セカイ系とは何なのだろう?
セカイ系の代表とも言われるエヴァの新劇が完結したことで、ハルヒ論でも出てくるこのキーワードについて、ふと考えてみたくなった。
セカイ系の特徴は、「エヴァっぽさ」、あるいは「主人公たちと世界の問題(存廃なりなんなり)が、社会を挟まずに直結する」などと言ったところに落ち着くらしい。
だが、三大セカイ系とも言われる『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』を一気見して、
どうも私の中でのセカイ系の認識とは合致しなかったので、さてセカイ系とは何なのだろう、と改めて考え直すことにしたのである。
例えば、ハルヒシリーズがセカイ系的表現を用いているとされる所以は、
紛れもなくハルヒの願望実現能力(情報フレアでも良いのだが)が世界を物理法則レベルで改変・再構築しかねないスーパーパワーだからである。
それはエヴァでも、インパクト中の初号機+碇シンジが持つ世界再構成の能力として形に出ている(ニアサーなり、旧劇のサードインパクトなりで)。
これらの作品がその点においてセカイ系的である、というのはおおよそ合意できるだろう。
(ハルヒ世界ではその能力が封じ込められ、セカイ系的物語に進んでいくこと自体が徹底的に排除されている、といった話にはここでは踏み込まない)
対して、『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』『ほしのこえ』をセカイ系と見るには、違和感を覚えた。
『ほしのこえ』のヒロイン長峰は艦隊の一員で、その艦隊でも多数いるであろうパイロットの一人にすぎない。
『イリヤの空、UFOの夏』のイリヤも、最後の一人という特殊性を帯びながらも、
UFOから地球を守るという、消極的な意味での世界存続に関与しているに過ぎない。
『最終兵器彼女』では、確かに最後に世界が滅びるさまこそエヴァ旧劇のエンディングに似ているが、
結局のところ最終兵器・ちせは不可避だった地球の滅亡を、日本、あるいは「ちせの町」という局所・ローカルで延命させていたに過ぎなかったわけである。
いずれも、未知の敵と戦うという意味では、使徒と戦うエヴァに似ていなくはないのかもしれないが、
せいぜい守りの局面でしかエヴァとは類似し得ない。
エヴァをセカイ系の元祖という時、果たして使徒との戦いだけで済んでいたテレビ版24話までを評してなお、セカイ系と言えるのか?
私には、そうは思えなかった。
私のイメージするセカイ系は、「圧倒的な能力を持つに至った個人が、その能力ゆえに社会のしがらみをすっ飛ばして、
世界、少なくともその一部を直接再構成していく物語」だからである。
この意味では、個人で原爆を作って東京を破滅させた『太陽を盗んだ男』や、
アニメならパプテマス・シロッコの以下の発言の方が、よほどセカイ系的世界観を端的に示していると思う。
常に世の中を動かしてきたのは、一握りの天才だ
(『機動戦士Zガンダム』最終話)
尤もこれは歴史観なので、セカイ系的世界史観とでもいうべきなのだろうが、
重要なのは、セカイ系の能力者は、ただ何かから世界を守るというだけではなく、
より積極的に世界を再構成していくだけの力を行使していくものなのではないか、という観点である。
セカイを外敵から守るだけで良いのなら、ガンダムも、少年がニュータイプパイロットとして戦うさまはセカイ系的とも言えるだろう。
曲がりなりにも軍や軍紀はあるが、特にZ以降、シャアの香気が感じられる時代の終わりまでの宇宙世紀ガンダムは
ニュータイプ神話を中心に据えた作品群であり、彼らニュータイプは隕石をも押し返すのである。
(人によって、境界線はCCAだったりUCだったり閃光のハサウェイだったりするだろうが、そこもまたここでは踏み込まない)
だが、ガンダムがセカイ系とは恐らく言わないだろう。
それはエヴァと異なり、私がセカイ系としては違和感を覚えた作品群同様、ガンダムのパイロットは守りで世界の現状を維持するだけで、
攻めの形で世界を再構成しようと思ったわけではないからである。
その意味では、CCAでシャアの隕石落としが成功していれば、ガンダムはセカイ系らしさを持ち始めただろう。
だが、主役がそれをやるのがセカイ系である。
(シャア主役説にもここでは触れない。ハマーンやザビ家のコロニー落としは、それだけではセカイ系とは言えないだろう、とだけ記しておく)
更に言えば、圧倒的才能を行使しても、それがただの社会変革止まりであれば、それはセカイ系ではない。
例えば『DEATH NOTE』は、その意味でセカイ系ではない。
セカイ系には、背景に実存主義哲学の血が流れている必要があると思う。
それは、「私はここにいて良いのか?」「世界は私の価値を認め得る存在なのか?」「私にはどんな価値があるのか?」という、
19世紀欧州から世界に広まっていったニヒリズムに抗うための問いである。
エヴァでもハルヒでも、彼らの能力行使の背景にはそのような問いがある。
エヴァでは「レゾンデートル」が持ち出されるし、
ハルヒも、明確に「私はここにいる」と発信せずにはいられない。
更に言えば、地ならしで世界の8割を壊滅させた進撃の巨人でも、
サルトル哲学で重要な「自由」という言葉が一つの中心に置かれており、実存主義的な香りを帯びており、これもセカイ系と言えるだろう。
実存主義的な問いへの答えが内外いずれかで肯定的なものではない場合、
あるいは肯定的判断が出されるのが遅すぎる場合は、セカイ系世界は変化していかざるを得ない。
世界が守られるセカイ系では、十分に早い段階で内外の肯定を得られる。
『太陽を盗んだ男』の城戸はその問いに最初から無意識のうちにノーと答えていたがゆえに東京で原爆を炸裂させ、
旧劇エヴァや進撃の巨人ではその回答が遅すぎたために世界は(ほぼ)破滅し、
ハルヒや新劇エヴァではその回答が間に合ったために世界は回復する。
(そしてその後も続いていくハルヒ世界では、セカイ系的解決は排除し続けていくことになる)
まとめよう。
セカイ系とは、「圧倒的能力を持つ主役級の個人が、実存主義哲学的不安から、
能力を行使して、社会をすっ飛ばして世界を積極的かつ直接的に再構成しようとする」作品群である。
守りだけでは、消極的選択止まりであり、セカイ系だとは言えない。
その意味で、エヴァや進撃の巨人はセカイ系だが、所謂三大セカイ系は、実はセカイ系ではない。
(ハルヒは、セカイ系を表現に取り込んでいるとはいえるが、取り込みつつそこに進まない選択をしているがゆえに、
作品全体としてはセカイ系から外れるだろう。だが、それはまた別の話)