昨日の朝に『心のめがね』という記事を書き上げ、

夜にはブログとはすっかり別モードで、映画鑑賞。

 

そんななか、

急に降ってわいてきたのは、

 

 

『あ、取り替えなくてもいいやん。最後の部分はその先に始まる自動運転みたいなものやな』 でした。

 

 

 

 

 

 

おはようございます。

つぎたにあきです。

 

 

昨日のこの記事、後半部分のことです。

 

 

 

 

新しく書き換えるなら、きっともっと簡単になる。

こんなふうに。

 

 

ーーー

 

傷や曇りだらけのめがねをかけていたら、

傷や曇りのある世界が見える。

 

青いレンズのめがねをかけていたら、

世界はブルーに見える。

 

 

 

目の前の現実を変えることに必死になって、

心と身体を疲弊させてしまうよりも、

 

 

いま、

自分がどんな《心のめがね》をかけて目の前の現実を見ているのかに、

気付こうとしてみよう。

 

 

ーーー

 

 

 

これで、変わりはじめる。

これで、すでに変わりはじめている

 

 

 

ーーー

 

 

たとえば、

自分でも気がつかないうちに、

「💢」←こんな傷がある《心のめがね》で世界を見ているとしたら、

 

 

 

ふつうの笑顔の人のことも『顔は笑ってるけど本心は怒ってるんでしょ』

 

ふつうに物を置いただけの人のしぐさも『あ、なんか怒ってる』

 

ふつうに意見を述べただけの人のことも『文句を言っている』

 

 

 

 

極端なはなし、

こんなふうに、独自に変換して受け取ってしまうことがある。

(しかも「自分に対して」という前提で)

 

 

 

 

 

なにか気持ちがしんどいときや、

責められているような気がするとき、

心が重いとき、不安なときというのは、

 

 

いいかえれば、

いま、自分がどんな《心のめがね》をかけて世界を見ているのかに気付くチャンスなんですね。

 

 

『あ、わたしは「💢」こんな傷が入った《心のめがね》で世界を見ている』、

『あ、わたしはこんな《心のめがね》で相手を見ていたのか』というように。

 

 

 

そうやって自分の《心のめがね》に気付いておきさえすれば、

独自の変換をしてしまったとしても、

また自分で修正することができる。

 

『ああ、いつもの癖で相手のことをそう見ているけど、ほんとうは違うのかもしれないな』

と。

 

そこであたらしい道がちょっと開ける。

 

 

 

 

 

『いまかけている《心のめがね》を拭いてみる・取り替えてみる』

というのは、

自分の《心のめがねに》気付こうとした瞬間から勝手に始まる自動運転みたいなもの、

自然にそうなってゆくものなのかもしれないなあ。

なんて思ったのでした。

 

 

 

まずは、

気付いてみようとするところから。

 

 

 

 

さて、

今日もよい一日を!

 

 

 

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Flow Life Labo   AKI TSUGITANI