「どうして…私なんかを助けてくれたの?」

 

そう助けた理由を尋ねた綾に対し、牧人は答えた。

 

「綾、君が大切な人だから、理由なんてそれだけで十分だ。さぁ、脱出するぞ!君が無実だっていう証明も用意できている!!」

 

牧人の指示で身を潜めていた若菜も現れた。少し離れた場所に止めた車を目指し、3人は翔の部下たちの巡回の目をかいくぐった、あと少しで耕輔の車にたどり着くところまできた。隠れている建物の影から若干距離はあるものの、この通りを出れば大通りに出て、警備の目から抜け出せる、逃げ切った…。そう思い、周囲を確認して、最後の脱出を図った時であった、乾いた音が辺りに響いた。綾をかばった牧人が腹部に2発、若菜と綾が両脚に銃撃を受けてしまった。翔が銃を隠し持っていたのだ。若菜はかすり傷だが、精神的ダメージが大きかった。綾は牧人を置いて逃げ出すことなどできず、3人の動きを止めるには十分な効果であった。

 

「ご苦労だったな、綾。依頼の品はちゃんと渡してくれたか?」

 

薄ら笑いを浮かべて近づく翔に、ありったけの憎しみを綾は向けた。

 

「あんたは私を利用した、自分の欲望や保身のためだけに…。そして、牧人さんを傷つけた。許せない…あんただけは絶対に許さないわ!」

 

綾の言葉など意に介せず、翔は命令を下すように綾に話し出した。

 

「どけ、綾。お前たちに、特に、その男に逃げられると不都合なんだよ。いらんこと、色々しゃべられても困るしな。」

 

「どかない、絶対にどかないわ!」

 

翔の忠告に対して、綾は鋭い眼光を向けたまま、牧人を守るように立ちはだかった。翔が再び引き金を引いたとき、牧人を守るため、綾はとっさに自らの身を盾にした。銃声が鳴り止むと、傷は浅いものの、何発か当たったらしく、全身に痛みが走った。弾を込めなおすと、気持ちだけでは抗うことができない綾の状況をあざ笑うように、翔は銃口を牧人に向けた。

 

「安心しな、綾。お前らは、俺の大事な女としてかわいがってやるからよ!」

 

翔の卑劣な高笑いとともに、辺りに銃声が響いた。牧人を守ろうとかばったものの、体の一部分を守るだけで精一杯であった。数秒後、銃声が鳴り止んだ。意識が戻ってくると同時に、男性のうめき声が聞こえてきた。声の主は翔であった。

 

「残念だったな、翔。おっと、動くな!警視庁捜査一課、大沢勇次だ。お前はもうここまでだ!」

 

勇次は別件から3ヶ月前に都内各地で起きていた密売事件を指揮することとなり、内偵を進めていた。その捜査の過程で、翔の一連の犯罪に感付いた。そして、友人である和輝から連絡を受け、駆けつけたのだ。

 

しかし、勇次がすでに銃を構えているこの状況において、翔に焦りは感じられなかった。右手に先ほどまでの銃を持ち、激しい憎悪を隠すかのような奇妙な笑いを叫ぶと、勇次の方を見て話し出した。

 

「はっ!あんた1つ忘れているぜ…。勝負はまだ…着いていないっていうことをな!」

 

翔は両利きであったのだ。そう言うと、先ほど若菜たちに向けられたものとは別に、長袖のコートの下に隠していた銃を勇次に向けて放とうとした。しかし、次の瞬間、勇次が翔よりもすばやく連射し、翔の銃口・左肩を打ち抜いた。逃げる翔を追いかけ、組み技もあっさりはねのけると、壁際に追い詰めた勇次は、不敵な笑みを浮かべて銃口を向けた。

 

「あーあ、またやっちまったよ。銃使うなっていつも言ってくる上司にまたドヤされちまうじゃん。怒られたくねえなぁ。今日は夜に合コン控えているんだしさ、チョーかわいい女子アナたちとのさぁ。怒られたら完全に行けないじゃん。もしそうなかったら…おまえのせいだからな!!

 

そう言うと、銃声が当たり一面に響き渡り、最後の2発で両足を打ち抜かれた翔は勇次の前で完膚なきまでに粉砕され、跪かされた。

 

数分後、勇次からの無線を受け、応援の警察が駆けつけてきた。その中には、勇次の上司である佐藤警視総監もいた。

 

「よくやった勇次、麻薬密売組織と人身売買の中核グループを一網打尽にできたのは都内の犯罪をなくす上で大きな成果だ。またやったな。」

 

勇次がわざとらしく警視総監に話しかけた。

 

「ええ、歴代担当者が5年間見逃していましたが、俺は3ヶ月で決着つけました!ところで、今日はちょっと用事があるので、これの調書書いて、サクッと揚がらせていただこうかと…」

 

そこまで勇次が話していたとき、警視総監の怒号が辺り一面に響いた。

 

「ばっかもーん!!それよりも反省会だ、お前また銃を犯人に向けて乱射しただろ!」

 

「いやー、犯人が抵抗したもので。被害者救出と身の安全の確保のためのやむをえない措置ですよ。」

 

そう適当な言い訳をする勇次に、警視総監があきれながら怒り続けた。

 

「最初の数発はいいだろう、犯人の銃を打ち落とすのと動きを封じさせた分だ。だが、壁際に銃痕の跡があった分は手柄とチャラになる始末書分だ!あれは明らかにお前がいつもの腕試しで放った分だ!大体、この前の案件もそうだったが、お前はすぐに銃を使いたがる!あれはあくまで日本警察たる者には最後の手段だ!本来ならばすでに警視になっていてもおかしくない君の解決能力の高さを買っている、私の立場も考えてくれ!!」

 

「いいじゃないですか、たまには実践で使わないと鈍ってしまいますよ。結果として被疑者を生け捕りにできたんですし。」

 

コメディーみたいな掛け合いをしている2人をよそに、牧人の状態は予想以上に深刻であった。輸血が必要で、応援が来るまでの間に、勇次が適切な止血等の最低限可能な応急処置はしておいたが、救急車にある血液量だけでは搬送までもたせられるか、微妙な状態であった。

 

「誰か、O型の方で輸血に協力していただけませんか!」

 

救命士の1人が必死で呼びかけた。だが、不運にもここにいて動ける人間はみんな違う血液型であった。勇次はAB型で、佐藤警視総監はA型、若菜も、自身の血液型はB型であった。

 

この際、下手に時間をロスするよりも、早目に処置可能な病院へ搬送しよう…。そう判断が下された時であった。

 

「私、牧人さんと同じO型です。私の血液を使ってください!」

 

別の救急車に載せられていた綾が、ありったけの声で叫んだ。その声に気付き、呼びかけた救命士が綾に尋ねた。

 

「本当ですか!しかし…あなたも精神的動揺が大きい。あなたからの輸血は、そういった意味ではリスクが伴います。せっかくの申し出ですが…」

 

そこまで救命士が話すと、それを遮るかのように綾が切り返した。

 

「牧人さんは命をかけて私を助けてくれた。私も、命を賭してでも牧人さんを助けたいんです!」

 

そう懇願した綾の真剣な眼差しに、救命士も決断を下した。

 

「分かりました。体調に違和感を感じられましたら、すぐに申し出てください。ご協力感謝いたします。」

 

そして、2人を乗せた救急車は走り出した。

 

数日後、綾から若菜宛てに手紙が届けられていた。手紙には、意識が戻るまでの間、一命を取り留めた牧人の看病をしながら、牧人がどれだけ綾のことを愛していたか考え直したこと、そのことに気付くきっかけを与えてくれた若菜に感謝したいといったことが書かれていた。そして、『本当にあたしを大切にしてくれる人を、やっと取り戻せました』と、牧人とヨリを取り戻すことが綴られていた。

 

若菜は、和輝に今回の集中治療に関しての最終報告をした。

 

「まったく、無茶しやがって。」

 

報告書を受け取ると、和輝は若菜にそう言った。そして、そのまま続けて

 

「まずは一山超えたな、よくやった。」

 

とも労をねぎらった。こうして、若菜は最初の大仕事を乗り切った。恋愛相談医・双葉若菜が大きな1歩を踏み出した数日間となった。

その頃、綾はいつものように翔のマンションで安らぎの一時を過ごしていた。赤ワインを片手に、チーズを取りながら、洋画のDVDを観ていた。

 

映画がクライマックスに入る少し手前、翔が綾に話しかけてきた。

 

「綾、1つ頼みたいことがあるんだけど、いいか?」

 

「あら、何かしら?私で良ければ、力になるわ。」

 

「この小包を、明日の夜に、顧客先に届けて欲しいんだ。指定された時間が、ちょうどお店休めないところでさ。」

 

渡されたのは、比較的重さのある紙袋であった。翔が個人でメッセンジャーの仕事もしているという話は、以前、付き合い始めた頃に聞いたことがあった。袋を渡されると、綾は中身が何か確認しようとした。

 

「ダメだ、見んな。」

 

翔が綾を制止した。まだ試作品の段階で情報が漏れるといけないから、ということであった。

 

「でも、どんなものか分からずに品物を運ぶなんて…何かおっかないわ。」

 

そう言って、綾が食い下がってきた。綾の態度にしびれを切らし、翔は不機嫌そうに品物を取り上げ、それを元のバッグにしまった。

 

「もういい!他のやつに頼むよ。付き合って半年になるのに、俺のこと信じてくれていなかったなんて、哀しいよ…。」

 

どこか聞き覚えのあるセリフであった。それは、辛い過去の記憶として、綾の脳裏によみがえってきた。

 

牧人と最後に顔を会わせたとき、二人は夜のオフィスで大喧嘩していた。新しく来た若い女の子に牧人が色目を使っている、自分のことを陰で悪く言っていると責め立てたのだ。初めは冷静にそれらの噂を否定していた牧人であったが、綾の問い詰めに次第にカッとなっていた。そして、決定的な一言を放ってしまったのである。

 

「もういい!俺のこと信じてくれないなら、勝手にしろ!!」

 

綾にとって、絶対に忘れることができない心の傷であった。慌てて翔のそばにいき、体を寄せて懇願した。

 

「ごめんなさい、あなたを信じていないなんて、そんなことないわ!だから…私を嫌いにならないで!!」

 

訴えるような綾を、翔は優しく抱きしめた。

 

「バカだな…そんなことあるわけないだろ?悪い、俺も言い方がきつかった。」

 

そう言って、翔は品物を渡し、日時と待ち合わせ場所を伝えた。そして、このことは決して誰にも話さないように、見られないようにということと、中身を見ないようにと念を押した。再生中のDVDがエンディングに近づき、ワインも空いたので、また新しいものを用意し始めた。

 

数日後、若菜は浜名佳恋と名乗る女性と会っていた。

 

佳恋は綾と牧人を別れさせた張本人であった。若菜が耕輔に依頼した調査の結果、最初から別れさせ屋として送り込まれていたことが分かったのだ。決定的な証拠も、若菜が牧人の別れさせ依頼の形を装った誘導尋問をし、それを録音して用意した。

 

今回の件について提訴しないことと、佳恋が話したことを決して話さないことを条件に、佳恋はこれまでの真相を話し始めた。

 

10年前の少年グループ金属窃盗未遂事件って覚えているかしら?」

 

「いや、特にこれと言う心当たりというか、あの時は続発していて、一々は覚えていない…。」

 

「八王子であった、最後の事件よ。あなたが警備員として、実際に取り押さえたね。」

 

すっかり忘れていた昔の出来事を、牧人は思い出した。学生の時、仕送りが少なかったため、割りの良い警備員のバイトをしていたのだ。後になって知るのだが、綾もその頃、同じ工場で働いていた。

 

「最初、すでに捨てられていた物を誤って拾っただけで故意ではないと犯人グループは否定していた。けど、取り調べの最後の最後に記録簿という決定的な証拠が出てきて、有罪が確定。あなたが取り押さえた主犯格の男は、3年間服役、当時の彼女にも愛想尽かされて別れたっていう話よ。その証拠は、事前に改ざんされていた公式な記録ではなく、ある少女が個人的なメモとしてつけていたものだった。」

 

そこまで佳恋が話したとき、若菜と牧人に1つの仮説が浮かんできた。

 

「まさか…その男と少女って…」

 

「そう、翔と綾のこと。でも、依頼の時は、単に翔が綾を気に入っていて、あなたへの報復も同時にできるからっていうことだったわ。私はあの時、色々上手くいかなくてムシャクシャしていたから面白そうだったし、ただ報酬が良かったから引き受けただけ。私が知っている事の顛末は以上よ、もう帰らせてもらうわ…。」

 

真相を知り、牧人はがく然とした。問題は、そのことをどうやって綾に信じてもらうかであった。その事を明日以降に話し合うことで解散しようとした時、耕輔から一通のメールが届いた。それは、嵐の訪れをつげるメールとなった。

 その日の深夜、翔に渡されたバックを持っていき、有明西ふ頭公園の待ち合わせ場所に綾は向かった。翔の指示通り、今日のことは耕輔にも話さず、バックの中も見ず、誰にも見られないように注意を払ってきた。

 

しばらくすると、外国人男性の2人組みが現れた。

 

「アヤ・アオキカ?」

 

怪しそうな2人組の様子に最初は警戒した綾であったが、外国人との取引もあるという翔の言葉を思い出し、冷静に翔に頼まれたとおり、まず支払額の半額を現金で受け取ると、荷物を引き渡した。そして、2人組がバッグの中身を確認しようとした、その時であった。

 

「動くな、葛西臨海警察署だ!お前たちを大麻取締法違反で現行犯逮捕する!!」

 

ライトが向けられると同時に、2人組は警察に捕まえられた。綾は考えるよりも先に体が動き、何とか包囲網の死角に隠れることができた。しかし、考えもしなかった事態に気が動転していた。

 

『どういうことなの、翔さんが薬物に手を出すなんて…きっと何かの間違いよ!!』

 

どこかですり替えられたと考え、綾は翔にコンタクトを取ろうとした。しかし、昨日までは通じた番号にいくら電話しても、一向につながる気配がなかった。

 

「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。もう一度、お掛け直しください。」

 

最初は、自身の掛け間違いや変更忘れを疑った。しかし、落ち着きを取り戻すにつれて、それらの可能性は全くの皆無であることを認識した。

 

そして、突きつけられた現実を受け入れざるを得ないことを悟った。バックの中身、警察の話、翔の裏切り…全てのつじつまがあった。始めからもてあそばれていただけだったのだ。心の隙につけこんで、愛されていると錯覚させられていたのだ。

 

「愛しているって、あんなに言っていたのに…。」

 

男なんていつもそう、どれだけ言葉で言っていたとしても…。もうどうでもいい、何もかも。でも、せめて、あの幸せだった頃だけ、もう一度思い出したい…。そう考え、半ば自暴自棄で身を潜めていた茂みから出ようとした、その時であった。背後から誰かに引きずられ、再び茂みに戻された。

 

「静かに。このまま警察に捕まったら、恐らく言い逃れできない事態が待っている。奴らの手下も紛れているだろうから、下手すると殺される。」

 

声の主が誰か分からず、ただその指示に従うしかなかった。しばらくすると、目の前を巡回中の警察が通り過ぎ、後ろではチンピラ風の男が倒されていた。

 

声の主は牧人であった。夜中に何も言わずに出かける綾を、さすがにおかしいと思った耕輔が、牧人と若菜に連絡を入れたのである。男を倒したのは、若菜が背後からスタンガンを使ってであった。

相談者は朝一に訪れた。爽やかで礼儀正しい青年だ。和輝からもらった参考資料によると、相談者は青木耕輔、都内の銀行に勤務し、法務担当であるとのことだ。相談内容はお姉さんのことについてであるらしい。細かい内容については良く分からない若菜は、簡単な雑談の後、何があったのかを尋ねた。すると、先ほどまで笑顔でいた耕輔の表情が一気に険しくなった。

 

「先輩の三杉牧人と姉の仲の修復に、力を貸していただきたいんです。」

 

「半年前まで、姉と先輩の交際は順調そのものでした。しかし、『先輩が姉を重たく思っている』という噂が原因で、別れてしまったんです。別れたばかりの頃は、先輩も意地になって姉とコンタクトを取ろうとしませんでした。しかし、3ヶ月前、僕のところに来て、やり直した言っていってきたんです。最初はもちろん、先輩の言葉も噂がデマだって言うことも信じられませんでした。でも、調べていくうちに、噂が本当にデマだったということが分かり、先輩も本当にやり直したいっていうことも分かったんです。」

 

「それに、あの男が本当に姉を愛しているかって考えると、どうもそうは思えないんです。自分が困っているときは姉を頼ってくるのに、姉が寂しいって言って電話しても、簡単に突き放されたりもするんです。僕は、調子がいいあんなヤツよりも、先輩のほうが姉のパートナーにふさわしいって思っているんです。あんなヤツ、僕は姉の恋人として認めたくない!」

 

いきりたつ耕輔に落ち着くように若菜は促した。そして、お姉さんがどちらを選ぶかまでは干渉できないものの、2人の仲の修復には最大限の力添えをすることを約束した。

 

「ありがとうございます。姉には、僕から会うように話しておきます。よろしくお願いします、先生。」

 

耕輔からはその日の昼にメールが入り、翌週の同じ時間帯に姉自身が相談室を訪ねるということであった。若菜は通常業務の合間を縫って、過去のデータからアドバイスの作成を始めた。

 

翌週、相談者の姉が病院を訪れた。院内の男性たちは、気品に満ちたその女神のような姿に、目を奪われなかったものはいなかった。やがて、彼女が若菜の相談室に入る順番になった。

 

「はじめまして、青木綾と言います。耕輔から話は聞いていますわ。」

 

その姿に、若菜も一瞬心を奪われそうになった。女性として憧れるような美貌を持っており、立ち居振る舞いは、恋も仕事も出来るキャリアウーマンといった感じであった。しかし、ここは相談医として言うべきことは言わねばと考え、気持ちをすぐに切り替えた。

 

「はじめまして、三鷹病院の恋愛相談医、双葉若菜です。今日はよろしくお願いします。実は、今日はお話したいことがありまして…」

 

そこまでいうと、綾は退屈そうな表情をしながら話し出した。

 

「私と翔さんのことね。あの子ったら全く、まだそのことを気にしているなんて…。」

 

若菜が牧人と関係のやり直しを切り出す前に、綾が話を進め始めた。

 

「彼は私を必要としてくれている。私も彼を必要としている。裏切られた私のためかのように、彼は私の前に現れた。他の人に何と言われようと、私は彼を愛し続ける、ただそれだけだわ!」

 

さらに、続いて出た綾の言葉が、牧人と綾の関係のこじれが、若菜の想像以上であることを思い知らせた。

 

「それに、あの人は私を棄てたのよ、そんな人を許すなんて私はできない!」

 

そう言って、綾は若菜の言葉をそれ以上聞こうとはしなかった。牧人との別れから翔との出会いの過程の中で、奇妙な違和感を感じつつ、その日の集中対応はそこまでとし、時間をかけて問題の解決を図ることにした。

 

その頃、耕輔は牧人と営業に廻っていた。新規の顧客との取引があったからだ。移動の車の中で、耕輔は姉のことを三鷹病院で相談に乗ってもらっていることを話した。そして、

 

「これで姉さんが考えを変えてくれたら、きっと牧人先輩のところに戻ってきますよ!」

 

そう意気込む耕輔に対して、牧人はどちらかといえば冷静であった。

 

「そうだな、そうなってくれれば、一番嬉しいよ。でも、現実は厳しいんだろうな。」

 

そんな牧人に、耕輔は思わず切り返した。

 

「何ネガティブなこと言っているんですか、先輩!あんなヤツより、先輩の方が絶対に姉の恋人としてふさわしいですよ、俺が保証します!!あのデマ騒動には、きっと何か裏があったに違いないですよ!もしかしたら、あいつが絡んでいたりとか…」

 

興奮気味にそう話す耕輔を落ち着かせるかのように、牧人は淡々と話した。

 

「確かに、あの騒動には裏があるに違いないと思う。それが分かれば、俺も知りたいけどな。でも、結果的に綾を傷つけた俺に、最終的な責任はあるよ。守りきれなかったんだからな…。さて、そろそろ取引先に着くから、準備しておけよ。」

 

その日の帰り、耕輔はその足で三鷹病院に向かった。姉のカウンセリング結果を聞くためだ。プロが対応してくれたから、何か成果が期待できる。そう思い、若菜のもとを訪れたのだ。だが、現実は厳しかった。

 

「お姉さん、完全に翔っていう人に心が傾いているわね。それと同じくらい、牧人に心を閉ざしている。解決には何かもっと決定的なものが必要ね。」

 

若菜は今の状況を耕輔に説明した。

そして、それと同時に、1つ耕輔に調査を依頼した。

 

それからの対応も、主に関係の修復に重点が置かれた。ヨリを取り戻すかどうかまでの結論は踏み込まないものの、せめてかつての良好な関係にまでは戻るようにと、若菜は言葉を尽くしていった。

 

しかし、綾にとって、突然横から入ってきたような若菜は不愉快な存在であった。ある日突然、見ず知らずの人間からあれこれ言われれば、それは当然の流れであった。それでもなお、若菜のもとを訪ねるのは、弟の耕輔の強い希望があったからであり、そんな耕輔に説得を諦めさせるためでもあった。

 

ある日、若菜はいつものように何気ない日常会話から牧人との関係の話まで持ち込んだ。いつもならば、その話を始めた途端、綾は不機嫌に話をさえぎっていた。

 

しかし、その日の綾は、表情を変えずに黙り込んでいた。何を考えているのだろう、ひょっとして、弟さんの願いをようやく理解して、考えが変わってきてくれているのかもしれない…。

 

しばらくして再び、綾は若菜に話し始めた。しかし、その目はどこか醒めていて、なおかつ、哀れみのこもったようにも感じる視線であった。

 

「あなた…ひょっとして、妬いているの?」

 

「えっ!?」

 

意外な反応であった。依頼人とそのお姉さんのためにと思って対応してきたのに、何でそんな風に受け取られるのか、そう困惑する若菜の存在など無視するかのように綾は話を続けた。

 

「あの時、ズタズタに傷ついた私に、まるで白馬の王子のように彼が現れたことに、あなた、彼氏が出来なくて妬いているのね。良かったら、あなたにも素敵な方、紹介しましょうか?」

 

若菜を蔑むような綾の物言いと視線に、怒りを抑えるので若菜は必死であった。昼休みになってミーティングルームに戻ると、それが一気に爆発した。

 

「むかつく!超・むかつくあの女!!!

 

こっちは誠意をもって対応しているというのに、この仕打ちは何なんだ!そんな活火山のような状態の若菜に対して、能天気な和輝はうっかり口を滑らせた。

 

「まぁ、あのめっちゃ色っぽい綾って人から見れば、そう思われても仕方ないかもな。若菜ちゃん、パッと見だと幼児体型だもんなぁ。」

 

火に油を注ぐような発言である。思わず若菜は、パソコンの熱帯魚に餌をやっている和輝を後ろから締め上げた。

 

「先輩…セクハラですよ!!

 

若菜のきつい締めに、しまったと思った和輝が、反射的に答えた。

 

「悪い悪い!!頼むからそうカリカリすんなって!!!

 

まったく、一体どうすればいいんだろう…。八方塞がりで集中相談も怒りもやり場が無い状態で途方にくれていた。

 

「しかし…妙だな。」

 

そう切り出すと、和輝は独り言のようにつぶやいた。

 

「なんせ、大失恋の後に間髪入れずに、だろ?半年後にとかならばともかく、話が上手すぎやしないか?」

 

若菜の中での引っ掛かりが、具体的な形となって現れた。若菜は耕輔にすかさず連絡を入れた。作戦を実行に移す時が来たのだ。

41日、大学を無事に卒業した若菜はこの日から社会人生活が始まった。桜が満開で空は晴れわたっており、最高の朝であった。

 

病院に着くと、さっそく前もって渡されていた白衣を身にまとい、理事長室に向かった。辞令の交付式があるからだ。理事長室に全員が揃うと、一人ずつ辞令を渡された。辞令が渡されると、いよいよこれから職業人として歩みだすんだと若菜は思った。これから始まる社会人生活に向けて、身が引き締まった。全員に辞令を渡し終えると、理事長が簡単なキャリアパスの説明をした。

 

「恋愛相談医して採用されたあなた方は、まずはここで主に指導医のもとで経験を積んでもらいます。その後、ここでスペシャリストとなってもらったり、希望があれば、本法人内で異動をしてもらったりします。よろしくお願いしますね。」

 

そう話し終えると、それぞれの指導医の紹介をした。若菜の担当は、武田和輝医師であった。専門はコミュニケーション関係ということらしい。辞令式の締めくくりとして、佐藤さんが代表となり、新規採用者の挨拶をした。

 

「これから全力で職務に当たっていく決意であります。ご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願いします。」

 

辞令式が終わると、若菜たちは一通り病院内の案内を受けた。その後、若菜は和輝とミーティングルームに向かった。そこで勤務時間、超過勤務のつけ方、給与支払いの流れなど、細かい雇用体系を説明された。それが終わると、備品の場所やファイルの場所などを案内された。そんな感じで午前中は過ぎようとしていた。

 

まずは書類整理や電話応対など、アシスタント業務が中心となるだろう。理事長もそんなこと言っていたし。しばらく頑張れば患者さんを任せてもらえるようになり、活躍のチャンスが巡ってくるだろうから、それまで頑張っていかないとな…そんなことを考えていた時であった。まもなく昼休みになろうとしているこのタイミングで、和輝から意外な一言が告げられた。

 

「それじゃ、午後からは別室で相談対応に当たってもらうからよろしく!」

 

思わぬ展開に若菜は驚いた。さっきまでの説明と正反対だ、何かの間違いじゃないのかと思い和輝を呼び止めた

 

「先輩、ちょっと待ってください!先ほどまでは新規採用者は下積みからと伺っていましたが…」

 

戸惑う若菜に対して、和輝はまるで何事もないかのように答えた。

 

「あぁ、他の先生はそうしているけど、俺は実務の中で掴んだものこそ全てだっていう考えなんでね。大丈夫、色々と理事長から君の情報を教えてもらったけど、君なら出来るさ!」

 

若菜の頭の中は真っ白であった。まだこれといった研修さえも事前に受けているわけではない…。動揺し、その日の昼は何を食べたかも思い出せないような状態であった。それでも頑張ってやるしかないと思うことで、次第に落ち着きが戻ってきた。そして、午後の業務が始まった。

 割り当てられた診察室は、和輝の隣の部屋であった。デスクトップのパソコンとノート、筆記用具といった一通りの道具は揃えられていた。相談者は午後の診察が始まってからランダムに入ってくるとのことであった。ただし、1ヶ月間は和輝があらかじめ振り分けた単発対応の相談者のみを対応することとなっていた。また、純粋な法律問題などは専門家へということであった。

 

 緊張して待つ若菜のもとに訪れた最初の相談者は、中学に上がったばかりと思われる女の子であった。ブレザーの制服姿が初々しい感じであった。今日はどうしたのと尋ねる若菜に対して、少女は迷子の子犬のような感じで話し始めた。

 

「サッカー部のキャプテンが好きになってしまったんです。告白しようと考えているんですが、断られるのが怖いんです…。きっと、先輩のことが好きな子って他にもいるだろうし…。それに、中学最後の大会を控えている先輩に迷惑かもしれない…。私はどうしたらいいんでしょう、何かいい方法ないですか、先生?」

 

そう相談してきた少女に対し、若菜は答えた。こういったことで相談された経験は過去にもあるので、十八番であった。

 

「そっかあ、先輩に自分の気持ちを伝えたいけど、迷惑をかけたくないし、自信が無いんだね。まずは試合の応援から行ってみたらどう?応援に来てもらったら、誰でも嬉しいと思うよ。自分に自信が無いなら、勉強でも部活動でもいいから、何かに一生懸命になって自分を磨けば、自信もって行動に移せるんじゃないかな?」

 

相談してきた少女は少しだけ元気を取り戻した。暗闇をさまよう船の乗員が、街の明かりを見つけたかのような表情であった。

 

「ありがとうございます、先生。まずは私が出来ることから頑張ってみます。また相談に乗ってください!」

 

そうお礼を言うと、少女の相談は一段落した。よかった、こういった感じならどうにかやりこなせそうだ。そう思っている若菜のもとに、次の相談者が訪ねてきた。中年の夫婦である。相談室に入ってくるや否や、奥さんの方がまくし立てるように話し始めた。

 

「先生、聞いてくださいよ!ウチの旦那ったら銀座のホステスに入れ込んで、100万以上もつぎ込んだっていうのよ!!ちょっと1発ガツンと言ってやってくださいよ」

 

「てやんでえ、俺が稼いだ金だ!俺がどう使おうがいいじゃないか!!

 

「何ですって、私だってあなたを健気に支えてあげているのよ。そんなに言うんだったらもっと稼いできてちょうだいよ!!!

 

「うるせえ、不景気じゃなかったらもって稼いできてやらあ!!大体、何が健気にあなたを支えているだ。お前だってアイドルスターに入れ込んで、毎月何万と使っているくせによ!!

 

目の前で繰り広げられる夫婦喧嘩に、さっきまでの晴れやかな気持ちは吹き飛び、どんより気分になった。ここは病院の相談室だ、大声で夫婦喧嘩ならよそでやってくれ…。

 

結局、その日の診断は、他には「喧嘩してしまった彼氏と仲直りしたい」「彼氏が浮気していないか心配」といったものが中心であった。ただし、冷やかしなどといった、対象外とする相談も数件あった。

 

5時30分、終業時刻になったものの、診断書類の整理が残っていたため、若菜は業務を続けていた。今日は疲れたなぁ、他の人はまだ研修期間でもう終わりなのに、実務を割り当てられた私はまだ残って仕事を片付けていかないとならない…。そこへ、和輝が現れた。

 

「あれ、若菜ちゃんまだ残っていくの?」

 

そう尋ねた和輝に対して、

 

「ええ、まだちょっと、診断書類とかを整理しようかなって思いまして。」

 

若菜がそう答えると、和輝が鍵を渡した。ミーティングルームの鍵だ。そして和輝は若菜に言った。

 

「悪い、そんじゃあ俺帰るから、戸締りとかよろしく!鍵は守衛さんに渡せば大丈夫だから。2歳になったばかりの娘たちが、おっとうの帰りを待っているからね~。」

 

それだけ言うと、和輝はさくっと帰ってしまった。まだ聞きたいこととかあるのに、初日からいきなり現場に放り出して、何も教えてくれずに放置だなんてひどい…。結局その日は、9時にようやく帰ることが出来た。

 

そんな感じで1ヶ月が過ぎていった。純粋な恋愛相談は楽しいものの、たまに来るトンチンカンな問い合わせなどにはゲンナリした。また、何か困っても和輝は基本的には「うん、まぁ、君に任せるよ!」の一点張りで、6時には帰ってしまうため、頼りにならなかった。ゴールデンウィークの休暇が無ければ心が折れていた。休暇の最終日はサザエさん症候群とでも言うような状態であった。

 

やっていられない…。そう考え、理事長に何か一言でも言ってもらおう、最悪、担当替えでもかまわない、そう考えだした時であった。若菜のもとを一人の女性が訪ねてきた。

 

その訪問者に若菜は驚いた。村田沙織と名乗るその女性は、現在、系列の学校ウンセラーとして勤務しており、「いま最も輝いている女性」として、雑誌でもたびたび取り上げられていた。事務に時間給を申請しに行くと、すでに理事長から沙織と話をするよう指示が出ており、時間給ではなくて業務として扱われていると伝えられた。沙織は近くの喫茶店に若菜を連れて行き、今の仕事はどうか尋ねた。

 

「和輝さんが上についていて、他の人と比べてずいぶん大変じゃない?」

 

「ホント、みんなは早く揚がれているのに、何で私だけって、ほとんど毎日考えていますよ。まぁ、基本的に怒らないし、他の人と違って細かいところをグチグチ言わないのはいいんですけど、もっと助けて欲しいって言うか…。」

 

 ここでの話は口外しないと約束した沙織に、若菜は仕事の不満をぶつけだした。とにかく誰でも良いから、話しだけでも聞いて欲しかった若菜にとって、沙織は頼れるお姉さんのように見えた。

 

 「ふふふ、私も一番最初が和輝さんだったから、その時の苦労は分かるわ。」

 

「え、沙織先輩も和輝さんのもとで働いていたんですか?まぁ、先輩みたいにバリバリやれる人なら問題ないかもしれないけど、私はそういうタイプじゃないし…。」

 

弱音を吐く若菜に、沙織が1つ問いかけた。

 

「ねぇ、私が入ってくる前、和輝さんってどんな人だったと思う?」

 

「うーん、今とそんなに変わらないんじゃないんですか?」

 

人ってそんな簡単に変わるものではない、今の姿から逆算していくと、要領よく飄々としていたんじゃないのかというのが、若菜の意見であった。そんな若菜に、沙織は和輝の意外な過去を告げた。

 

「その頃の和輝さんは指導医に昇格したばかりで、物凄い働きぶりだったそうよ。後進の育成にも相当に力を入れていたっていう話だった。」

 

今からはイメージできない和輝の過去に、若菜は驚いた。そして、以前耳にした和輝の『噂』について真相の一端が垣間見れる続きを、沙織が話し始めた。

 

「でも、その働きぶりについていけずに、私の前に、担当した新人7人が全員辞めていったの。みんな『あなたのように私はやれない』って言ってね。7人目の人が辞めたとき、理事長に呼び出されて『名選手のままでいるつもり?』って言われてから、育成方針を修正していったらしいわ。それに、後になってから知ったんだけど、気づかないところで色々フォローしてくれていたそうなの。」

 

沙織に言われ、思い当たる節があった。以前、どちらも重要な会議と研修がバッティングしたとき、文句1つも言わずに和輝が助け舟を出していた。また、確かに基本的には放任であったが、どうしようもない状況になる前には必ず手助けをしていた。若菜が帰った深夜から早朝にかけて急ピッチで作業し、何事もなかったかのように振るまっていたのである。和輝はそういう素振りを決して見せようとしなかったため、気づかなかったのであった。

 

「若菜ちゃん、他の人と比べて今は辛いと思うけど、きっとそれが生きてくるときがあるから、今は和輝さんの指導方針を信じてあげて。あの人、指導者としてだと、決して器用じゃないから。」

 

若菜は沙織の話で、今まで気づいていなかったことを気づかされた。もちろん、全てに納得できるわけではなかったが、もう一度、若菜も和輝を信じてみることにした。

 

ゴールデンウィーク明け、出勤すると和輝から新しい仕事が任された。

 

「今日から集中対応の相談者も対応してもらうよ。本当はまだ早いかなとも思ったけど、こっちも手一杯なもんでね。」

 

仕事が増えるものの、これは嫌ではなかった。むしろ歓迎であった。それと言うのも、集中対応相談は、恋愛相談医の中でも1番大きな花形の業務であったからだ。

9202055分、若菜は誰もいない三鷹病院の正門前にいた。手違いとかなら縁が無かったということだし、もし何か理由があって再面接を受けれるなら、もう一度挑戦したいと思ったから。アルバイトを早めに切り上げ、一度帰宅して身だしなみを整えると、三鷹病院に向かったのである。

 

21時、待ち合わせ場所となっていた正門前には人の影すらない。やはり何かの手違いだったのかなと思いつつも、あと10分だけ待ってみることにした。10月近くになり、流石に夜は少し肌寒かった。

 

 2110分、景色は変わらなかった。やはり何も無かった、縁が無かった…帰ろう…そう思ったときであった。

 

 「双葉若菜さんね、お待たせしてしまって申し訳ないわ。急に電話が入ってしまったものでね。」

 

若菜を呼ぶその声に振り返ると、思わず叫びそうになった。目の前に現れたのは、この病院だけでなく、母体である学校法人の理事長でもある沢村ゆかり氏であった。

 

「は、はい!よろしくお願いします!!

 

半ば放心状態の若菜は答えた。恋愛相談医に限らず、何か他の職種で空きが出て、その補充面接くらいはあるのかなと考えてはいたが、理事長が直々に面接に呼ぶとは想像すらしていなかったからだ。

 

呆然とする若菜を理事長は部屋まで案内し、秘書に温かいお茶を出すように指示した。そして、用意したソファーに座るように若菜に言うと、自分も向かいのソファーに腰を掛けた。

 

「寒い中待たせてごめんなさいね、私があなたを面接に呼んだの。本当はこんな時間じゃなくて、ちゃんと昼間にやってあげたかったけど…堅物の副院長が確実に留守なのが、今日のこの時間しかなくてね。」

 

理事長がそう事情を説明していたとき、秘書さんがお茶を持ってきた。なんでも、理事長のお気に入りである静岡産の茶葉で淹れたお茶らしい。勧められるままに若菜はそれを口にした。

目の前で展開されている出来事に混乱し、味などほとんど分からなかった。それでも、適度に暖かい緑茶のおかげで、冷えてきていた体が温まってくると、緊張はほぐれてきた。少しホッとしたような表情の若菜を見て、理事長は面接の経緯を再び説明し始めた。

 

「さて、もう知っているでしょうけど、あなたは正式な面接では不採用だった。だけど、面接資料や院内のカメラで見たあなたに興味がわいてね。理事長枠も3人ほど余裕があるし、こうして無理をお願いして来てもらったの。」

 

通常ではない状況にまだ少し戸惑いつつも、若菜は徐々に今の状況を理解してきた。そして今、一度は失ってしまった夢へ挑戦権が再び与えられていることも。

 

面接というよりは、談話とでもいえるような雰囲気の中、理事長は若菜にいくつか質問を投げかけた。普段はどんな生活をしているのか、初恋はいつ・どんな状況であったのか、最近の恋愛話はどんなものがあるのか、と。

 

若菜はそれぞれの質問に対して


 

「普段は学校とウエイトレスのアルバイトが中心、大学では『恋愛時におけるココロと行動の変化』をテーマに研究をしている」


 

「初恋は幼稚園のとき、幼馴染の智治君が相手。小学校に上がる際、彼が引っ越してその恋は終わった」


 

「高校の部活動の先輩が一番最近まで付き合っていた人。先輩の海外留学で遠距離になってしまうために友人関係に戻った。半年前からお互いに紹介した友人同士が付き合い始めた。」

 

理事長は恋愛話になると特に目を輝かせる若菜の答えを笑顔で、それでいて面接にふさわしい親近感と威厳のある雰囲気で耳を傾けていた。そして、核心について切り出した。

 

 「最後に1つ聞かせて。あなたは将来、どんな恋愛相談医になりたいの?」

 

先ほどまでの穏やかな空気の中に、理事長のピリッとした雰囲気が伝わってきた。変化に飲まれることなく、改めて姿勢をただし、若菜は答えた。

 

「相談者の方の気持ちに寄り添い、前向きな恋愛を出来るように後押しできる、そんな恋愛相談医になりたいです。」

 

しばしの沈黙が2人のいる部屋を支配した…。理事長がどう考えてくれたかなんて分からない。でも、今できる最善は尽くした。どこか達成感に包まれた感情と、内定を出してもらえるのだろうかという気持ちが複雑に混ざりながら、理事長の言葉を待った。やがて、おもむろに席を立った理事長は、理事長席から厚い封筒を取り出して再び話し出した。

 

「はいこれ、採用手続きのための書類一式ね。あと、資格が無いから、他の恋愛相談医の方と比べてその分の手当額だけ下がっちゃうけど、それだけ了解してちょうだい。」

 

その場で内定が出たことに一瞬は驚き、それはやがて安堵感に変わった。やった…、来春からここで働けるんだ…。

 

「はい、ありがとうございます!よろしくおねがいします!!

 

若菜は深々と頭を下げてお礼を言った。

 

「こちらの方こそ、来年からよろしく頼むわよ。さあ、面接はこれでおしまい。遅くまでありがとう。気をつけて帰るのよ。」

 

そう理事長が答え、面談は終了した。

 

駅に向かう道はすっかり暗くなっていた。しかし、街の街灯と雲ひとつ無い空に映える三日月は、どこか若菜を祝福しているかのように思えた。

 

日付が変わろうとしている頃、若菜が面接を終えた理事長室には、診療リハビリ科長が入っていた。理事長と対立する保守的な雰囲気が強い科内において、数少ない改革派の人物である。

 

「理事長…同じ理事長枠のあいつのもとで彼女を働かせるつもりですね。」

 

心配げに尋ねる科長に対して理事長はあっさりと答えた。

 

「あら、いいじゃないの。同じく心理系の資格が無い彼じゃないと、他の人じゃ育てようともしないじゃない。」

 

 確かにその通りだ…。そう思いながらも、心配性が強い科長は続けて話した。

 

「しかし、彼女の採用は構わないと思ってはおりますが、あいつのもとで働かせるのはリスクが大きすぎると思います。確かにあいつは自分自身が治療に当たる際には名医、すなわち名選手であります。しかし、名監督ではありません。むしろその逆の傾向が強いです。この5年間で持たせた部下10人のうち、8人は半年も持たずに辞めてしまった…。」

 

そう心配する科長に対して理事長はあっけらかんとした感じで切り返した。

 

「それでも、残り2人はうちの学校カウンセラーのエース格として勤務してもらっているわ。果たして、彼女は多くの人のように折れてしまうのか、それとも…」

 

「名医として化けるか、ですか。あなたもなかなかの豪腕ですね」

 

そう答えた理事長は、これから何かいたずらを企んでいる子どもみたいな表情を浮かべていた。そんな理事長の意図など知る由も無く、就職活動を終え、残りのキャンパスライフを満喫している若菜であった。