脳を鍛えるというお話:脳トレよりも思考を深めたい | The Pioneerであるということ

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何を読み取るかはあなた次第。

脳は鍛えないと衰える。

 

そんなフレーズが、まだ幼いころに流行っていたものだが、この頃その通りであると実感する。

 

ふと何かを思い出したいときに、昔学校で学んだはずのことでもすっと頭に思い浮かばなかったり、

座学の場に赴いて、集中力を維持できる時間が短くなってきていることを感じたりなどするからである。

 

「脳を鍛える」というフレーズは漠然としているが、それができるとうたうアプリなり書籍なりは、

大抵の場合、つまるところ「脳トレ」に過ぎない。

 

脳トレは、場合によっては脳の基礎的な能力を鍛える手段になるのは否定しないが、

筋トレと同じで、それだけでは応用は効かない。

 

人生は、死ぬまでの暇つぶしかもに過ぎない人もいれば、何かしら社会的あるいは個人的な使命に追われてどこかに向かっていくものだという人もいるだろう。

 

だが、いずれにしても、人生における頭の使い方は、トレーニングのような定型的なものではないし、

テストやクイズ、あるいは演算可能なゲームなどのように、明確な答えが既に知られているものでもない。

 

トレーニングで基礎能力を鍛えたつもりになったとしても、せいぜい認知症予防の最低ラインを引けるだけであり、

人生を豊かにする知性が得られる訳ではない。

 

簡単な四則計算や図形操作だけで、優れた哲学者や科学者になったり、革新的な起業家になったり、一流の政治家になったりすることができるであろうか?

数学者であれば「簡単な公理からなら」とはいうかもしれないが、殆どの場合は否である。

 

であるが故に、答えのある問題を基礎体力をつけるために解くのは意味がないとは思わないが、

答えのない問題にぶつかってこそ、意味のある脳の鍛え方になるのではないか。

 

そのためには、「基礎体力」は必要かもしれないが、より重要なのは答えの出ていない問題に、仮の答えを出す力だと思う。

ある時は内容の正確性よりもそこへ至るスピードが重視され、

別の時には長期的な有用性や再現性が重視されるのであろうが、

いずれにしても、脳を真に衰えさせるのは、良質な情報との接触不足、思考停止、そして思考の放棄なのではないか?

 

足し算だけ速くできるバカになるのでは、人生も面白くはないだろう。

そうなりたくはないので、何かしら良質な情報に接触し、ただ触れるのみではなく、自分の考えをまとめることを意識したいと思うこの頃である。