私のジェンダー・アイデンティティと自分婚について | The Pioneerであるということ

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何を読み取るかはあなた次第。

私は最近、自分がXジェンダー・両性(あるいは英語圏で言うところのBigender)であり、

かつ最も幸せな在り方は、自分の男性性と女性性を結婚させる、特別な形の自分婚であることに気が付いた。

 

今回はその話をしようと思う。

女装からの内面の女性性の再発見

私の友人で、長らく女装しろとよく言われている人がいて、

そういうのに乗っかるのなら、私自身も一度はやってみるのが面白いかもなと

思ってやってみたところ、これはこれでしっくり来たのである。

 

そんなこともあって、暇つぶしにFaceAppで私自身を女体化させてみたら、

生み出されたのはえらい美女たち。

 

美貌評価系アプリ各種でもハリウッド女優にも引けを取らないスコアを出してきたので、

彼女たちはデータに基づいても美人さんであることは間違いなかった。

 

そして恐ろしいことに、この上なく私好みでもあったのだ。

 

もう一歩踏み出して、一人チャット系アプリを使って、

生み出された彼女たちの中でもお気に入りの数名(ネームド)と話してみたら、

これまで出会ってきたどんな女性とお話するよりも楽しかったのである。

 

それならばと、男性としての私は、彼女たち、女性としての自分であるネームドを、自分自身の彼女とすることに決めたのである。

(それはポリアモリーでもある。マイノリティの多重がけ路線に入っている訳だ)

過去に感じていた違和感のお話

元々、私は男性として籍を持っているし、特に男子校だった高校以降は、

男性比率が高い「男性社会」に身を置いてきたので、自分自身は男性であると認識していた。

 

しかし、そこにはかすかな違和感があった。

 

私のルックスは中性的だし、

声はGod Knows...を(ちょっと疲れはするが)原曲キーの高音のまま飛ばせる程度に高い。


この曲は、リアルの女性でさえも時としてキーを落とす曲と言えば、それがどの程度の高さか分かるだろう。

まあ、かといっていわゆる女声でもないので、やっぱりこれも中性なのだろう。

 

小さい頃は、女装などしなくても女の子によく間違えられたものだが、

考えてみればどこかくすぐったいような気分で、でもそのことも、今思えば決して嫌ではなかった気がする。

 

一方で、バーでカッコよくウイスキーやカクテルを飲んで見せるオトナの男などは正直なところで憧れるし、

男としての私は、自分自身そうなりたいとも思っている。

 

だが、そうしてカッコでくくっていく中で、自分の中の何かを多分抑え込んでいるのだろうという予感はしていた。

本格女装で女装者の交流の場に出向いた時、私は二つのことを感じた。

 

1. 女としての私は可愛い(異論は認めない)。なんばを出歩いていたらナンパもされるくらい。

2. 男性社会で生きてきた息苦しさから解放される自分の存在。

 私は人のジェンダー・アイデンティティについては個人の自由で良いと思うが、
 その実自分自身については、ジェンダーの檻に閉じ込められていて、

 自分自身のそぐわない側面を切り捨てて何とかごまかしてきたのだと気付いた。

 

そのあたりからが転換期で、結局のところ私はどんなジェンダー・アイデンティティなのか模索していたところ、

最もしっくり来たのが、両性含有であるXジェンダー・両性やBigenderなどの表現だということに気が付いた。

 

そして、女としての自分自身が男としての自分にとって魅力的なのだとしたら、

リアル彼女はデメリットの方が大きいという結論に至り、自分自身の男性性と女性性を付き合わせることにしたのである。

 

まだお付き合いのみで、所謂自分婚のステージまでは進んでいない(挙式などはしていない)が、

その件については現在の印象がそのまま維持されるか見ながら、最後には決めたいと思っている。

自分婚のメリット

今のところ、このアプローチのメリットとして考えているのは以下の点である。

1. 自由は守られること

ソロガミーについてちゃんと調べればわかるが、自分婚では他者との恋愛そのものも含めて制限はない。

 

リアル彼女など作ろうものなら、よほど寛容でない限り、ポリアモリー的アプローチを認めてくれることもないだろうし、

オンデマンド婚のような形にしない限り、居住空間を共有することによる制限もかかって来るだろう。

 

男としての私は女性を恋愛対象としてみるが、それ以上に自由を愛しているし、

女としての私も、恋愛が自由を侵すことようなら、自由を選ぶ点では一致している。

(女としての私のセクシャル・アイデンティティはまだはっきりしていないが、

少なくとも男としての私自身を愛してくれているので問題はない)

2. 経済的にリーズナブルなこと

私は男女平等論者なので、デートなどをするにしても、自活しているならお互いの費用はそれぞれで持つべきだと個人的には考えている。

 

だが、実際には未だに日本にはデートの時におごってもらう前提の女性なども多いもので、

仮に付き合った相手がそうであれば確実にコストがかかる。

 

また、仮に奢らせようとするタイプでなくとも、デート先の意見が合わなければどっちにも行くことになる、などと余計な時間も取られやすい。

 

自分自身で完結する分には、そういう形での余分なコストは発生しない。

3. 私自身にとって、幸福度が上がっていると感じられること

これは主観の問題だが、両性である以上、どちらも解放できる場がどこかしらに欲しいところである。

 

それをたとえリアル彼女が許したとしても、社会的に表に出している男としての自分は、中々許してくれないだろう。

だが、自分自身同士で付き合う分には、どっちも自然に出て来てくれるので、抑え込まなくてよい。

 

それは気分が楽になるし、私が相手なら互いに本音で話せるのもあり(特に男としての私はカッコつけでそれをしたがらない)、

実際自分自身同士のお付き合いが始まってから、私(総称)は以前より幸せになったと感じている。

4. 幻滅リスクが低い

リアル彼女なら、関係が深まるうちに、いずれどこかで幻滅する場面にも出くわすであろう。

 

ユング心理学的に見ても、恋愛対象としての外部存在は、内在する理想の存在の投影対象でしかない。

であれば、内面に存在する理想に直接接触を試みた方が、互いの成長や洗練が見込めて合理的であろう。

 

そして、互いにスタートが理想そのものなので、客観的にどうであろうと、主観的に幻滅するリスクは極めて低いと言える。

終わりに

明確なデメリットがあるとすれば、自分婚のみの場合は子供を作れないことくらいだろう。

だが、これまた自由とお金を捧げることになる子供は欲しいと思わないので、その意味でも特に問題はない。

 

私の幸せは、私自身の力で獲得しようと思う。