ある日、俺は思い切って絵玲奈を市内のお祭りに誘った。当日は休日とはいえ、開催の時間帯がやや遅かったため、少しハードルが高いと思っていた。しかし、意外にも絵玲奈はすぐにOKの連絡をしてくれた。

その日の夜、俺は会場近くの市役所前で絵玲奈が来るのを待っていた。浴衣姿の彼女はあでやかで、俺は胸の高鳴りを抑えるのに必死であった。

最初、俺と絵玲奈は近くで寄り添って歩いていた。しかし、人混みではぐれそうになったときに、俺は思わず彼女の手を握った。その瞬間は、お互い照れるようにうつむいてしまったが、その後は、そのままずっと絵玲奈の手をつなぎ、俺たちはこの夜のお祭りを楽しんでいた。

最後に打ち上げ花火を見た後、俺は絵玲奈を家まで送っていった。本音を言えば、ここでキスまでいきたかった。絵玲奈がじっと俺を見ているような時があったり、彼女の家に着いたときも、なかなか家の中に入ろうとしなかったりなど、チャンスがあったとは思うのだが、ここでチキンな自分が出てしまった。

そんな自分にため息をつきながら、俺も自宅に帰ることにした。その途中、子どもをつれて家路に着く家族とすれ違った。恐らく、あのお祭りの帰りなのだろう。

その瞬間、これまで抱えていた引っ掛かりのなぞが解けた。

ここに来る少し前、下の子が小学校に上がったのをきっかけに、俺は家族で久々に出かけていた。それが、このお祭りであったのだ。

時間軸の流れが違っているとはいえ、もう、向こうでも数日が経っていると聞いた。夢の中で、妻の真希が目覚めない俺の手を握り、涙するのを2・3日前に見ていたことが、脳裏によみがえってきた。

「真希と出会ってしまった自分は、絵玲奈に向き合うことはできない」

こっちの世界で、実際にどうなるかはまだ分からない。だが、少なくとも今は、それが、俺が導き出した答えであった。それからというもの、絵玲奈との時間は確かに楽しい時間ではあったが、どこか身が入っていない状態であった。そして、そんな俺を、絵玲奈が見過ごすはずもなかった。
注文を済ませて席に着いたが、俺は何から話していいか分からなかった。まずは当たり障りのない話題を振ってみることにした。

「三嶋さん、確かA組だったよね、天野先生のクラスの…。」

「せっかくなんだから、名前で呼んでよ。絵玲奈って!」

「あ、ああ。」

目の前で親しげに話しかけてくる彼女に、俺は心拍が急に上がるのがはっきりと感じ取れた。そして、やはり、可愛いなと思わずにはいられなかった。

最初こそ、緊張して上手く話せずにいた。しかし、長男と長女であること、校舎は違うが、中学の時に通っていた塾と講師が同じであったという共通点が見つかり出し、そこから次第にリラックスしていき、話も盛り上がっていった。

今日のテストの手応えはどうだったのか、部活ではどんなことがあったのか、中学の頃はどんな風に過ごしてきていていたのかなど、楽しく話をしていると、時間はあっという間に過ぎていった。

「さて、そろそろいい時間だし帰ろうか、絵玲奈。」

「うん、今日は誘ってくれてありがとう!私、こうして2人きりで過ごすの、初めてだったから、何かすごく新鮮。」

俺は絵玲奈を駅まで送っていき、その日は家路に着いた。帰り道、俺は天に向かって叫びたいくらい嬉しさがあふれていた。帰ってから、今日のことを思い出しては、一人、何度もガッツポーズしていた。

その日以来、土日に時々、絵玲奈と出かけることが増えていった。高校生だから、図書館や公園、せいぜいボーリングや映画など、行ける場所は限られているが、それでも、こういった時間はこれまで無かったため、何だか今までにない、正確には、どこかで味わってはいるが、かなり久々の高揚感を俺は覚えた。
「やべぇ、忘れ物忘れ物っと。」

仲間や相談できる人ができ、部活にも何とか慣れてきて、俺はここでの生活のリズムをつかみ始めていた。この日は期末テストの真っ最中であり、数学のノートを忘れていた俺は、それを回収しに教室に向かっていた。

「きゃあ!」

「うっわ、ゴメン!!」

慌てていた俺は、周りが見えてなかったため、教室の入り口で思い切り誰かとぶつかってしまった。そして、ぶつかった相手に気づくと、俺は驚愕し、自分の目を疑った。

「あ、み、三嶋さん。」

「あれ、小森君…だっけ。どうしたの?」

俺は思わずドギマギした。かつて、高校入学したばかりの頃に憧れていた三嶋絵玲奈と、言葉を交わす機会がめぐってきたからである。

「現実」には、話をする機会などなかった。「当時」の俺がチキンであったこと、女子と楽しく会話できるほどのセンスもなく、また、そのための努力も特にしていなかったからである。

一方で、仮にそういう努力をしたとしても、恐らく、話すことはなかったと思う。そこには、三嶋側の事情もあった。

「あ、いや、数学のノート忘れててな。」

「そっか、明日の期末、数学あるもんね。じゃあ、私、図書館に行くから。」

「あ、待った!」

そう言って、俺は移動しようとしていた彼女を呼び止めた。

「テスト終わったら、ミスドにでも行かないか?その日は部活無いしさ。」

断られるかな…。そう思っていたが、彼女は意外にも快く応じてくれた。

「いいよ、行こう行こう!」

テスト終了後、俺たちは駐輪場で待ち合わせ、駅前のミスドに立ち寄った。ここは、駅近くで学校も多いというその立地条件から、自分の学校の生徒はもちろん、他校の生徒たちもよく使う、憩いの場所となっていた。
「大丈夫かい?倒れるまでやるっていうのは、いわゆる美徳と考えられていることだけど、本当に倒れたらまずいから、そこは相談して欲しかったな。あ、僕は部長の生野、よろしくね。」

どうやら、外周を走っている途中で意識を失い、ここまで担がれたということであった。若干、頭痛やめまいが残っていたが、幸い、大きなケガとかはなかった。生野からは、今日・明日は部活を休むように言われ、明後日からまた参加することとなった。

土曜日、朝練の準備をしていると、生野が俺に話しかけてきた。

「おーい、小森君。今日は部活が終わったら、僕とラリーしようか?」

「あ、はい。よろしくお願いします。」

この間倒れたとき、運んでもらった恩もあり、また、今の時点での自分の実力を測っておきたいと考え、俺は申し出に応じることにした。

部活終了後、次のバスケットボール部が来るまでの1時間の間に、俺たちは軽めの昼食を取り、ラリーを始めた。しばらく続けていると、この1ヶ月の間での自身の変化にまず気づいた。

「あれ、10分続けても息が上がってきていない。これは、今までの練習の成果が出てきたっていうことなのか?」

「俺でも、捨てたもんじゃないかもしれない。やればできるのか?」

これまでの練習の成果を実感でき、俺はリズム良くシャトルを返していけた。しかし、ラリーを続けていくうちに、また別の考えが頭をよぎった。

「あ…れ…、これってもしかして、俺がいいように振り回されているってことじゃ…」

結論として、それも当てはまっていた。生野はネット際は滅法強かったが、ドライブとスマッシュの精度が荒かったため、よくネットに掛かっていた。威力に手加減はしつつも、その修正を図っていたのであった。

「な、なんて人だ…。俺の動きまでコントロールして、息一つ切らしていないなんて…。」

30分ラリーを続け、俺はすでに汗だくであった。それでも、部活で通常メニューをこなしてからさらに追加メニューをこなすことは、1ヶ月前の自分には出来なかった。その点は、はっきりと確認できた成長であった。

「うん、いいラリーだったよ。僕のほうは僕のほうで、ショットのコントロールが良くなってきているし、君のほうも持久力がだいぶついてきているからね。この1ヶ月、よく頑張った。あとは、どういうタイプになりたいかに応じて、必要な技術を身につけていくことだ。君はがむしゃらに練習するタイプのようだから。それじゃ、今日はこの辺であがろう、お疲れ。」

そう言って、生野先輩は颯爽とコートを後にしていった。

体育館の片隅で大の字になり、ぼんやりと天井を見つめていた。まだまだ足りないものがあることは十分感じていた。それでも、もう少し、自分の成長と可能性を信じてもいいんだなと思えた、生野先輩とのラリーであった。
「遅れているぞ、小森!もっと頑張れ!!」
「まだ折り返しにも差し掛かっていないぞ、もっと粘れ!」

最初の2週間は、入部したときの勢いで何とか喰らいついていくことができた。しかし、現実を突きつけられていくにつれて、次第に気持ちが萎えてきていた。

そんなある日、とうとう体も心も悲鳴を上げてきた。あと15分で部活が始まるが、俺は校内の裏庭にあるベンチで立ち止まっていた。

「ここまでハードだとは思わなかった…。きつすぎて、ついていくことすらできない。やっぱ俺には、無理だったのか…。」

カバンの中には、退部届も準備していた。これを出せば、どんなに楽になれるだろう―。

「亮介、部活行かないのか?」

声をかけてきたのは真人であった。空手部に入り、すでに道着に着替えていた。

「ああ、今日はちょっと、体調が良くなくてな…。」

「そうか、あんま無理すんなよ。じゃあ俺、部活行くから」

そう言って、真人は練習に向かっていった。その姿に、俺は入部を決めたときのことを思い出した。そうだ、挑戦したい気持ちをくすぶらせていたあの頃を繰り返したくない、今度こそ、想いを実現したい、そう決めて入部したんじゃないか。

『ここでドロップしたら、せっかく入部した意味がなくなってしまう。もう少しだけ、やれるだけやってみよう。』

今日はサボろうと思っていたが、考えを変え、ギリギリではあったが、この日も俺は部活に参加した。

そんな迷いに悩んでいる俺に構うことなく、今日も容赦ない練習量が待ち構えていた。身体能力でどうしようもない部分を、気持ちだけが支えていた。

決して前向きな気持ちばかりではない。未来に、ただどうしようもなく、無力に時を過ごしていた自分を思い返しては、それを原動力に足を前に進めていた。

『俺はもう…あの空虚な時間にだけは、戻りたくないんだ…!』

その一心だけで、俺は限界を迎えつつあった肉体で、学校の外周で走っていた。

気づくと俺は、保健室のベッドの上にいた。いったい何が起きたのか、さっぱり分からずにいた。ただ、ややひどい頭痛がしていたのだけは、はっきりしていた。