残して、自らの名を永久に残そうとするか、死を忘れるために享楽に走るかだ。

 

しかし、そのいずれも、また逃避先・道具としての神も、最終的には意味をなくす。

 

今、一見するとあなたを「理解」するかのように振舞う誰かがいても、いない大宇宙を一人宇宙船で漂っていたとしても、あなたのやっていることが究極的に残すものには、結局のところ大差ないのだ。

 

ニーチェのように「それでももう一度」と叫ぶか、シーシュポスのように黙って岩を運び直すか?

 

私は、とうの昔にそのどちらもする気力が錆びついてしまった。

学習性無力感とも言えるかもしれない。

 

とはいえ、積極的に人生から一抜けする気にもなれないので、こうしてここにいる。

 

面白いことを求め続けるのは、とうに人生の時間を持て余している私の、せめてもの抵抗なのだろう。